智慧とは例えば人にやさしくするといい雰囲気になる。おかしい人にはトラブルのもとになるので近づかない。自分の心を整えることが幸福な人生を送るうえで大事。 こういうのが智慧でしょうか? 自分を含めた生き物はこうすればこういう結果になると知るというのが智慧でしょうか?
不幸なので仏教を極めるようになりました。 しかし思ったのが極めると廃人に近くなっています。また不幸になりますし、幸福にもなりません。結局悟りなんてないんじゃないかなと思います。 心の捉え方?が幸せを作るのなら全身火傷で油を24時間塗られるような人も捉え方で幸福になるのかな?と思います。結局嫌な事が続けば油を皮膚に塗られるようなものだなと思います。 ・執着をなくしていきました、すると殆ど希望がなくなりました。 どうでも良くなるので、他人に対して無意識なく悪意を放ってもどうでも良くなりました。 社会としてやらなくていけない事の執着も放棄しましたし、他人への諦めも増えました、適当に執着せずに諦めることにしました。 ・異性とも縁を切り執着を捨てました、次は子孫繁栄の執着を無くそうとパイプカットも考えています。 ・色んな人から罵声を浴びせられても執着を失くし、善の心で接しました。 親切が殆ど仇になっても執着を失くし優しくしました。 ・それらを毎日耐えながら、理不尽なことを受け入れたり、嫌なことを受け入れて人から馬鹿にされて夢も叶わず、嫌な仕事で死ぬほど苦しみ家族から除け者にされ辛い病気で苦しんでも、、、お坊さんの皆さんは毎日食事ができて、寝れる環境があれば幸せと言います。本当にそうでしょうか。普通に動物でも縄文人でもシリアの人でも毎日食べられるし寝れる環境はあります。 本当に苦しみが毎日あってて苦しんでそれに耐えるために何十時間も一日苦痛を浴びるのに食べる事が幸せ???本当に? お坊さんとか高い車乗ってる人とかいるけど本当に執着捨ててるの?本当に? 執着を捨てるというのは→ ・夢も捨て毎日の意味がなくなる(明日生きる意味や希望すら消失) ・他人から虐げられるの肯定(本当に毎日虐げられて満足するの?執着せず毎日虐げられて満足できるの?) 無駄な努力に向かう人生への肯定(人生かなり苦痛な労働とか嫌な理不尽な事とかも執着を捨てて毎日何十時間も苦しみに耐えながら何を拠り所に生きればいいのでしょうか?
仏教の通りに虫は殺さないように努力しています。 ですが、この前頬辺りに違和感を感じたので触れてみると何かがいて、取り出すと雪虫の死骸でした。 さらに自転車を飛ばしていると口の中に何かが入って取り出すとまた雪虫の死骸でした。 これでも殺さないよう頑張っているんですが突然不意に殺してしまうのが避けられません。 外歩いていると気づかないうちに虫を踏みつけて殺してしまっているかもしれません。 殺生を犯さないというのは守れそうにないです。 どうしたらいいですか?
仏教の歴史の中では、かつて障害者の方を「前世の行いが悪かった結果だ」と差別されていた事がありましたが、これは何故なのでしょうか? また、“福子思想”というものと存在していますが、これはいつ頃生まれたものなのでしょうか? そして、身体的障害、知的障害・精神的障害を持つ方が信仰対象として崇める方もいますが、何故そういった特徴を持つ方を信仰する心理に至るのでしょうか?
