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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

【暴言入ってます】やたらご信徒様に絡む奴って何なんですか?

 いつもお世話になっております。  くだらないんですが、ずっと気になっています。  私は今の祈願寺に落ち着く前は、色んなお寺に行って 勉強していました。  どのお寺にも必ず、やたらとご信徒さんや観光のお客様に 絡んで迷惑かけるドアホ、変質者がいました。男女問わずです。  「若いのに偉い」という理由で突然接近してきて、 家が荒れてるんだよ〜とか愚痴ってきたり、 そんな姿勢じゃあいけないとか言いがかりつけてきたり、  目についたご信徒さんの悪口に勤しむバカもいたし、  坊さんと話していると断片的な仏教用語に反応するふりを して、「おねえさん、それ@@@のことですか!?」 とか絡んできたりする野郎もいたし、  別のご信徒さんに近づいて私のことを聞き出そうとした ストーカージジイもいました。そのご信徒さんは、 「知らない、知らない。僕も初めて会ったんですよ」 と言って守ってくれましたが。    ちなみに余談ですが、今の祈願寺は、非常に防災、防犯に 力を注いでいるので安心して修行することができています。  そう言う人も比較的少ないかな、と言った印象です。  本当にくだらない質問で申し訳ない。3年来の疑問です。

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仏様を欺くという事

・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。

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『なぜ私だけが苦しむのか』

これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?

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大切なものだけを見よ

寒いですね。 北海道にお住まいのお坊さま、みなさま、どうぞお気をつけてお過ごし下さいね。 最近、近くは良く見えるのに、遠くを見ると物が2重に見えたりボヤけて見えたりするようになりました。先日持病の検査と診察があった時に、主治医にその旨を話しました。年齢的に老眼が始まったのかと思っていたので、そう言われるかと思っていました。しかし、言われたのは“ステロイド剤の長期服用による白内障の疑い”でした。 私はまだギリギリ40代なのに白内障なの?と、びっくりしました。30代で免疫不全の病気を発症してから、ずっとステロイドを服用して病気の再燃を押さえて来ました。病気をやっつけてくれる役目の薬が、まずは私の骨をスカスカにして、今度は目を弱らせているのか…と、少し凹みました。 仕方がないと思いながら、やっぱり悲しかったです。これが私の人生なんだなぁ~と、また思いました。 自分に起こる現象はすべて縁起によるものだと、ハスノハのお坊さま方に教えていただきました。今回のこともそうです。ただ事実としてあるだけで、そこに何ら意味はありません。淡々と受け止めて、お医者様の指示通りに治療すれば良いだけの事。 けれど哀しいかな、私はそこに意味を求めたい。自分に起こる悲しい出来事に意味を求めて支えにしたいのです。そうでないと、頑張れないから。 目が見えにくくなったのは、これからは本当に大切なものだけを見よ!という事なのかな。そう思います。余計なことまで見て心を乱す事なく、穏やかであるために。 そう思って自分を奮い立たせる事にしました。仏教の教えから、外れていますか。 仏教的には、どんな風に考えたら良いでしょうか。教えていただけると有難いです。

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極楽について

以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。

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それでも確かなものと信じたい

はじめまして。 初めて質問します、仏教を手がかりに日々自問自答するきっかけになった内容なので長いですが宜しくお願いします。 本来は仲の良かった同僚とある事がきっかけで、なかたがいしました。 自分かわいさでは決してないんですが今でも私が正しいと思っています。 具体的な事は話せませんが、かなり深刻な問題になり私が会社を去る決意を一度はしたほどです。 その間色々な葛藤があり、これ以上人(信頼していた人間)を嫌いになりたくない想いからの去る決意でした。 いったい自分が本当に正しいのか、どうあるべきなのか40歳過ぎて迷うような事があるとは思いませんでした。 自分の正しさを確かなものにしたくて、仏教ならあなたは間違っていないと、私の正しさを肯定してくれるだろうと求めましたが、学ぶにつれ仏教は道徳や正義を説く訳ではない事がわかりました。 道徳や正義は時代や国によって変化しえること、ならばなにを頼りに生きればいいのか? 親鸞聖人と唯円との問答で人を千人殺せばあなたの往生は間違いない…云々、唯円は当然断りますが、今あなたが人を殺さないのはあなたの心が正しいからではない、今おもうように殺す縁にないだけだと言うくだりがありますが、確かに考えさせられます、当然親鸞聖人は殺人を仕方がないと肯定している訳ではなく、誰でも条件が揃えば縁しだいで何をするか分からないのが人間なんだと、私にあなたも逆の立場に現実おかれたら本当にその正しさを全う出来ますか?それ以外の事も全て、何者にも影響されず常にあなたの正しさは永久不変なものですかと自問自答させられました。 社会的には善い悪いはありますが、仏教を通じて思い上がっていたんだなと気ずかされました、自分はどうあるべきなのか答えが欲しくて仏教に救いを求めましたが学ぶにつれ自問自答ばかりです。 質問が最後になりましたが、諸行無常・諸法無我、確かなものは何も無いと言いますが、5万年前の私達の先祖はまだ十分な知性と理性を持っていない時に死者に花を手向けた痕跡があるらしいです、この優しさは確かなことではないでしょうか。

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仏教では性行為をどのように捉えているのでしょうか?

性行為って、最も心と命に関することなのに、タブーだと真剣に議論しません。それゆえに性行為をした結果、その行為をした人たちの中には不幸になってしまう人もおり、その子どもが不幸になってしまう話も聞きます。 性行為に関する言葉として性欲があります。 食欲や睡眠欲と同様に、人にとって性欲は生きていくなかで避けられないものだと思います。 この三大欲求の中で、一番取り扱いが難しいものではないかと思います。例えるなら、車の運転と同じで、快適なものですが、一度コントロールを失うと、他人の心を傷つけ、深い悲しみに追い込んだり、命を失ったりしかねません。そのように考えると、闇雲に避ける話ではなく、成人し、自分の行動に責任を取らなければならない年齢になる前に、しっかり考えておく必要があると思うのです。 物事には、メリットやデメリット、リスクがあるはずで、それを理解した上で利用することが大事かと思います。心と命に関することなので、メリットやデメリットという言葉はふさわしくありませんが。 タブー視すれば、人によっては汚いものや穢れたものと捉える可能性もあります。違う見方をすれば、タブー視することで簡単にその行為に及ばないようにしていると捉えることができます。メリットやデメリットの判断ができない人に対しては「ダメなものはダメ!」でいいのかもしれませんが。 おそらく、基本は、「相手の立場に立って、将来起こりうることを見通し、相手が幸せになるように行動し、目の前の相手に誠心誠意対応する。そして、そのアフターケアをしっかりする。」 別にこれは、性行為に限らず、仕事においても、人間関係においても、人間が行う全ての行為に言えることだと思います。男女関係なく、全ての人に言えることなのではないかと考えています。 とはいえ、人は失敗するもの。仕事でも失敗します。そのあと、どう対応するかということが大事なのかなと思います。ニュースやワイドショーを見ると、そのように感じます。 このように考えていくと、性欲を抑えきれず、風俗に行くこともアリなのかなと思います。ただし、その際のリスクとデメリットもしっかり考慮すべきで、パートナーや子どもがいるなら、それがどのような影響を及ぼすのか考えるべきだとは思います。 私は風俗には通ったことはありませんし、性行為による大きな失敗はしたことはありませんが、問を立てました。

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