一般人が、少しでも無明の闇を晴らすには、日々具体的にはどのように行動したらいいのでしょうか?よろしくお願いします。
昨年末からお経に興味を持ち始め、スマホと電子辞書を傍らにお経の一節一節をわかりやすいように今の言葉に変えています。 元から古典が好きなのと、漢字や言葉にひかれるところもあって、この作業が楽しくてしょうがありません。 時代背景を理解するために、親鸞様の本を読んでいた時のことです。 たまたま知人にその本を見つかってしまい「変わった本読んでるね」と言われたのでお経を読み砕いている話をしたら 一言目に「俺はさ、宗教なんていらないと思ってるよ」と切り出され「お経をわかりやすく読もうとか本当にマジ、キモいから」と。 お経をわかりやすくすることを否定された訳ではないのですが、会う度に(週1ぐらい)「仏教野郎が来た!」とか「仏教なんて信仰する奴の気がしれない」と。 はっきり言われたのは「仏教の話なんかしてたら、変わってると思われるし、キチガイみたいだからやめた方がいい」 私は仏教の話ばかりしている訳ではないし、仏様を信じるべきだ!と声高に強調したこともありません。 ただ、親鸞様の本を読んでいたことと、親兄弟知人でもない誰かが常に自分を見ていてくれて、救ってくれるとしたらありがたい(お釈迦様や阿弥陀様)としか話していません。 高1の娘にも誤解されていて、私が朗読の会の先生からいただいた「法性寺」という発声練習に使うプリントを読んでいたら 「家の中でお経あげるのやめて!!」 と言われ、違うことを説明したんですが 「家の中でお経読んだり、法話聞いたり、気持ち悪いことばかりしてるから間違ったんだよ!」とキレられました。 私にとって仏教とは子供でも、大人でも心の支えになるんじゃないかと思っていて。 でも、そう断言できるほどの知識がある訳でもなく、どこかのお寺に通っている訳でもなく、ただ楽しくてお経を読み砕いているだけなので説得力がありません。 先に話した知人も「仏教、仏教って変人ここに極まれりですね」と馬鹿にしてくるし、「俺を本当に巻き込まないでくださいね!」と念押しされるし。 お経を通じて、仏教に心を寄せていくことは他人から全否定されるぐらい、おかしなことなんでしょうか? 長くなりましたが、よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 私は極端なチキンです。周りが 怖くて仕方ありません。その反動で、 時折攻撃性が高くなってしまうことも あります。攻撃性は様々な皆さんの ご支援の元抑えられています。 油断すると出てしまいますが‥ (勧誘員さんをからかったり等) ですが、そんな自分に強い劣等感 を感じています。 自分は仏様の娘である、と思って 日々生活しておりますが、その責任 に押し潰されそうになる時が 増えました。 私は不動明王を父、阿弥陀仏を 母と仰いで暮らしています。 ですが私はあまりにも両親に似て いません。恐怖のあまり、人が通っ たり視線を感じれば身構えます。 これのどこが「不動」なので しょうか? こればかりは宗教に疎い支援者 はわからないと思います。 先生方のご意見が聞きたいです。 よろしくお願いいたします。
自分が考える救いとは、無感覚になることです。 迷いを引き受けるとか、しっかり迷うとか、答えは自分のなかにある(道を探求する、道を歩む)とかしんどいのでどうでもいいと思います。 念仏を唱えるのも違和感があるし、修行は無感覚になれるわけではないので無意味です。 悟りの段階が上がると無感情のように見えると聞いたことがあり、憧れますが仏教の悟りは廃人化ではないらしいのでこれも救いとは違うのでしょう。 世間一般的にある努力や苦労をたくさんしろという風潮や、自分の本能的な?遺伝子に組み込まれている?より良くを求める脳の神経の反応(これが仏性的なものか?)もどうかと思います。美しくなければ生きていても仕方がないです。 感覚を断ち切るには死しかないのではないか? と考えますがそこまで思い切れる力もないので、無感覚者として浮遊しているのを夢想します。何か感覚を断ち切れる良い薬があれば欲しいです。ぶらぶらさすらっていてもなんの解決にもなりません。 これまでこれからのいいことよりも、隅々まで行き渡った平穏が楽に簡単に苦行なしで欲しいです。 心境を述べているだけで、一体何を期待しているのか? よくわからないですがよかったらなにかコメントよろしくお願いします。
