「師匠無しは外道です。仏教は世界を救うためにあります」
坐禅会で副住さんと二人きりだった。
気候に依るか、今日は二人だけという縁に依るものであったのか、僕がムカつく顔をしていたのか…なるようにして、そうなったのでしょうが…。
会話量は僕が2、お坊様が8くらいでした。法話聞きに行ってるので。
風の吹き方一つで虫の居所も変わるでしょうし…なるようになったのか?
「山には色んな入口と登り方があり、諸宗教も同じですよ。」
僕「山なんて本来無いのでは?」
「貴方と話してるとウンザリするんですよ…こう言うのも面倒くさいんです(半笑い)」
「えっ」
突然だったので驚きました。これは何らかの方便なのでしょうか?
縁が整った故の個人的な考えですが、神様には個々人の内に誕生日があって、各々が見聞していく中で神々の造形や威光が深められていき、その信徒が己の生み考えた偶像にひれ伏すようになっていく。そういった一切は縁起に依り、各々が思うように仕立て上げていると気付くために坐禅等の諸行によって三昧、思い込みの縄を解き、無自性=縁起に気付き、よくよく見極めていく。
「自覚」縁起の教えが仏教。そこが諸宗教と一線を画する所では?
と考えています。
そう思える縁が整っただけですが…。
上記のような屁理屈だって蹴倒れる程に悲しい。
因縁仮和合云々並び立てても殴られりゃ痛いし、彼の軽蔑は悲しい。
それで心相続していって変遷していく。
またその場の気分も風の吹き方一つで変わるので、次はお寺に行くかもしれないし、行かないかもしれない。嵐か地震が来るかもしれないし、実際は考えに依ってくれないし。
世界を救うって何を…?
僕「師がいなくて外道なら、在家信者は外道ですか?」
「師ならそこらじゅうのお寺にいるでしょう。
解釈に囚われているから、そういった考えになるんです」
僕「はい」
「ウチは檀家100件を超えておりますが、法事をして救いもして、救いもしない事が救いになる事もありますよ」
「師について学ばないとオウムと変わりませんよ。空だから〇してもいいっていう」
僕「え?(なんで突然オウム?そもそも誰かを〇すなんて)」
彼が気に入るだろう答案を提出できる縁に僕は恵まれなかった。
痛い位に今日の彼から伝わってきたのはもう僕に二度と会いたくないってこと。
僕が出来るのって出来る限り接する人に親切にしていこうと願う事位。
世界を救うって何?彼の真意は何でしょう?
有り難し 113
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