仏教のそもそもの前提は間違っているのでは
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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今が大事なんですよ。
仏教の教えにおいて、「今を大事に」という考え方は重要な要素です。仏教は、苦しみからの解脱という目標を持ちながらも、現世の幸福と心の平安を追求することも教えています。
仏教では、人々が苦しみを経験する原因は執着や無明にあるとされています。執着とは、物事や感情に対して執着し続けることであり、無明とは真理を見失っている状態を指します。この執着や無明を超え、現実を客観的に受け入れることによって、心の平和と幸福を得ることができるのです。
したがって、仏教の教えでは、現世での幸福や苦しみを重要視しています。過去や未来に執着することなく、現在の状況に目を向け、自己探求や善行を通じて心のあり方を改善していくことが大切です。
また、仏教では、苦しみを経験するのは必然の一部であり、苦しみからの解脱を求めることも教えています。しかし、これは現世での苦しみや不安から解放されることを目指すものであり、必ずしも来世の救済だけを追求するものではありません。
ですから、仏教の教えにおいて、「今を大事に」という考え方は矛盾するものではありません。逆に言えば、現世での幸福と心の平安を追求することこそが、仏教の教えの中心にあるものといえるのです。
結論として、仏教の教えによれば、来世への期待や他人のせいにするのではなく、現世を大切にすることが重要です。自己探求や心の改善を通じて、現実を受け入れ、心の平和と幸福を追求することが、仏教の教えに合致する生き方と言えるでしょう。
過去未来を思うも今ここ己の一念。一心清ければ当処皆仏の国土。
仏教の存在意義とは、一切衆生を救うということです。
あの世があると思う人にはそういう世界観を説いて安心させてくれる人もおられるでしょうが、見たこともない世界のことを言われても納得がいかないという理知的な人には、今を生きることの大切さも説く。
ただし、今さえよけりゃぁ何でもいいというのは俗説。今存在していること自体がすでに過去からの恩恵によって成り立っているわけですから、今疎かなことをすれば未来において自分や誰かが苦しみを抱えるアンチ仏教な生き方になる。
まず仏教の説くところの「苦」とは「ドゥッカ」といい、「苦しい」ではないのです。ここはよく誤解されます。苦=思い通りにならないこと。こちらの願い求めるものとはまるで異なる姿をしていることを苦といっただけです。
それが中国で苦、日本で苦しみと文字が充てられて「この世イコール苦しみ」と誤解された面があるようにも感じますが、それは仏教ではなく、仏教を解釈した説の一例。あなたの言う通り、人は24時間ずっと苦しいなんてことはありません。
だから、人生が苦しみなのではなく、この世は人間の願い通りにはならないというだけ。楽しい旅行の中にあっても渋滞になったり、道中で誰かが事故にあっていたりするでしょう。苦しいことが今日もどこかの誰かの上に起こっているでしょう。ですが、四苦八苦という避けられない壁があるといっても四苦八苦という苦は仏の教え、教理によって解脱できる。今、ここにいながら、生老病死に縛られない心境になれるのが仏の教えです。
お父ちゃんの「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる。」というのも、それも一つの方便。
そもそも来世の原点は何か。今から一秒後はいつでも来世です。一秒前は皆過去世。死後の世界や生まれる前の話にしない明晰さを僧として持ちましょう。
教学や方便の一つといっても、一般人に立証できないことを人から言われるままに絶対視するのではなく、自在に説けるようでなければならない。それが相手に応じた救いの方便、対機説法というものです。
親御さんの何とも言えない表情というのも、理知的な教導で救われる人もいるでしょうが、人間本当に弱くなると、優しい言葉のほうが響く、しみるということがあるから、弱者の立場に立ってくれている立派なお坊さんだということです。あらゆる角度から人を救える立派な僧になってください。
よくぞ聞いてくれました
こんばんは。私も寺息子として生まれ、現在は住職をしております。「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」との言葉は、恐らく浄土宗か浄土真宗の方のものと思われます(私は浄土宗)。
そしてあなたは、「来世よりも現世のために努力すべきだ(それを強調すべきだ)」とお考えなのですね。まったくもって賛成です。
さて「旅行中。今も苦しいの?」というのは、実はその人・その時に依るんですよ。旅行していること自体が苦行か否かではなく、それをどう捉えているか?が苦しいか否かになるのです。端的には「明日帰らなきゃならないけれど、帰るのがいやだ」と思っていれば苦しいし、「アー楽しかった。帰ったら仕事頑張ろう」と思えば苦しみではない。一方「旅行は始まった直後から終わることを考えて寂しくなる」という人もいます。
明暗つきやすい例えは、「いまiphone12を使っている」をどう捉えるか。「iphone15が欲しい」と思えば苦しみに繋がるし、「12で充分」と言っていれば苦しみではない。ポイントは、あなたの言う「ある程度の幸せ」で満足できるか、「もっと!」と思ってしまうかなのです。
そして人間、「イヤだ!」と思ってしまう点に引っ張られやすいのです。「彼女と一緒にいて嬉しい。そしてiphone12じゃ嫌だ」となった時、どちらを優先しますか?
「自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるか」も、まさにその通りです。自分の「もっと!」と思ってしまっている苦しみの原因を見いだし、今あるものにいかに満足するか。その原因を、仏教は「執着、怒り、無知」(意訳)であると説いています。
ただし、これなかなか難しい事ではあります。私達はいずれ病気になり、歩けなくなったり機能を失っていきます。家族も同様。「父さんにはいつまでも生きていて欲しい」と思っても、叶わないことです。極端な話、どなたかが明日事故で、お別れすることになるかも知れません。
その時に「自分に原因を見いだし、現世をいかに楽しめるか」と言えますでしょうか。私にはその自信がありません。だから仏様に祈るのです。但しそれができるのは、ある意味「自分でできることはしている」からです。自分に余力を残して誰かに縋るなんて、できません。
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前後際断
曹洞宗の吉田俊英と申します。
釈尊は積極的に来世のことを説いた訳ではありませんが、当時のインドの一般的来世観に即して教えを説きました。一般に次第説法と言われています。「天上界に生まれる」というのは飽くまでも比喩的な表現です。布施行を通して善根功徳を積み、五戒を保って正しい生活を送る。今を生きることを大事であると説いて居られます。
下記のURLをご参照ください。
https://hasunoha.jp/questions/1831
禅宗では、前後際断ということを用いて、今と言う時を大事に生きることを説老いております。道元禅師は『正法眼蔵 現成公案の巻』で懇切に説かれています。検索すれば、詳しく説明しているサイトが幾つかありますので、参照してみてください。
満足すれば
食べるのに満足した人は食べるのを止めます。
眠るのに満足した人は眠りから覚めて起きます。
ならば、生きることに満足した人は、生きものであることから卒業するのではないでしょうか。
即ち平安なる滅び、全きニルヴァーナ。
いわゆる「思い残すことなく成仏」ですね。
質問者からのお礼
仏教でいう「現世での苦しみ」は「どうにもならないのにそれに執着することで起こる悲しみ」であること、また仏教は現世での幸福も目指していると言うことがわかりました、ありがとうございました