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Eu herdo a personalidade do vovô 私はおじいちゃんの個性を受け継いでいます Vovô nasce no Brasil おじいちゃんはブラジル生まれ Dormir não é nem japonês nem inglês 寝言は日本語でも英語でもなく O mais frequente foi o português 一番多いのがポルトガル語でした Meu vovô bilíngüe バイリンガルだったおじいちゃん Que língua é falada no outro mundo? あの世では何語を話しているのでしょうか? Uma pergunta… 質問は… Quantas línguas o chefe conta uma história? お坊さまはいくつの語学で法話されていますか? Que tipo de atração do budismo japonês você quer transmitir? 日本の仏教のどんな魅力を伝えたいですか? Com isso ... それと… Existe algo que você vai usar outras palavras dormindo do que japonês? 日本語以外の寝言を使ってしまうことはありますか? Os Jogos Olímpicos de Tóquio serão realizados em 2020 2020年には 東京オリンピックが開催されます Muitos estrangeiros vêm para o Japão たくさんの外国人が日本に来ます Talvez… もしかしたら… Pode ser uma oportunidade para espalhar o budismo japonês para o mundo 日本の仏教を世界に広めるチャンスかも知れません Gentil para o Japão 日本にやさしく Fácil para todos みんなにやさしく Claro que é fácil para estrangeiros もちろん外国人にもやさしく Eu quero interagir com o coração da hospitalidade おもてなしの心でふれあいたいですね
私は妊娠中トラブルが起きて緊急帝王切開で出産しました。 迅速に対応して頂いたので幸いにも障害が残る事なく産まれてきてくれました。 死産や医療的ケア児になる可能性もあったので、神様に生かして貰ったんだとその時思いました。 先週、伯父が脳卒中で倒れ術後数日経ちますが意識がまだ戻りません。多分ずっとこのままなんじゃないかと心配しています。 私の事で母から相談を受けていた伯父にも相当心配をかけたので申し訳ない気持ちでいっぱいです。 夏に子供を見に来てくれた時以来会っていませんが、こんな形でお別れしなくてはいけないかと思うと悲しいです。 人間の命はあっけない物だなと虚しい気持ちになっています。と同時にもう少し強く生きなければいけないなと思いました。 母は「神も仏もない。」と絶望しています。 医学的には、急変時の生きるか死ぬかは時間が決め手になるのだと思いますが、私は神様や仏様の采配も影響しているんじゃないかと考えます。 仏教的には、こういった場合の命の選別はありますか? 子供が無事に産まれて来てくれた事は嬉しいですが、それからは悪いことばかり起きるのでとても辛いです。そこで一生分の運を使い果たしたのかもしれません。私が男の不幸を願ったからバチが当たったのかもしれません…。当てるなら私に当ててくれれば良かったのに…。 でも、生かして貰った命をしっかり育てる事が今の私に出来る事なので頑張るしかないですよね…?
私は23歳の男性です。 精進料理に興味があり、1年前は精進料理を作ってました。 では、何故私は精進料理を作りたいのかというと母親が「精進料理を食べたら元気になった」と言われました。 私の父親は、甘い物ばっかり食べて太っています。チョコレートやアイスやあんぱん等です。 母が父に甘い物ばっかり食べたら糖尿病になるよと何回も言っているのですが。 そこで、私は父親と母親の為に精進料理を食べさせてあげたいのです。 両親が亡くなるのは嫌ですし、長生きしてほしいから作りたいのです。 人は誰でも亡くなるのは承知しています。 何か精進料理を作れる教室とかってありますか?
