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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

仏教の今後

仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?

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観察日記(空と念仏)

空とは無分別だと聞きました(100分で名著・維摩経)、番組内では大乗仏教を代表する理念、二項対立を解体する手立て、縁起を発展したものと説明されてましたが、色々な表現があって素人にはポカ〜ンとする話しです。色即是空、空即是色、有るけど無い無いけど有る、五蘊は空、幻、実態が無い、一切皆空。 聖と俗、浄と不浄、善と悪、生と死、二項対立は苦の原因。……救いどころか何を頼ればいいのか虚無感を感じていました。 hasunoha内では弱者の味方や弱者に寄り添うと言った言葉をお坊さんがよく使われるのを見て思ったんですが、「正義の味方」と言ってしまうと正義面した私(自我)が立ち、無意識に相手を悪にして二項対立を勝手に作りその悪を叩き下手すりゃ喜ぶ、でも弱者の味方ならそこに善悪の隔てがないし煩わしい私(自我)を立てる必要が無く目的を見失うこともない。自我や善悪を解体していく空の実践のような話しなのかな〜と思いました。 嫁さんも子供も仕事も家も自分のものなど何も無い期待もしない、虚無と感じるのはご都合主義の自我を立てるから、悩み苦しみリアルな課題が無くなることもない全ては縁起し空、私は私として生きるだけ一歩引いて願うだけ、無我とは心の自由に感じれるようになった気がします。 話しを広げすぎかもしれませんが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれるとどなたか仰っていましたが、念仏の導きも同じ作用(心の自由)な気がするんですが検討違いですかね。 空(念仏)→無分別→自我の解体→無我→心の自由→空(念仏)…?

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「である」ことと「信じる」こと

アルボムッレ・スマナサーラ氏の『ブッダ ー大人になる道』(ちくまプリマー新書)の第2章についての質問です。端的にまとめると、著者の主張は自己矛盾ではないかというものです。 著者はまず科学について批判的に検討します。 『科学はすべてを調べているわけではないので、常に発展途上です。(中略)科学は決して最終的な知識ではないのです(p.69)』 他の宗教や哲学についても同様です。 『宗教家と古代の哲学者は、データを調べてから結論を出すのではなく、最初に結論を出して、無理にデータをそれに合わせるという方法を取りました(p.72)』 これらの主張にはおおむね賛成です。私の専門に引き付けても耳の痛い批判ですし、だから仏教に興味を持ったのです。ここから著者は仏教的な方法論について述べた上で、ブッダの教えは「最終的」であり(p.69)、「普遍的」(p.76)だと結論づけます。 しかし、こうした著者の批判は、著者自身に対してもブーメランのように成り立つのではないでしょうか。どのような論拠から※ブッダの教えは最終的で普遍的だと説明するのでしょうか。「今のところ反証されていないから」では不十分です。また、仏教も時代とともに枝分かれし変化しつつあります。仮にこれを「完全に無知で、頑固で頭が悪い(p.88)」大人が真理を理解する能力を失ったように、信徒のみならず僧侶にもブッダの教えを解しえない者が増えてきたからだ、と説明するとしたら、それこそ結論先行というほかないでしょう。 ここには、「私(著者)はブッダの教えが絶対的・普遍的に正しいと信じる」「ゆえにブッダの教えは正しい」という(著者にはあまりに自明であるゆえの?)隠れた飛躍があるように思えてなりません。ですが、こうした考えが正しいとはいえないこと、すなわち「である」ことと「信じる」ことが別の次元に属することは、著者自身が次のように指摘しています。 『「私が思う、ゆえに正しい」というやり方が人間の大きな間違いなのです(p.134)』 長くなってしまいましたが、質問です。この著者の考えを矛盾なく理解するための方針と私の誤解の在処について、何かアトバイスを頂けないでしょうか。 ※「仏教は絶対的で普遍的である」かどうかは、ここで問題にするつもりはありません。

