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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

浮世(憂き世)

 昭和初期の演歌というか流行歌の歌詞には浮世(または憂き世)と言う言葉が頻繫に使われました。  輪廻転生が真実となれば、この言葉は重要な意味を持ちます。  輪廻転生即ち心が永久に生き続けるということは、この世に死がある限り心は現世と来世(後生)の二つの環境を持つことになります。  到達が極めて困難な涅槃に依る智慧の完成を除けば、心は二つの環境のどちらが真実の住処であるかと言うことを考える必要があります。  当然死を伴う現世より来世が真実であることは明確です。  そこで現世に憂き世と言う言葉が使われるのだろうと思います。  現実に現世を生きることは大変です。  空気と水は兎も角、食料は殺生を伴うものが大部分です。  五戒にある如く殺生は悪の根源です。悪人でなければ生きることはできません。  しかし生きる為の必要悪ですから、ここから弱肉強食の世界が広がります。  現在の世界情勢の表れもこれが根源でしょう。  死ねば殺生は無くなりますが、心がそのままでは、再び転生が繰り返され、殺生を余儀なくされます。  現世では来世に留まるべく心の修行が必要になります。  これが仏教ではないでしょうか?

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十善戒の教えは、守りやすい順番に並んでいるのですか?

はじめまして、お忙しい中恐縮ですが、気になることを質問をさせていただきます。 私は読書ブログで本を紹介させていただいたり、本の内容を暮らしの中で活用したお話を書いています。 仏教の本は、暮らしの中で自分も相手も気持ちよく暮らせる取り組みが多く、よく紹介させていただいております。 先日取り上げた本には、十善戒について書かれた内容があり、暮らしの中でできているかを当てはめてみました(心に思っただけのことも入れて自信を持ってできる!といえるコトは1つだけですが…) 本では十善戒を、①殺生しない、②盗まない、③性において淫らな行為をしない、④嘘をつかない、⑤意味のない流行り言葉を使わない、⑥悪口をいわない、⑦二枚舌を使わない、⑧貪らない、⑨愚痴らない、怨みや妬み羨み怒りの心を持たない、⑩愚かな考えをおこさない、と紹介されていました。 実際に暮らしに当てはめてみると、「暮らしに合わせて3つに分けられるのでは?」と思えてきました。 ①〜④までの教えは、最低限、「生きていく」のに守らなければならない決まり。 ⑤〜⑦は、家族と仲良く暮らしたり、地域や会社でトラブルを減らす「社会で暮らす」のに欠かせないこと。 ⑧〜⑩は、自分の心の中の出来事でもあるので「幸せを感じる」のに必要なこと。 ちょうど順番通りになっていたので、もしかしたら元になったお経でも「こうなっているのかな?」、まとめていてふと思えてきました。 十善戒の中で「生きていく」ための決まりは守りやすく、後半の「幸せを感じる」のに必要なことはとても難しいと感じます。 教えの元になったお経では、順番によって守りやすさはあるのでしょうか? 解説書などでは、何かしらの分け方があるのでしょうか? 専門家のお坊さまに、お時間のあるときで構いませんので教えていただきたく思います。 緊迫する悩み事ではありませんので、本当にお時間のあるときで構いません。

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「動植咸栄」と、うったえ続けるべきだと思うのですが...