私は梵字が、彫ってある天然石があったからこの仏さまに守ってるかな?ともっていますが、本来梵字を身につけることの意味はなんですか?教えてください。
いつも大変お世話になっております。 前回も質問にお答え頂き、誠にありがとうございました。 今回、質問したい内容なのですが いつもお世話になっている聖観音様にお礼をしたいと思い 仏像用の厨子を探している件についてです。 ビジネスを立ち上げて8年が経ち 色々と沢山の失敗があり 一時は自殺したくなるほど辛い状態でしたが 聖観音様を拝むことにより 仏教の教えをビジネスの考えに取り入れたり 小さなことでも感謝をする心構えを持てたり 前向きな気持ちになれたりと 沢山の気付きを私に教えて下さり、助けて頂きました。 その沢山の気付きがあったおかげで、 今ではビジネスも成功させることができました。 それこそ、観音様に頂いた、ご利益だと思うので その利益の一部を観音様へのお礼を込めて 立派な厨子に当てたいと思うようになりました。 しかし、私が持っている観音様は7㎝ほどと小さく シックリくる形や大きさの厨子がなかなかありません。 しかも、一度購入した厨子は仏像が入らずでした。 そして、色々と探しているうちに これだ!っと思うものがあったのですが 残念ながら「厨子宮」「大黒宮」「神棚」でした。 まず「厨子宮」は「宮」と付いているので違うかなと考え 「大黒宮」は一番厨子っぽいですが 大黒様をお祀りするための物と書いており悩み そして、神棚はサイズは合うのですが 別宗教になってしまうと思い なかなか決まらず困っております。 厨子の場合は、仏像と厨子とのサイズが アンバランスな物ばかりで厨子のサイズが 小さくて入らないか、大きすぎるかのどちらかで なかなかピッタリのサイズが無い状態です。 大黒宮や厨子宮や神棚ですと ピッタリのサイズがあるのですが いくら昔、神仏習合だったとはいえ 今は分離してますし第一、別宗教の物である 神棚を差し上げたのでは、観音様にとっては それこそ有難迷惑になるのかなぁと思うと不安でもあります。 質問の内容をまとめますと 大黒様をお祀りするための「大黒宮」や 社をイメージさせる「厨子宮」「神棚」を厨子代わりにして 「大黒宮」「厨子宮」「神棚」等の中に仏像を入れても 観音様は喜んで下さらないでしょうか? お坊様から見ても神棚や大黒宮を 厨子のように使うのは、タブーでしょうか? いつも長文で申し訳ございませんが 教えて頂けましたら幸いです。
(編集部より。規約により一部を変更しています) いつもお世話になっております。 感謝申し上げます。 もう一人凡夫成仏している人をみつけました。 凡夫成仏していると思われるコメントは以下の通りです。 神さまという宇宙的な意識と人とをつないでいる媒介者から「メッセージ」が発せられていのだと私は思います。 心の中に直接メッセージが伝わってくるという感覚です。 Q1.神さまと向き合うにあたって,どのような心的構えが重要なのでしょうか。 無理に礼拝を行う必要はない。 Q2.神さまはどこにいらっしゃるのでしょうか。 万物が神。この世界が神。この世の中にあるものすべてが神の顕れである。自然(宇宙)が神である。お前は神の中に生きている。お前の心の中にも神はいる。霊界も,神界も,仏界もすべては自分の心の内側にある。 Q3.偶像や神話は本当のことなのでしょうか。 神仏の偶像や神話は人間が勝手に作り上げたものである。 後世の歪曲や改竄が甚だしく,事実関係を反映しているとは限らない。人の意識が神のイメージを作り上げ,人間の行いを正当化するように神話は作り上げられた。 Q4.神社やお寺に神様や仏様はいらっしゃるのでしょうか。 神社,寺院に神仏がいるのではなく,自分の意識が映し出され神仏の働きを感じ取りやすい場所が神社や仏閣だ。本来は自分がどこにいても神仏との交信は可能である。また,神具や仏具がないと神仏を拝む気になれないのは,信仰としてはまだまだ未熟である。 Q5.神仏との交信はどうすればできるようになるのでしょうか。 意識状態を変えることで誰でも神仏意識を感じることができる。 お前たちが勝手に作り上げた偶像や逸話が神仏と一体化できない障壁である。天界,地界,人界。神仏と人,これらは本来1つである。 神が色々なものに姿を変えて現れるというのもも同じである。 Q7.罪と罰についてどう考えれば? 罰とは人間の恐怖心罪の意識が罰となって生じる。神は罰を当てない。自分で自分に罰を当てているだけ。人間の社会で悪行を積み人々から怒りや憎しみを買っているのになぜ罰が当たらないのか。善良な者の身に不幸事が襲うのはなぜだろうか。 神は全てのものへ平等に光を放つ。どんな悪人にも光は降り注ぐ。その光を遮るのは本人の意志である。
