お坊さんに質問です。 お坊さんは禁欲的な生活をし、 少なからず仏教的なものを、 例えば瞑想や仏教に関する聖典などをお読みになられたり、 それを実践したり修行したりしていると思います。 そこで質問です。 仏教に関する全てのものを禁じられて、社会で生きなければならない、 となれば お坊さんは自ら命を断ちますか? 意味のわからない質問かもしれません。 しかし、とても疑問なのです。
だるまさんの由来が、9年間座禅をされて手足が腐ってしまわれた達磨大師様ということを知りました。 子どもたちとだるまさんが転んだの遊びをしたり、だるまさんのことを面白く書いた絵本を読んだりして楽しむことは、達磨大師様に失礼にならないでしょうか。 また、転んでも転んでも起き上がるから縁起が良いと言われていると知りましたが、手足が腐ってしまわれたのに、だるまさんは縁起がいいというのはなぜでしょうか。 心配なことが多く、いつも質問してすみません。よろしくお願い致します。
人を傷つけたくないように気をつけていたり、人に優しくするように心がけている人が、逆に意図的に傷つけられたり貶められたり損をする、報われない社会構造になっているのでしょうか?(もちろん自分が良い人間などと言っているつもりはさらさらありません。恥ずべきことや間違いを犯して人を傷つけたりしたこともたくさんあります。その上であえて書きます。) そういう社会は馬鹿馬鹿しいと思います。それに気づいて絶望して自殺する人がたくさんいるのはしごく当然だと思います。 もちろん、これは今に始まった話ではないことは十分承知していますが、昔からこの構造が変わらないのであれば、なぜこのようなことがまかり通る社会において、なぜ良く生きようとか思う意味があるのでしょうか? そして、仏教をはじめ色々な宗教が何千年も続いて良く生きることを説いているのに社会が全然良くならないのはなぜでしょうか?むしろ宗教が、信心者と非信心者を分けて人を分断しているのではないのかと思うことすらあります。 もう、私は世界を信頼できません。
仏教で『自灯明』『法灯明』という言葉があります。法灯明は、ブッタの教えを拠り所とし物を正しく見る目を養うということ。自灯明は、自分自身を拠り所とするという事。ここで質問です。 自灯明は仏教の教えを元に、自分自身の島を作るのか、もしくは仏教とは関係なく、自分自身が納得できる何か(夢中になれる仕事など)を見つけるのかが分からなくなってしまいました。 仏教と関係ないものをベースに考えたら、ブッタの智慧と矛盾するような事が起こってしまうのではないでしょうか。しかし、それをしない為にも経典を全て読み解くというのは在家の修行者には難しいと思います。 自灯明を確立させる為のヒントをいただければと思います。よろしくお願いいたします。 合掌
観光でお寺や神社にお参りに行きますし、お墓参りもいたします。 しかし、どこで仏教が学べるのか実は分かっていません。 学ぼうとするとネットで本を買う事になります。 教会のように毎週日曜日礼拝したあとの聖書勉強会のようなものはあるんでしょうか。
お寺の勉強会に入ったのですが、 朝夕のお勤めをするよう言われています。 朝が割に早い私にはちょっと朝のお勤めをやるのは厳しく、 (暗いうちからやるので家族を起こしてしまう) 朝はほとんど手を合わせるだけで夕のお勤めに重きを置いています。 現状でいいのでしょうか?