私は、子どもの頃から、人類の、目を覆うばかりの傲慢さが どうにも許し難くて... そのような思いばかりが充満している者であることを、そろそろ白状しなければ、と考え始めたところでしたので、 再三になりますがお邪魔いたします もう50年間も抱えているコトですから、ご応答頂けますとしても、ずっと後日でけっこうでございます。 私は、人間として生まれた者であれば物心がつく頃までに当たり前に辿り着くはずの 「人間のステージ」に、私は上がりそこなったまま.. そのような感覚の者です 土地というもの(この星の命とも言える「表土」)が人間の持ち物になっていること自体あり得ない!! という思考回路しか持ち合わせない者ですので、頭も心も現実の社会にはまるで向かず、耳に入ってくるニュースの大半に強い違和感を覚える日々です 自分の感覚(センサー?)を緩衝材でグルグル巻きに包み込み、何も感じないようにしないと対処できないことも生じています (絵本一つにしても、例えば、のどかな野中の池、その周りに集まる動物たちの交流、といった、一般には「かわいらしいお話ね」と言われる類の話にしても、私は 『現実には、そのような池も、ある日突然、巨大な機械がやってきて潰されてしまうわけで・・』という思いが重たき過ぎて、甚だ受け入れ難く・・) 明治維新以前の日本は、戦闘を避ける知恵(人類の珠玉ではないでしょうか?) を会得していただけでもすばらしいことですが、この天体の一生物としての、身の丈に合った文化であったと思われます 西洋の産業革命以降、加速度的に変容してしまった文化は、まさに 兼好法師の言われる『 煩悩の増長したるもの』(徒然草38段)であると思えて仕方ないのです 東大寺の大仏建立時、聖武天皇の詔の中 《動植咸栄》との文言 (人類だけが栄えることは過ちである、と私は意訳させて頂きたく思ってしまいます) これは仏教の影響も大きいものと思われるのですが...? 実現は極めて困難、いえ不可能なことであっても この星に生を受けた成員として けっして忘れてはいけないコトを、  我々生き物の まん真ん中に通っているはずの一本の心の柱を、 繰り返し繰り返し、うったえ続けていく必要があると思うのですが... 戦争という、人類の愚かしい文明から抜け出すには あらゆる兵器の全廃しかない、と訴えることと同じく。

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死は存在しない

もう10年以上も前になりますが、母の命日が近付くと、色々と考えます。 不治の病を宣告された母。いわゆる「手かざし系宗教」の信者である叔母(母の妹)から勧誘され、藁にもすがる思いで行った本山で「あなたには助からない相が出ている」などと訳知り顔で告げられた母。 同行した父親も勧誘されましたが、断ったとの事。 (父も母も、元々は徹底した無宗教、無神論の人でした) 母は闘病中も死の間際も、「私が死んだら○○を宜しく」 なんて言葉は一言も言いませんでした。 私は、人の思考は死を思う為には出来ていないと考えます。 脳はあくまで、身体を効率よく動かし合理的に生き延びる為に、進化の過程で生物が獲得した器官であり、「死」なんて抽象的な思考を弄ぶ為のものではないと思うんです。 死んで肉体の機能が停止すれば、感覚器官(眼や耳、肌など)も停止し、仮に死後が存在するにしても、想像を絶する世界を見て、感じるはずです。軽々と「死後の世界」なんて言えるはずが無いです。 生物の脳も身体も、ひたすら生きる為に作られています。死ぬためにつくられてる訳じゃないです。だからこの脳、この身体で死について考えること自体ナンセンスで、飛ぶ為に作られていない私の手で、鳥のように空を飛ぼうとするようなものです。 お釈迦さまが死後を無記とした真意は… 私は、死後が浄土であれ輪廻であれ、あるいは本当に恐ろしい事ですが正真正銘の「無」であっても、仏教の救いに変わりはないと言う事ではないかと考えます。 人は死なないです。死の間際でも、風邪をひいたように、一晩明ければケロリと治ってると心の奥底では信じて最後の日まで生き続けるのではないでしょうか。 母は死の間際まで死を考えませんでした。少なくとも、口には全く出しませんでした。何かを悟っていたのか、一片の悟りもなく生にしがみついていたのか今では分かりません。 ただ、母の姿を思うと私も生の続く限り全力で生きたいと思うばかりです。 「生きてる時は死んでいない、死んだら生は無い、だから死は存在しない。死を恐れず、生を全うせよ」と言ったギリシアの哲人に、私は賛成です。 こーゆー考えもまた、妄想でしょうか? 「これだけ問答を重ねて、君はまだ何も分かってない」とお叱りは覚悟の上です。 日々、人の死と向き合っているお坊様方の実感を聞かせて頂ければ嬉しいです。