いつも回答されているお坊さま方、お疲れさまでございます。 私もぜひお答えをいただきたいことがありご質問しました。 どうぞよろしくお願いいたします。 私は今、転職・結婚・引っ越しと人生の転機が重なっています。 周りの人の助けもあって想像していたよりも大変ではないのですが、そのなかでもやはり一人で抱えきれない思いというのがあります。 そんなとき私はいつも主人や友達やカウンセラーの方に話を聞いてもらっていたのですが、仏教関連の本を読んでいたところ「話したいことがあれば仏さまに聞いていただけばよい」というような記述を見かけ、とても興味を持ちました。 というのも、誰か他の人に話を聞いてもらうとその人を拘束するようで心苦しいですし、自分のほしい反応が返って来ないとその人を恨んでしまうなど余計なことをしてしまって良くないと思うからです。 そこで質問なのですが、仏さまに話を聞いていただくときの作法のようなものはありますか? 私は今はとりあえず合掌して「仏さま、私の話を聞いてください。(話し終えたら)聞いていただいてありがとうございました」というふうにしていますが、それで良いでしょうか? 仏さまは慈愛溢れる存在なのでこんな細かなことで怒ったりはなさらないと思うのですが、どうせやるなら作法に適った方法を取りたいと思いました。 なにかご真言を唱えるとか、お経を唱えるとか、挨拶のようなものがありますか? ちなみに私は一応仏教徒ですが、母方は浄土宗、父方は真言宗、夫の実家は不明という感じで宗派がよくわからず、家に仏壇もありません。 どうぞご指導くださいますようお願いいたします。
幼い頃から、念仏に親しんで生きてきましたが、最近疑問に思い、法華に興味があります。禅にも興味があります。母は天台宗の名刹の山内寺院の出身なので、天台宗に回帰したいという思いもあります。私はどうしたら良いでしょうか?
実家が日蓮宗の寺で、私は企業で働いています。父親が僧侶で母親は寺の仕事だけしています。そんな両親に、「仏飯を食べて生きてきたんだから拝まないとバチが当たる」「寺を継がないと(私は女なので寺の奥さんにならないと)バチが当たる」と言われます。そこで思ったのですが、仏様は罪ある人でも救う存在であるはずなのにそんな簡単に罰を与えるのでしょうか。そこで多少調べてみると、日蓮宗にバチが当たるという概念が強いような印象を受けました。ただ「題目を受持し誹謗しないことが求められる」とあり、私は自ずから積極的には拝まないだけで、誹謗はしていません。それでも「拝む」という行為をしなければバチが当たるのでしょうか。寺に産まれた者は後継者のいない寺を継がなければバチが当たるのでしょうか。 そもそも仏罰という概念がいつできたものなのか、宗派などによって違うのか知りたいです。仏罰が本当にあるとしたらどのようなことが仏罰の対象に当たるのか知りたいです。宜しくお願い致します。
仏教ほど、多様性があって、宇宙にも明るい宗教は他にないと個人的に思います。だから、宇宙人が仏教を信仰してもおかしくないはずです。お坊さんの自由で面白い意見を聞きたいです。