槇原敬之さんの「キボウノヒカリ」という曲をはじめて聞きました。 歌詞の中に、 『きっと本当の闇なんて この世界のどこにもない 星や月が輝きながら 暗い夜を照らすように きっと本当の闇なんて この世界のどこにもない あるならきつく目を閉じてる 僕らの中にだけだ』 とありました。 仏教と少し似ている気がしました。 とても良い曲だと思いました。
宮沢賢治さんのこの詩が好きで、小さな額をあえて何の説明もせず子供部屋に掛けて、自分の部屋にはそれなりの(1万円以上したような)額を掛けています。 仏教に興味を持った時にすがる意味で小さな阿弥陀様の仏像を買ってみようかなと思ったんですが、いざとなるとやっぱり恐れおおくて買わずにいたんですが、何か手を合わす対象が欲しくて、この詩がいい感じの額に入ってたので購入しました。 見かえしてみると詩の最後に、そういうものに私はなりたい。と言うように簡単なことではないと思いますが、でも生身の人間でもバカな私でも努力しだいで出来なくはない、生身の人間の最大限のことが仏教の教えを通して書かれたいるのかなと思いました。 仏教に八万四千の法門があるといわれるのは、私のようなバカでも通れる道があることの例えなのかなと思います。 にも関わらず虚しく思うのは愚痴ばかりで、歩んでいなかっなからですね、仏(皆さん)の慈悲に慰めっぱなしではいつまでたってもですね、今を尽くして行こうと思います。 仏教を2500年の間繋いでくださり、有り難うございます。
I am GOD'S CHILD(私は神の子供) この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろと言うの?) こんなもののために生まれたんじゃない 鬼束ちひろさんの代表曲ですが、人それぞれの境遇によっては、そう思わざる得ない人もいると思います。 犯罪被害者又は被害者家族の方などはこの世に浄・不浄はないといっても不浄としか思えない見えないこともあると思います。 凄惨な事件のニュースを見た後、ため息まじりに犬の散歩をし、見ず知らずのおばさんに笑顔で一言声を掛けてもらい、ホッコリした気持ちにる。 …何の事は無い、さっきまで暗い気持ちになってたのに当事者じゃないからこんなもんか、高額な宝クジでも当たった日には有頂天になって俺は喜ぶんだろうな。 自分の目の前の出来事でないことに一喜一憂することも仏教で言う無明(愚か者)のなせる技ですか。
いつもお世話になっております。 くだらないんですが、ずっと気になっています。 私は今の祈願寺に落ち着く前は、色んなお寺に行って 勉強していました。 どのお寺にも必ず、やたらとご信徒さんや観光のお客様に 絡んで迷惑かけるドアホ、変質者がいました。男女問わずです。 「若いのに偉い」という理由で突然接近してきて、 家が荒れてるんだよ〜とか愚痴ってきたり、 そんな姿勢じゃあいけないとか言いがかりつけてきたり、 目についたご信徒さんの悪口に勤しむバカもいたし、 坊さんと話していると断片的な仏教用語に反応するふりを して、「おねえさん、それ@@@のことですか!?」 とか絡んできたりする野郎もいたし、 別のご信徒さんに近づいて私のことを聞き出そうとした ストーカージジイもいました。そのご信徒さんは、 「知らない、知らない。僕も初めて会ったんですよ」 と言って守ってくれましたが。 ちなみに余談ですが、今の祈願寺は、非常に防災、防犯に 力を注いでいるので安心して修行することができています。 そう言う人も比較的少ないかな、と言った印象です。 本当にくだらない質問で申し訳ない。3年来の疑問です。
・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。
相談読んでいただきありがとうございます。 近所の百貨店で、「四国八十八ヶ所お砂踏み」という催しをやっています。 実際にお遍路したと同じご利益があります。と書かれており、私もお砂踏みを行おうと思ったのですが、お砂踏みをしただけなのに実際にお遍路したご利益を頂くなんてなんだか申し訳ないような気がしてしまいます。 お遍路した方は何十日もかけていらっしゃるのに1時間くらいの時間で同じご利益なんて、、、と思ってしましました。
これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?
仏教の言葉で両舌というものを最近知りました。 何故かと言うと最近とても仲良かった人と気まずくなってしまい、話すことも会うことも無くなってしまったからです…。 どうしてだろうと思っていましたら、相手の近くにいた人が私のあることないことをその人に吹き込んでいたようです。その人は私にも相手と話すなということを遠回しに言ってきたり、話していると邪魔をしてきたりしてました。 また相手と仲良く話せるようになりたいのに、もう泣き寝入りするしかないのでしょうか?話す接点すら無くなってしまいました。
習気とは何ですか?