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十字架のネックレスについて

お世話になっております。 連続の質問、大変申し訳ございません。 次回からは、連投しないように致します。 また、前回の質問では、 とてもご丁寧に教えて下さり、誠にありがとうございました。 さて、早速、質問の内容なのですが、 とある十字架のネックレスに一目惚れしてしまい、購入を迷っております。 前回の質問で、私が観音様の仏像を持っていることを お話させて頂き、観音様には、とても感謝していますので、 キリストのシンボルである 十字架のネックレスを買うのに躊躇してしまっております。 前回の質問では、仏像はあくまで「モノ」ですよ っと仰ってくださり、私もその通りだと思うのですが、 十字架のネックレスを付けることにより、 いくら仏像がモノとは言え、私に色々と気付かせてくださった、 観音様に失礼にならないでしょうか? 前回の質問で教えて頂いた、 観音様の仏像も「モノ」ですっというのは 頭ではわかっているのですが・・・ 色々と調べて、十字架の起源が卍だという説もあるようですし、 昔は十字架はキリストのシンボルではなかったという説もあるようで、 調べれば調べるほど、何とか理由付けをして 自分を納得させようとしてしまう情けない自分がいます。 もしかしたら、 私が持っている仏像も、 十字架のネックレスも両方とも「モノ」ですので、 気にしないで大丈夫ですよ! と言って頂いて安心したいような 本当になんとも情けない気持ちが 私自身にあるだけなのかもしれません。 連投な上に、このようなどうしようもない質問をしてしまい、 大変申し訳ございません。 男がネックレスなんてするな! っとお叱りを受けそうですが、普段、仕事ばかりで、 もう何年も全くオシャレをすることが無かったので、 ついつい欲しくなってしまいました・・・ 一目惚れしたネックレスとはいえ、 これも只の煩悩なのかもしれません・・・ もし、これを読んでいる方で、 クリスチャンの方がいらっしゃいましたら、 申し訳ございません。 また、今後は連投をしないように致します。 色々と悩んでいる方が多い中、 そして、お坊様から貴重なお時間を奪ってしまった上に、 このような、しょうもない質問で大変恐縮ですが、 ご教授頂けましたら幸いです。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。

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仏教の今後

仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?

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観察日記(空と念仏)

空とは無分別だと聞きました(100分で名著・維摩経)、番組内では大乗仏教を代表する理念、二項対立を解体する手立て、縁起を発展したものと説明されてましたが、色々な表現があって素人にはポカ〜ンとする話しです。色即是空、空即是色、有るけど無い無いけど有る、五蘊は空、幻、実態が無い、一切皆空。 聖と俗、浄と不浄、善と悪、生と死、二項対立は苦の原因。……救いどころか何を頼ればいいのか虚無感を感じていました。 hasunoha内では弱者の味方や弱者に寄り添うと言った言葉をお坊さんがよく使われるのを見て思ったんですが、「正義の味方」と言ってしまうと正義面した私(自我)が立ち、無意識に相手を悪にして二項対立を勝手に作りその悪を叩き下手すりゃ喜ぶ、でも弱者の味方ならそこに善悪の隔てがないし煩わしい私(自我)を立てる必要が無く目的を見失うこともない。自我や善悪を解体していく空の実践のような話しなのかな〜と思いました。 嫁さんも子供も仕事も家も自分のものなど何も無い期待もしない、虚無と感じるのはご都合主義の自我を立てるから、悩み苦しみリアルな課題が無くなることもない全ては縁起し空、私は私として生きるだけ一歩引いて願うだけ、無我とは心の自由に感じれるようになった気がします。 話しを広げすぎかもしれませんが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれるとどなたか仰っていましたが、念仏の導きも同じ作用(心の自由)な気がするんですが検討違いですかね。 空(念仏)→無分別→自我の解体→無我→心の自由→空(念仏)…?