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〝感謝〟

「仏教的・釈尊の法として、〝感謝〟〝御恩〟の 概念 とは、どのようなものでしょうか?」 昨年は、大変、お世話になりました。 件の問題は、そのまま遺恨となったままですが、私自身は回復傾向にあり。 家族間 以外に関しては、至って順調… だと思います。 父母や家族に対しては、新しい境地です^^; 日々、試行錯誤のリハビリ中で、周囲の皆さんの 理解と協力 に、感謝しきりの毎日です。 先日、ふと、(宗教全般に関してではありますが、まずは仏教的に釈尊へ)疑問が浮かびました。 シッダルッダは、かつて、妻子を捨て国を捨てて、悟りへの修行の道を進んだと記憶しています。 息子や国の民は、その後を追い続け。 妻や女性たちは、追うことも許されなかった(ただ後を付いていったけれど受け入れてはもらえなかった)…? 宗教的には、神や仏へ対しての敬意や信仰については説かれていると思うのですが。 では、その他の存在への〝感謝〟〝御恩〟とは、どのように話されているのでしょうか? “生きる”ということは、決して 独り では行えないのだと思います。 だからこそ、他に 救い を求める。 生きとし生けるものすべて。 救い 救われ。 支えられ支えて。 そういうことについての、仏教の概念を。 そういえば、私は知りませんでした。 寺院や僧職でいえば、在家の方からの支えがあってこそ、成り立っている職だと思います。 宗教全般に限定したものでもありませんが… 個が尊重されるのは、大変に良いことだと思うのですが、個人主義に偏向し過ぎてしまっているように感じてしまう昨今。 仏教という立場では、どのように解釈されているのかが気になりました。 浅学を恥じるばかりです。

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ラブラブ「これぞ私の仏教愛」

私にしてはお久しぶりです 最近ニュージーランドでテロ事件があり沢山の人々が亡くなりました 宗教を越えて祈りが捧げられているというニュースが流れています 私がhasunohaをお休みしていたのは これまで何度も挑戦してきたのですが様々な宗教を勉強する為に仏教からいったん離れていたからです 正当な宗教(?)から怪しげな宗教(?)まで其々の教えに耳を傾けてきました 旧オウム真理教のテロ事件の被害者やご遺族の方々の意見や現在の心境なども極力汲み取るよう察せられるだけ察してきました 学べば学ぶ程いろんな宗教に寄り添っていきたいなぁと思うようになり そして信仰の自由のない家庭で勝手に信仰心を持ちつつ改めて思ったことは… 今の私は仏様の教えが一番好きだということです とってもとっても大好きだということです なのでまたhasunohaに戻ってきました 巡り巡って元に戻る それだけ今の私は仏教に魅力を感じているようです 質問になりますが 仏教三昧のお坊さまにとって も~ここがたまらん!と強く強く想う仏教の素晴らしさとは何ですか? 一言では言い表せないとは思いますが お坊さまの皆様にとって ついつい熱く語りたくなる ラブラブ「これぞ私の仏教愛」をお聞かせ下さい

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仏教は虚無的思想?

最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?

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一歩は自力

きのうきょう宗教を学びだした私が少し気付けたこと。 お釈迦様は万物の事象この世の真理に気付いたある意味科学者、その事象をあらゆる角度から示し教えとして依るべき法を説き、衆生の救済を願い慈悲の実践を説く大乗仏教へ発展。一神教は全知全能この世の創造主たる裁きの神と神の似姿としての人との契約による律法(刑罰)とイエスの登場による博愛、赦し合い生きる社会へ。 私は挫折がなければ人生に仏教もキリスト教も全く必要なかったと思います。老・病・死からは逃れられませんが大丈夫でしょう無宗教の強みで常に慢心してるので。満たされることの無い物欲・色欲に一喜一憂するけど裕福な日本に於いてはその手の努力もそれなりに楽しい毎日です。ちょっとつまづけば哲学者の一節で応急処置。裕福で便利な日本だから人との繋がりも必要最小限且つ利害の一致で無駄のない繋がり方。生かされてるなんて思いもしない。 二・二六事件で父親を目の前で殺害されたカトリック修道女の渡辺和子さんの語りが好きでよく動画を見てます、「主は与え主は奪う主の御名は褒め称えられよ」あれが欲しいこうして欲しいと神に請求書の祈りをするのではなく、神様が下さったことに確かに頂きました有難うございますと言う領収書の祈りが大切だと仰ってました。 「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい。」冗談だろと思うイエスの言葉ですが、宮沢賢治さんと同郷の斎藤宗次郎さんの生涯を知ると綺麗事とも思えない真理への道なのかと思います。 上記のことは到底誰にでも出来ることではなくて、他に選択肢など無いほどに理不尽で不条理な境遇の中でその道に徹して歩む勇気があった人たちだと思います、私程度の挫折や苦しみでは真理には辿り付けないでしょうけど「難思の弘誓は、難度海を度する大船」易行・他力とはいえ船に乗る少しの勇気と一歩さえあれば支え導き歩むこと生きることの喜びをくれるのも宗教の博愛や慈悲で、並の人間には悟れずとも有り難い事かと思います。

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