二つ程お坊さんが普段感じている事を教えて欲しいのと、一つのお願いがあります Q1 神道の神様、仏教の仏様をモチーフとして“オタク”と呼ばれる人向けに(?)可愛らしい美少女やカッコイイ美男子みたいにアニメや漫画っぽく神様や仏様が描かれる事がありますよね それについてどのように感じますか? Q2 天罰、仏罰など「悪い事をしたらバチが当たるぞ!」ってのは聞くのですが本当に本当に「悪い事をしたら」必ず罰が下されるのでしょうか?どう思いますか? 【ここからは私の告白とお願い】 私は時として女性の姿をした神仏を想い邪淫を行う事があります 実際に邪淫に至らなくても女性の姿の神仏で卑猥な妄想をする事がよくあります 本来ならば対象なぞ関係なく「劣情を抱く事」「邪淫を行う事」これがまずいけないのは理解しているつもりです …が、どうせ私はこれからもそれらをやめる事なんて絶対に出来ないしもうそんな自分を変えるつもりもないです しかしその邪淫の対象が神仏である事だけは絶対にあってはならない 決して神仏に対してそのような劣情を抱いてはいけないと思っています たとえ邪淫に耽ろうとも楽しもうとも、その時に神仏を想い浮かべる事だけは絶対にやめなくてはならない 絶対に私が変わらなくてはならない事だと思っています このような件は面と向かったら口が裂けても言えないですし、私にはまだ何の制裁、叱責、バチも与えられていません 神仏を利用して【自】分を【慰】める どこまでも淫らでバチあたりな私を叱っては頂けませんか 大変見苦しい文ですみません どうかよろしくお願いします
お久しぶりの投稿になります! ふと気づいたことがあるのですが、神仏習合の考えを持っている方や信仰をしている方はまだ存在するのでしょうか? 自分はその考えに賛成だと考えていますが、今の時代信仰しても大丈夫なのでしょうか? すごく気になる質問になります! どうかご回答よろしくお願いします🙇🏻
仏教ではどのような行為を善行といって、どのような行為を悪行というのか、知りたいです。教えてください。
私62歳男です。墓についての相談をさせて頂きます。9年前までは東京に住んでいまして今は約500kmほど離れた地方に住んでいます。両親はすでに他界していまして祖父の時からの墓地が都営霊園にあります。父には8人兄弟と腹違いの弟80歳(いわゆる私生児で私からみて叔父)がいます。叔父は生母が3歳位でなくなれたとの事で父や他の兄弟と一緒に暮らしていた時期もあり仲良く交流もありました。特に私の両親とは住まいも比較的近かったこともあり叔父の奥さん(叔母)も私の両親をとても大切にしてくれていました。が私の両親亡き後、他の親戚とは仏事を除き通常の交流はありません。唯一私が1年に1〜2度会って食事をしたりはしています。その叔母が昨年9月頃亡くなり(親戚には知らせていないとの事)私は喪中葉書をもらい直ぐ叔父の元に行き私が確認するも他に知らせなくて良いとのことでした。叔母も先方の甥の方以外の身内との交流はなく、叔父はまさに天涯孤独になってしまいました。(私とは戸籍上の繋がりはないので)叔母に最初に手を合わさせて頂いたあと叔父と話をしましたが、「もうどうでもいいや」などとかなり気弱になっていましたので叔父さんが望むなら私が引き受けると話すと少しほっとした様子で「独りじゃないんだな・・」と言ってくれそれからは毎週1〜2回程度電話をしています。 前段が長くなりすみません、叔父は叔母の遺骨を住まい近くの納骨堂に埋蔵したいとの事です。それは私も賛成です。そしていずれ自分も同じ所にと思っているようです。ただいずれ私が居なくなると誰も叔父夫妻の所にお参りに行くことはなくなるでしょう。(叔父はそれで良いと言っていますが)そこで私の家の墓に叔父亡き後は叔母と一緒に埋葬できないか?霊園の制度や費用の点も考慮し埋葬するところは同じで墓誌を叔父夫婦の為に別にするのはどうかと思います。もちろん叔父本人が拒否するかもしれません。また私の姉(外に嫁いでいます)まだ健在の他の叔父1人叔母3人がおり反対するかもしれません。私は叔父本人が了解すること、法的にも霊園的にも問題がなければ良いのではと思いますが仏教的にはいかがなものなのでしょうか?この話を叔父に伝えた場合傷をつけることになるでしょうか?またご先祖様はどう思われるのかなと考えています。教えください。
先日、祖父の葬儀を終えて以来仏教に興味が湧いてきたので勉強したいと考えたのですが、まずどこから何の知識を得たらいいのかわかりません...。 宗派などもよくわかっていませんし...。 仏教初心者はどこから学ぶべきでしょうか??