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「である」ことと「信じる」こと

アルボムッレ・スマナサーラ氏の『ブッダ ー大人になる道』(ちくまプリマー新書)の第2章についての質問です。端的にまとめると、著者の主張は自己矛盾ではないかというものです。 著者はまず科学について批判的に検討します。 『科学はすべてを調べているわけではないので、常に発展途上です。(中略)科学は決して最終的な知識ではないのです(p.69)』 他の宗教や哲学についても同様です。 『宗教家と古代の哲学者は、データを調べてから結論を出すのではなく、最初に結論を出して、無理にデータをそれに合わせるという方法を取りました(p.72)』 これらの主張にはおおむね賛成です。私の専門に引き付けても耳の痛い批判ですし、だから仏教に興味を持ったのです。ここから著者は仏教的な方法論について述べた上で、ブッダの教えは「最終的」であり(p.69)、「普遍的」(p.76)だと結論づけます。 しかし、こうした著者の批判は、著者自身に対してもブーメランのように成り立つのではないでしょうか。どのような論拠から※ブッダの教えは最終的で普遍的だと説明するのでしょうか。「今のところ反証されていないから」では不十分です。また、仏教も時代とともに枝分かれし変化しつつあります。仮にこれを「完全に無知で、頑固で頭が悪い(p.88)」大人が真理を理解する能力を失ったように、信徒のみならず僧侶にもブッダの教えを解しえない者が増えてきたからだ、と説明するとしたら、それこそ結論先行というほかないでしょう。 ここには、「私(著者)はブッダの教えが絶対的・普遍的に正しいと信じる」「ゆえにブッダの教えは正しい」という(著者にはあまりに自明であるゆえの?)隠れた飛躍があるように思えてなりません。ですが、こうした考えが正しいとはいえないこと、すなわち「である」ことと「信じる」ことが別の次元に属することは、著者自身が次のように指摘しています。 『「私が思う、ゆえに正しい」というやり方が人間の大きな間違いなのです(p.134)』 長くなってしまいましたが、質問です。この著者の考えを矛盾なく理解するための方針と私の誤解の在処について、何かアトバイスを頂けないでしょうか。 ※「仏教は絶対的で普遍的である」かどうかは、ここで問題にするつもりはありません。

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〝感謝〟

「仏教的・釈尊の法として、〝感謝〟〝御恩〟の 概念 とは、どのようなものでしょうか?」 昨年は、大変、お世話になりました。 件の問題は、そのまま遺恨となったままですが、私自身は回復傾向にあり。 家族間 以外に関しては、至って順調… だと思います。 父母や家族に対しては、新しい境地です^^; 日々、試行錯誤のリハビリ中で、周囲の皆さんの 理解と協力 に、感謝しきりの毎日です。 先日、ふと、(宗教全般に関してではありますが、まずは仏教的に釈尊へ)疑問が浮かびました。 シッダルッダは、かつて、妻子を捨て国を捨てて、悟りへの修行の道を進んだと記憶しています。 息子や国の民は、その後を追い続け。 妻や女性たちは、追うことも許されなかった(ただ後を付いていったけれど受け入れてはもらえなかった)…? 宗教的には、神や仏へ対しての敬意や信仰については説かれていると思うのですが。 では、その他の存在への〝感謝〟〝御恩〟とは、どのように話されているのでしょうか? “生きる”ということは、決して 独り では行えないのだと思います。 だからこそ、他に 救い を求める。 生きとし生けるものすべて。 救い 救われ。 支えられ支えて。 そういうことについての、仏教の概念を。 そういえば、私は知りませんでした。 寺院や僧職でいえば、在家の方からの支えがあってこそ、成り立っている職だと思います。 宗教全般に限定したものでもありませんが… 個が尊重されるのは、大変に良いことだと思うのですが、個人主義に偏向し過ぎてしまっているように感じてしまう昨今。 仏教という立場では、どのように解釈されているのかが気になりました。 浅学を恥じるばかりです。

有り難し有り難し 7
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ラブラブ「これぞ私の仏教愛」

私にしてはお久しぶりです 最近ニュージーランドでテロ事件があり沢山の人々が亡くなりました 宗教を越えて祈りが捧げられているというニュースが流れています 私がhasunohaをお休みしていたのは これまで何度も挑戦してきたのですが様々な宗教を勉強する為に仏教からいったん離れていたからです 正当な宗教(?)から怪しげな宗教(?)まで其々の教えに耳を傾けてきました 旧オウム真理教のテロ事件の被害者やご遺族の方々の意見や現在の心境なども極力汲み取るよう察せられるだけ察してきました 学べば学ぶ程いろんな宗教に寄り添っていきたいなぁと思うようになり そして信仰の自由のない家庭で勝手に信仰心を持ちつつ改めて思ったことは… 今の私は仏様の教えが一番好きだということです とってもとっても大好きだということです なのでまたhasunohaに戻ってきました 巡り巡って元に戻る それだけ今の私は仏教に魅力を感じているようです 質問になりますが 仏教三昧のお坊さまにとって も~ここがたまらん!と強く強く想う仏教の素晴らしさとは何ですか? 一言では言い表せないとは思いますが お坊さまの皆様にとって ついつい熱く語りたくなる ラブラブ「これぞ私の仏教愛」をお聞かせ下さい

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仏教は虚無的思想?

最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?

有り難し有り難し 11
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