おはようございます。仏様は平等だと私くしは思うのですが 肉体がある時は 人として 自分のやりたい事を 自由にし、いい事も悪い事も してしまう ただ 亡くなって 肉体を手放した時、魂だけになりますよね そうしたら この世の人ではなくて いわゆる仏になります。全ては平等なので 仏様が天国や地獄に人を分け隔てることを なさるとは 思えないのです。 仏になるとは、仏様の元に帰るのだと思うんです お坊様方は、亡くなったら仏様は天国や地獄に人を裁き わけると思いますか?
寒いですね。 北海道にお住まいのお坊さま、みなさま、どうぞお気をつけてお過ごし下さいね。 最近、近くは良く見えるのに、遠くを見ると物が2重に見えたりボヤけて見えたりするようになりました。先日持病の検査と診察があった時に、主治医にその旨を話しました。年齢的に老眼が始まったのかと思っていたので、そう言われるかと思っていました。しかし、言われたのは“ステロイド剤の長期服用による白内障の疑い”でした。 私はまだギリギリ40代なのに白内障なの?と、びっくりしました。30代で免疫不全の病気を発症してから、ずっとステロイドを服用して病気の再燃を押さえて来ました。病気をやっつけてくれる役目の薬が、まずは私の骨をスカスカにして、今度は目を弱らせているのか…と、少し凹みました。 仕方がないと思いながら、やっぱり悲しかったです。これが私の人生なんだなぁ~と、また思いました。 自分に起こる現象はすべて縁起によるものだと、ハスノハのお坊さま方に教えていただきました。今回のこともそうです。ただ事実としてあるだけで、そこに何ら意味はありません。淡々と受け止めて、お医者様の指示通りに治療すれば良いだけの事。 けれど哀しいかな、私はそこに意味を求めたい。自分に起こる悲しい出来事に意味を求めて支えにしたいのです。そうでないと、頑張れないから。 目が見えにくくなったのは、これからは本当に大切なものだけを見よ!という事なのかな。そう思います。余計なことまで見て心を乱す事なく、穏やかであるために。 そう思って自分を奮い立たせる事にしました。仏教の教えから、外れていますか。 仏教的には、どんな風に考えたら良いでしょうか。教えていただけると有難いです。
無明の原因はなんでしょうか? どうして無明という状態に陥ってしまうのでしょうか?
「愛情vs.束縛」 「私には信仰の自由がありません」 を書いたあと、 「真っ暗闇の中、小さくうずくまる、それでも…」 を書かせていただいた豊島芳美です。 「結局、何が言いたいのかサッパリわかりませんが。」 とのご指摘をいただきましたので、もう一度質問させていただくことにしました。 また意味不明でしたら、すみません。 私の頭の中は、通訳が必要みたいです。 多分、今度は大丈夫なはず… 豊島語を日本語にして、質問します。 今の私は、仏教の教えを大切にしたいと思っています。 この信じる道を進むことは、時と場合によっては、罪となることがありますでしょうか? また喝!を入れて下さっても結構です。 よろしくお願いいたします。
正信偈を読んでいて疑問に思ったことを質問します。 1) 仏様の師弟関係は、世自在王、法蔵菩薩、釈迦如来の順だと思うのですが、世自在王は何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか?世自在王を御本尊とする宗派はありますか? 2) 釈迦如来は、今、どこにいて何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか? 3) 「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われ、地球上で仏の悟りを開かれたのは釈迦牟尼だけと聞きましたが、法蔵菩薩は人間の世界から出た方ではないのですか? 法蔵菩薩は国を捨て王位を捨てて出家されたそうで、お釈迦様のようにこの地球上の国王であったような気がします。 勉強不足の質問ですが、よろしくお願い致します。
お釈迦様は親から虐待される子供になんと仰っておられますか。また、子供を虐待する親のことはどのように仰っておられますか。 また、宗祖のお坊様など過去にいらっしゃった高僧の方々で、虐待について書いたり言われたりなさったものはありますでしょうか。 親への愛着を持ちながら親から虐められる子の苦しみはいかばかりかとよく考えます。現代では親子愛が称揚されることしきりですが、慈悲の心を欠いた親もいます。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
なぜ、仏教は小難しく真理を語るのですか? 結局何が言いたいのかを理解するまでに、大変でした。 もっと解りやすく、結局はなにが言いたいのかを述べてくれた方が、良いと思いませんか? それとも、あえて、わざと、難しくしているのですか?