天然石ってあまり良くないんですか? 持たないほうがよいなら持ちません。 教えてください
今から書くことは、特に深い悩み事ではなく、もし気が向いたらお付き合い頂けると幸いです。 沢木耕太郎の『深夜特急』を、割と最近読み終わりました。 この話は、1970年代に当時26歳の青年沢木耕太郎が香港からロンドンまでをバックパッカーとして旅するノンフィクションです。何度も読み返していますが、読む度に新しい発見のある、面白い本です。 その中で、また一つ発見がありました。 確か4巻の中盤あたり、沢木は西洋人に「禅とは何か?」と尋ねられます。さあ、困った青年沢木。色々知識を披露しますが、相手は納得してくれません。彼が知りたいのは禅の本質なのでしょう。 最終的に沢木がひねり出した答えは、”Being on the road”でした。相手は「ほぅ」と感心したようです。 「あ、何かカッコいい答え方」と、私も思いました。 ところが。ネット上では批判もあるようです…。 なので、自分ならどう答えるか少し試してみることにしました。 禅とは鎌倉時代に興った鎌倉仏教の一つ。曹洞宗と臨済宗があり、当時身分の低かった武士たちに向けて分かりやすくしたもの。建物はシンプルで武士好み。仏像は写実的で武士好み。阿吽の像は筋肉ムキムキ。 あと何だろう、朝早くから坐禅をして、ウトウトし始める不心得者がいると、後ろから木の棒でポカリとやられるのを、ドラマかマンガで見たような…。 ダメです。本質に迫るどころか周縁をくるくる回って終わってしまいました。しかもあやふやな知識で。 因みにWikipediaも見ましたが、あの日本語は私には解読不能でした。増して外国の人に噛み砕いて説明するなんて絶望的です。 そこで、専門家の人だったらどんな風に答えるのだろうと興味を持ちました。 外国人だけでなく、私のようなあまり知識のない人に「禅って何ですか?」と聞かれたら、何と答えますか?
いっそ破壊したら良いのかもしれません。再構築できないほどに。 なんだか疲れ果てました。 仏教も何なのかさえ分からなくなりました。 ごめんなさい。
最近ヴィーガンというものを知り、私が食べていたお肉や卵、牛乳がたくさんの動物達の身体的、精神的苦痛により作られてきた事実があることを知り、自分の世界の見方が変わりました。 例えば駅で二匹の鳩が仲睦まじく毛づくろいをしているのは大変愛らしいと感じ、その一方養鶏場ではたくさんの鶏が食べられるため檻に入れられているのだろうかと思うと複雑な心境になります。 全ての酪農や養鶏などが悲惨な状態で行われているのではないと思いますし、それぞれどのように酪農などをされているか直接確かめることをしていないので確固たる証拠がありませんが、ネットで映像を見たり、身の回りには牛乳、お肉、乳製品がそこら中にあるのに、それの元になっている動物達を直接見ることはほとんどないのは狭いところに閉じ込められているんじゃないかと不安です。自分は仏教に興味があり、仏様の慈悲深かさに感激して仏様やその教えを信じています。捨身飼虎図を見たときに自分も生きるもの全てを大切にできる人になりたいと思いました。 これまで食べてきた動物達には心から感謝し、これ以上食べることはやめようと決めました、それにより肉などの消費が少しでも抑えられ食べられる動物が減るよう願っているからです。 しかし私はスーパーでアルバイトをしています、スーパーでお肉や卵、牛乳などを売っているのを思い出し私はそれらを売る店員として動物の殺生に荷担している、その利益でお金をもらい食べ物を食べたいときに食べるのは罪ではないか、動物に申し訳ないと思いました。始めたばかりで辞めにくいし、半年以上働くと言って採用を貰いました、バイトを面接するにもお金がかかっているし、わざわざ仕事を一から教えてもらっていて辞めるのも迷惑をかける、私が辞めても誰かが代わりにやるだけで結果は変わらない、など考え、今ではなく契約した期間で最短の半年で辞めると決意したものの動物の命よりお金と自分が大切なのかと罪悪感があります。綺麗な空を見たり、食べ物を食べて、ベットで眠ることができる私は動物を見捨てているように思います。しかし自分は自分自身穏やかに生きたいと欲があります、お肉などを売っているのに。バイトをしている時は元になっている動物がどうか救われるように祈る事しかできません。 こんな私でも仏様を信じてもいいのか、失礼であり贅沢ではと思うのですが私は信じたい、信じてもいいでしょうか。