私は仏教を学ぶ身で、このままでよいのかと思ってしまいます。どういうことかというと、休日にゴロゴロし、肉を食べ、今楽しく生きることが… 人として生まれることは砂を掬い上げた時の一番上にきた小さな粒のような本当に小さな確率、縁だといわれました。だからこそ善い行いをと… そんななか、私は先程のことや、さらには自慰や男色の異種春画を描いていたりと、私はこのまま仏教を学ぶ身としてよいのか、もしくはやはり全て捨てなければならないのか…このままで仏となる道を歩んでよいのか… 私はこのままでいいのでしょうか…
坐禅会で副住さんと二人きりだった。 気候に依るか、今日は二人だけという縁に依るものであったのか、僕がムカつく顔をしていたのか…なるようにして、そうなったのでしょうが…。 会話量は僕が2、お坊様が8くらいでした。法話聞きに行ってるので。 風の吹き方一つで虫の居所も変わるでしょうし…なるようになったのか? 「山には色んな入口と登り方があり、諸宗教も同じですよ。」 僕「山なんて本来無いのでは?」 「貴方と話してるとウンザリするんですよ…こう言うのも面倒くさいんです(半笑い)」 「えっ」 突然だったので驚きました。これは何らかの方便なのでしょうか? 縁が整った故の個人的な考えですが、神様には個々人の内に誕生日があって、各々が見聞していく中で神々の造形や威光が深められていき、その信徒が己の生み考えた偶像にひれ伏すようになっていく。そういった一切は縁起に依り、各々が思うように仕立て上げていると気付くために坐禅等の諸行によって三昧、思い込みの縄を解き、無自性=縁起に気付き、よくよく見極めていく。 「自覚」縁起の教えが仏教。そこが諸宗教と一線を画する所では? と考えています。 そう思える縁が整っただけですが…。 上記のような屁理屈だって蹴倒れる程に悲しい。 因縁仮和合云々並び立てても殴られりゃ痛いし、彼の軽蔑は悲しい。 それで心相続していって変遷していく。 またその場の気分も風の吹き方一つで変わるので、次はお寺に行くかもしれないし、行かないかもしれない。嵐か地震が来るかもしれないし、実際は考えに依ってくれないし。 世界を救うって何を…? 僕「師がいなくて外道なら、在家信者は外道ですか?」 「師ならそこらじゅうのお寺にいるでしょう。 解釈に囚われているから、そういった考えになるんです」 僕「はい」 「ウチは檀家100件を超えておりますが、法事をして救いもして、救いもしない事が救いになる事もありますよ」 「師について学ばないとオウムと変わりませんよ。空だから〇してもいいっていう」 僕「え?(なんで突然オウム?そもそも誰かを〇すなんて)」 彼が気に入るだろう答案を提出できる縁に僕は恵まれなかった。 痛い位に今日の彼から伝わってきたのはもう僕に二度と会いたくないってこと。 僕が出来るのって出来る限り接する人に親切にしていこうと願う事位。 世界を救うって何?彼の真意は何でしょう?
私の世界には、まだやさしさがあるから、やさしい人たちがいるから、それを受け止める力がまだあるから、まだ生きていたい。すべての人にではないにしろ、私にはまだやさしく生きる力が、やさしくできる力がかろうじて残っているから、まだ生きている意味はある。 そんなように、生きる意味を考えることがあります。 ただ、やさしさには、厳しさや面倒ごとからの逃避としての、悪い結果をもたらすやさしさもあるような気がし、また、思いやりや、相手の立場になって考える力、という表現も、やさしさ、ということの一側面しか表していないような気がします。 自分のやさしさを自省し、他人のやさしさを信じ続けること、直接的・間接的につながるやさしさの循環の中に生きようとすること、それが良く生きるということなのかな、とも思いますが、しかし肝心の「やさしさ」とは何かについて、考えるほどに、答えが拡散していきます。 「やさしさ」ということについて、仏は何か語られているでしょうか?
仏になるには、相当に立派な人でなければなれず、 至らないところは転生を繰り返し、それを自業自得と聞いたことがあります。 ならば、人の大半は成仏出来ないのではと考えています。 人の大半は成仏出来ないのではと考えています。 どのような人が成仏でき、 どのような人が成仏できず転生を繰り返し改めさせられるのでしょう ? 祖母も、母も人の道に対する教養は足りませんでした。 非常に仲が悪く、一緒のお寺、お墓に入り、成仏できず あの世でも嫌な目にあっているのではと心配です。 二人は成仏できたのでしょうか ? 母は病気の末、海に身を投げ自殺しました。
ここでいう「心」は世間でいう心と違うようなのですが、どのようにとらえればいいですか?信心とか菩提心のことでしょうか? ご教授いただければ幸いです。
初めて質問させていただきます。 ここ3年神仏に惹かれて近くのお寺にお参りなどさせていただいているのですが仏教では女だと差別される、等など聞いてしまい、ネットなどで見てみたらそんな話が色々書いてありました。 例えば女だと成仏出来ない、女は汚れているだの書かれていました(泣) 本当にそんな差別などお釈迦さまやお不動さま、そしてお坊さんがするのか知りたいです。 そんな事を仏さまは思ったりしていないと思うのですが… 女だと汚れているからと思っているお坊さんはこの時代いるのでしょうか? もし、本当にお釈迦さまやお不動さま、そしてお坊さんが思っていたらお 参りすることって出来ないですよね…? 悲しい事が書かれていたので凄く落ち込んでいます… 今まで一生懸命感謝の気持ち、これからもよろしくお願いしますと手をあわせていたのが意味もないんだと思ってしまいました。 実際、以前土俵に女性が上がったのが問題になったのがありましたよね? (土俵は神社系だと思いますが) なので、結局神仏どちらも女性軽視になるのですか? 神社で女性の神主さんは見たことがあります。 仏教はどうなのでしょうか? お釈迦さまやお不動さま、そしてお坊さん達は実際本当に女性軽視なのですか? 子供を産むのは女性なのに悲しいものを読んでしまいショックです。
最近は海外から労働者に借金させて日本でまるで昔の奴隷制度よりも惨たらしい労働をさせるのが日本のブームになってますが、本来人は平等なんですよね? 仏様は主従関係についてはどう説かれてますか?