様々な宗教や仏教にも興味があり、著者に殆ど改変されていないブッダの教えに興味があります。 仏教の初心者ですが、スッタニパータの他におススメがありましたら教えて頂けると嬉しいです。
イチローの功績が仏教解説に引用されたり、多くの僧侶様が二足わらじで多方面にご活躍されていたりと、仏教の教えには病のような苦しみの渦中から救う他に、現代社会の成功哲学に通じる側面もあるのではないかと思います。 (成功よりも活躍と表現した方が相応しいかもしれません。) 偉大な仏の姿を身近に感じているだけでも、慢心や傲慢になってしまうことの戒めになると想像できますが、それは今の私にとっては多分まだ先の話かなと思います。 (人生もう一花咲かせてやりたいという野心はやっぱり捨てられませんが、それは10年・20年をかけてでもというビジョンでいるつもりです。) とりあえず社会復帰というレベルでの成功の第一歩をイメージしただけでも、それが”欲”のようにさえ感じてしまうのが、病魔に仏との交信を妨げられているというか、歪められているように感じてしまいます。
日本のとある仏教宗派に属する、とあるお坊さんが出した本に、 憎しみで体調が悪い人に対して、まず、嫌な相手の前で自分自身が土下座している想像をし、 「私はあなたを憎みません。私はあなたに感謝しています。」という趣旨を心の中で三回以上、毎日唱えると、次第に体調が回復すると書いてあったのですが、 友人にそのことを話したら、「なんか、逆にいらついてこないかな?」という感想もあったのですが、 これは、ちゃんとした意味のある、自己催眠法なんですよね? どういう理屈や仕組みで、憎しみが減るのか、どなたかわかる方はいらっしゃいますか?
真宗の救いについてお尋ねします。 言葉の間違い等あるかもしれませんが ご容赦ください。 阿弥陀様に救われるには 信心をいただき感謝をしていくことが 教えであると解釈しているのですが。 それは現在生きている人に対してであり 既に亡くなった人に対しては どういう教えになるのでしょうか? 例えば まったく真宗の信仰がない家庭で 親を亡くした子と話す機会があるとし また、子は成人以上の歳とします。 その時に真宗の教えを子に話しますが 親は生前に信心がないと思います。 どんな言葉を子にあげられるのでしょう? 信心なく亡くなった人は その後どう救われていくのでしょう? いろいろと調べてみたところ 信心なければ救われないという話と そうではないという話を読みましたが どうもわかりませんでした。 お手隙のお時間に 返答いただけましたら幸いです。
こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。
初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。
最近、お浄土にはたくさんの種類があると知りました。 私の家系は浄土真宗なので、阿弥陀様の極楽浄土に生まれ変わらせていただくことになると思います。 ということは、生前に阿弥陀如来様を信仰していた人と、死後に極楽浄土で再会できるということでしょうか? また、たとえば薬師如来様を御本尊として信仰している人が往生した場合、東方浄瑠璃浄土というお浄土に行きますよね? そうした場合、私はその人とは会えなくなってしまうのですか? 仏教初心者なので、どこか間違っていたら申し訳ありません。 いろんな宗派のお坊様から回答をいただけたらありがたく思います。 よろしくお願いいたします。