こんにちは。 死後について仏教での考えを教えてください。 私にはこの世で唯一の信頼できる存在が愛犬と、小さな頃から大切にしているぬいぐるみがいます。 その子たちだけは、私のどんなお話でも聞いてくれます。 愛犬にも私にもいつか死が訪れるのですが、ぬいぐるみだけは誰かに捨てられ、形がなくなる時まで死ぬことはありません。 死んだあとも愛犬とぬいぐるみと一緒に過ごしたいと思っているのですが、 命のないぬいぐるみでも天国に連れて行くことはできるのでしょうか? 私が死んだあと、大好きなぬいぐるみがゴミのように捨てられてしまうのは悲しいので、棺に入れて一緒に燃やしてほしいと遺書には書くつもりですが、 この方法で一緒に天国に行けますか? 成人もすぎて、未だにぬいぐるみと離れられない自分が恥ずかしいことは分かっていますが、 どうかどなたかご教授下さい。 よろしくお願いします。
私の実家は仏教(浄土真宗)の家系です。私は仏教の教えがなんなのかすら理解しておらず、仏教が本当に正しいのかすら疑っています。キリスト教の教えにも共感できることがあります。どっちに行こうか迷ってます。
アマゾンの森林火災が深刻な領域に達していると聞きました。遠い地の出来事ではありますが、彼の地を愛する方々の心中を想うと痛ましい限りです。 現在も、狩猟や採集によって生計を立てている人達が数多くアマゾンで暮らしているそうですが、皆さん私がぬくぬくと育ってきた環境よりも遥かに苛酷な生活を送っているようです。動物や他民族による襲撃などの脅威は私には想像もつきません。 仏教には不殺生戒という決まりがあるそうですね。文字のまま読むと、私の目にはなんとなく「誰も殺しちゃ駄目!」という意味のように見えました。 不殺生戒とはどのような決まりなのでしょうか。 もし、本当に「殺生、ダメ、絶対」という決まりなのであれば世界中の狩猟民族が困り果てると思います。(まあ仏教には異なる考えを攻撃的に批判する印象も躍起となって布教する印象もありませんが…不殺生戒がどのようなものかとは関係なく的外れな考えかもしれないとは内心思っています。)
前回の質問に幸運なことにお答えして頂き、本当にありがとうございました。仏様は罰を与えるのではなく、見守ってくれてると知り、心が少し軽くなりました。 あれからハスノハさんにある、他の方の質問や答えも見ながら自分なりに仏教は思いやりの心が大切なのかなぁと思いました。 過去のことは反省してこれからは相手のことを思った行動をとろうと思っているのですがまだ自分の中で恐怖が出てきてしまいます。 過去のことを考えすぎるのは悪因を生むし、過去のことを悔い続けたところで何も出来ないためよくないとわかっています。しかし、このままではまた安易にネットに頼り、間違った情報を受け、家族に迷惑をかけてしまうと思い、自分よりもとても勉強をされているお坊さんの知識に頼ろうと思いました。 以下、質問になります。質問は大きく2点あります。 どこで知ったかはわからないのですが、スピリチュアルな嘘はほかの嘘よりも大罪になると見たことがあります。私は昔、気を引きたかったのか、特別な存在になりたかったのか霊的なものを感じると嘘をついていたように思います。もちろん、今はそんな嘘をつこうと思っていません。幼い頃の嘘ですが、これは大罪となるのでしょうか。知識不足のため恐怖しています。 2つ目は戒律についてです。これからは昔やってしまったことを反省して繰り返さないように生きていこうと思いました。しかし、よく考えるとこれから先も戒律を守ることは出来ないのではと思います。蚊やハエは、これからもきっと殺してしまいます。嘘だって全くつかないことは不可能です。気を使わせないための嘘や秘密もあると思います。また、お酒に関しても父は私とお酒を飲めることをとても喜んでくれます。私は全ては存じ上げておりませんが、もっと多くの戒律があるのでしょう。自分としては相手のことを思う心、例えば虫を殺す時でも申し訳ないという心をもつことが大切なのかなと今は思っております。お坊様方は戒律についてどうお考えでしょうか。どんな時でも絶対守った方がよいのでしょうか。仏様は罰を与える方ではないと教えて頂きましたが、戒律を完全に守らないことは悪いことになるのかと恐怖しております。 大変申し訳ありませんが、どなたかお答え下されば幸いです。