見つけてくださりありがとうございます。 だれか自分の身近な人,好きな人,愛する人が亡くなったら,仏様やお坊さんは悲しくないのでしょうか。 悲しみが苦しみの一つなら,お坊さんも仏様も苦しみから逃れる方法や考え方を知っているのではと思いました。もしそうなら,人が亡くなっても悲しみという苦しみから逃れられるため,悲しくないのではないかと思いました。しかし,そう思う反面,お坊さんでも仏様でも嫌なものは嫌なのかな,苦しいものは苦しいのかな,とも思います。 仏様も悲しいときは悲しいのでしょうか。人が亡くなっても安定していつもの仏様?でいらっしゃるのでしょうか。悲しくないのでしょうか。もしそうなら,ちょっと怖いです。
仏教をどのように学ぶのが一般的ですか? 本は何十冊か読んだのですが言葉だけではいまいち仏教を学んだ実感がありません。 仏教を生活に取り入れたいです。 お寺に行って法話は聞いたことがあるのですがそれ以外にお坊さんとかかわる方法がわかりません。 仏教を体系的に知るためには何をしたらいいですか?
いつもお世話になっております。何か困ったり、どうしたらいいか分からない時に色々と相談させて頂いています。今回もよろしくお願いいたします。 昨年の10月に父が亡くなりました。急死でした。その後に母も体調をくずしてしまったりして家族でなんとか協力して過ごします。家は曹洞崇です。父の法要や納骨と一つ一つ終えて、父の成仏と母も良くなりますように祈っています。先日、今年は県内でご開帳がありますもので、母と二人で父の供養も兼ねてお参りして周りました。お参りから帰ってご近所の方に一周忌も過ぎないうちに巡礼とかお参りして周ってはいけない。仏様がどこに収まったらいいかわからなくなる。と言われたそうです。私も母も知らずに父の成仏や家族の事を祈り、お参りして周りました。聞いてから、気になり、よくない事があるのではとか、父が成仏できないのではとか、心配になりました。 私も仏教の事は詳しくないので、よく分からないのです。教えてくださいませ。学んで覚えておきたいのです。よろしくお願いいたします
私は仏教のことに気になってることがーつあります。 それが大乗仏教の 教徒がチベット仏教のお寺に 行ってもいいのかと言う 問題です。 プロフィールを見てもらえばわかるとおり現在私はネパール在住です。 ネパールにはヒンドゥー教よりかは少ない とはいえ、 仏教のお寺があります。 でもほとんどがチベット仏教のお寺です。 私は東京都出身で 家が浄土宗なので 大乗仏教 の 教徒が チベット仏教のお寺に行ってもいいのでしょうか? 実はもうすでに何回も行っていて、 なぜこの質問をしているかと言うと今ふと気になったからです。 私は大乗仏教もチベット仏教もどっちも仏教だしお釈迦様が始めたんだから仏教は仏教に変わりない と思っているので、 行ってもいいと思うのですが、 一度本格的なアドバイスが欲しいと思いこうして質問をさせていただきました。 個人的な質問ではあるのですがどうかご回答をよろしくお願いします。
私自身は真言宗の檀家に生まれ、 朝夕のお勤めはしておりますが、 それ以外に在家信者のすべきこと、 普段の心構え、有り様はどうあるべきなので しょうか? 僧侶でない在家信者は、どう生き、 生活するべきなのでしょうか?
私は、曹洞宗の南直哉和尚の著作が好きでよく読んでいます。 南和尚の著作で「超越と実存」という本がありますが、その中での親鸞聖人の信仰のとらえ方が非常に興味深かったです。 曰く、 「親鸞聖人の悪人の自覚は、肉食でも妻帯でもなく、阿弥陀仏の救いを信じられぬことが根本にあったのではないか、そのため謗法をした者をも救われるという根拠を教行信証で示そうとしたのではないか」 ということです。 また、南和尚は 「ゆえに、親鸞の称名念仏はそれ自体無常で無意味な発声行為であり、超越を排しながらも実存を受容する方法として、道元と並び日本思想史上でも希有なものである。」 と結論づけています。 真宗のお坊さんでこの本を読まれた方、また読まれていない方でも南和尚のこのような解釈についてどのように考えられますか? 私はとても心打たれ、やはり真宗もただものの宗教ではない、深淵があるものだと感じました。
仏教の教えを忠実に実践すると植物のような存在になるなと感じました。 しかし仏性は人間にしか無いとも知りました。 なぜ元から罪のない動物や植物は仏になれない(なっていない)のでしょうか。 「仏性の自覚」とは「罪を持っている」という自覚のことでしょうか? 切れ端のような知識で申し訳ありません。 気になったので質問させていただきました。