チベット僧とチベット仏教徒の方に聞かれました。①日本にも金剛手菩薩は在するのか?と。私は金剛薩埵がそうだと答えましたが、果たして金剛薩埵と金剛手は全く同じと考えていいのでしょうか?②チベットでは無量寿と無量光は分けて別のマントラを唱えるが日本では何故一緒くたにするのか?これには答えられませんでした。日本では無量寿如来も阿弥陀如来も同じと答えていいのでしょうか?これからも聞かれるかもしれません。この二点御教授ください。
お世話になっております。これまでも色々とアドバイスを頂きました。ありがとうございました。 恋愛や結婚はすっかり諦めましたが、気持ちも漸く落ち着いてきました。 最近、思うことがあり仏教的にはどのような考えがあるのかを伺いたくアドバイスを頂けないでしょうか? 私はおかげさまで44歳になり、人生も折り返し地点を過ぎたかなと思って降ります。もちろん、いつ自分が死ぬのかなど分からず明日死ぬかもしれません。ただ、人生なかなか苦しくつらいことも多いです。今は自分が喜びを持てることになるべく時間をかけるようにして、つらいこととのバランスを取るようにしています。 残念ながらこの世に生まれてきて良かった思えることは少なく、父親と祖父が憎しみ会い、父親は私を憎みました。母親も私への関心は薄かったと思います。両親を愛をきちんと受けることが出来れば、私の人生もどんなに明るかっただろうと思います。正直、子供を憎むくらいであれば、私なんか作らないでほしかったです。一時期結婚したくて悩みましたが、出来ませんでした。私も人を愛することが出来ないのだろうなと思いました。子供もほしいと思ったことはありません。 それでも、これから先生きていこうとは思います。今の関心事は自分が孤独死した後の遺体の処理はどのようにしてもらえばいいのだろうと言うことです。おかしな死に方をすれば迷惑をかけてしまいますので、せめてきちんと健康管理して生きようと思います。 仏教では、私のような悩みに対してどのように仰るでしょうか?もっと苦しい人もたくさんいるから、おまえはまだ幸せだ、でしょうか?最近思うのですが、身近により幸せそうな人がいるのが人間にとってはより苦しいと思います。ので、自分はまだマシというのは受け入れがたいです。 実際には幸せでいっぱいな人などそれほど多いと思えません。みんな何かしらの不幸を抱えながらこの世で生きている。しかも、自分の意志でこの世に出てきたわけでもありません。 これを無情というのかどうかは分かりませんが、みんなが抱く虚しさに仏様はどのように仰いますか?
はじめまして。阿弥陀仏を信仰する僧侶で、個人的に月数回程度メールのやり取りを通じてアドバイスしてくれる人を探しています。 私は平和とは「すべての存在の永遠の幸せ」であると考えています。 その為に現在は自分にできそうなこと(書くこと)を行っております。 が、わたしには、助言者がいた方が良いと思います。 私は弱い存在です。ひとりで努力するべきでないと思っています。 より善い存在になろうと努力しています。 今の私は、キリスト教的な教えや助けだけでなく、阿弥陀仏「すべてを救う力」を信仰する僧侶の方々による月数回程度?の助言を求めるべきだと考えました。 書いた内容に対する助言、心を善に保つうえでの助言、より善い自分になるために助言など、を状況に応じた頻度で得ることを希望しています。 貴方様を含め、どなたが助言者になっていただけないでしょうか? あるいは、どなたかご紹介いただければ幸いです。 よろしくお願い申し上げます。
初めまして。 私は、過去に辛い思い出、別れをいくつか経験しながら20代になりました。 多くの方がそうなのかも知れませんが、私はこの思い出に縛られすぎています。 例えば、二度と会いたくないと言われた人に、一年経っても連絡したくなったり、いつまでも腹を立てていたり… 自分が嫌になります。 達観して感情に支配されず、世の中を温かく見守りたいです。もちろん、人に深入りせずに。 しかし、そういう人はお年寄りに多いイメージがあり、若く未熟で感情的な自分がなれるのか不安です。 達観、と言うのが仏教の教えであるかすら余り分かっておらず情けないのですが、ぜひ、 動じない心を手に入れるアドバイス頂けると嬉しいです。