空の思想というのは一切の枠組みを設けないと言うことでしょうか? 例えば世間ではいちいち善悪を持ち込んで価値判断して断罪しますが、空では一切の枠組みを設けないので、善悪がなく、完全に自由と言うことになります。 また、善悪が無いことで安心できない人が大勢いますが、それも安心と言う枠組みを設けなければ完全に自由でいられます。 また、安心してもそれが本当に安心なのか心配する人もでてくると思いますがそれも同じように心配と言う枠組みを設けないでいれば自由でいられます。 脳内で湧き上がるあらゆる妄念には枠組みがあって枠組みを当てはめることで苦悩が生じますが、このようにその都度、一切の枠組みを取っ払うことで完全に自由な空という物が発現するのでしょうか? まとめると、あらゆる場面で枠組みを設けなければ全ては幻想と言うことになりそれが空という物でしょうか? 不立文字を無視して質問しましたが、ご回答お願いします。
御寺の方から告知がありましたので、ご報告致します🙇 腕数珠を受けてある方に、お知らせです、 8年に一回 神座が一周いたします 3/21で腕数珠の四天王珠が少しずつ擦れに入りますので 御数珠の四天王を変えることを おすすめ致します 意味がわかりません。教えてください
新しいお守りを買おうと思っているのですが、古いお守りが沢山あるのですが、どのように処分すれば良いのでしょうか? 購入した神社やお寺に返すと良いとも聞いたのですが、購入した神社やお寺が遠方にあり難しいです。どうすれば良いのでしょうか?
真言宗を信心している者です。朝のおつとめをする場所がありません。何もないところで、やっています。これでもいいのでしょうか。
幼少の頃より、仏教の中道という考え方に魅力を感じていました。 その後、大病をし、不治の病であることから、今後どのような考え方で生きていこうかと模索していました。 もうたたかうのはやめよう。 もし勝負を挑まれたら、あえて負けよう。 という結論に至りました。 およそ20年後に、まさか仏教徒になろうとは考えたこともありませんでした。 今更ながら、怨親平等という教えを知り、自分に対して危害を加えてくる相手を平等と考えることにかなり苦しみましたが、み仏の教えは守ろうと考えられるようになりました。 ただ、相手が仏教徒でもなく、攻撃的で私を叩き潰そうとしている場合はどうなのでしょう。こちら側からは怨親平等で貫くべきなのでしょうか。 もうたたかうのはやめよう、とかつて決めていたのですが。
仏教の教えで、なぜ私たちは他人の幸せを気にするべきとありますがなぜですか? また、経典に従えば道徳的な心の改善はできますか?
真言宗を信仰している祖母に、夫の胆嚢ポリープに悪性の可能性が出てきた。と相談したら千枚通しをもらいました。 南無大師遍照金剛と三回唱え、お願い事をいい、千枚通しを一枚お水で飲み、また南無大師遍照金剛と三回唱えなさい。と教えてもらいましたが、ネットで調べたところ手順が違うようで、どれが正しい頂き方か分かりません。 どうかお教えいただけたら嬉しいです。 よろしくお願い致します。
不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。 仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか? 教えて頂けると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。
いつもお世話になっております。 あるお坊さまから、阿弥陀仏さんとお不動さんでは教えもお誓いも全く違う事も伺いました。(阿弥陀様は、「すべて受け入れる」、お不動さんは「阻む物を追い返す」) 私の関わって来たお坊さま方はそれぞれ、 「左手の縄でもって無理やりにでも仏道に引き入れる」、「仏道を妨げる物を追い払う」という対極的な教えを説いています。 私は浄土宗の人間なので、あの寺の職員はお不動さんの教えにのっとって 「畑違い、出て行けや!」 的な行動をとったのかとも思いました。 遠い昔に法然上人が感じた肩身の狭さを知り、「女は成仏できない」と説かれていた事も知りました。 ですが、どうも私はお不動さんがその様な悪い神さま?には見えません。 あの細めた左目が、悲しそうに泣いているように見えるんです。 人によってはご気分を害してしまう様な質問かもしれませんが、 お不動さんはどんな想いを抱いて私たちを見ているのでしょうか。 国内の浄土宗寺院にも、不動明王をお祀りしている所があると聞きました。 なので余計混乱しています。 くだらない事かもしれませんが、 ご教授のほど、よろしくお願いいたします。
はじめまして。先日、お寺の会に初参加させていただきました。 お経をみなさんと一緒に唱え、その後にお坊さんからのお話をいただきました。 その中で、「今日ここでお経を唱えたからといって、みなさんの悩みや、起こるかもしれない災いなどが無くなるという訳ではありません。仏教の道は厳しいのです。お経を唱えたことで、災いがこのくらいで済んだ、この程度で済んだ、という捉え方をして下さい。あとは努力をする事です。」 とのお話がありました。 仏教の世界でいうところの努力とは、どのような事をすれば良いのでしょうか。 あまりにも幼稚な質問で申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
生きることはつらい事ばかりおきます なぜでしょうか? 仏教では、なぜと教えていますか? またそのつらさに負けて自決を選んでしまった場合 その先には、何が待ってますか? 何年か前に、大好きで信頼している人が自決しました 気持ちは、とてもわかります なるべく、多くの教派の方のご意見がききたいと思います 教派により、教えに違いはありますか?
私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品が、昔からいろいろに解釈できて、ずっと不思議に思っていました。 最初に読んだとき(子どものとき)は、 ①カンダタは莫迦だなあ、自分ならきっと、みんなと力を合わせて、みんなで極楽にたどり着くのに と思った ちょっと時間がたって(思春期) ②どうせ私もカンダタと同じだろう、きっと誰でもエゴが勝ってチャンスをだめにしてしまうに違いない と思った またしばらくして(反抗期) ③お釈迦様って何様なんだ!(お釈迦様だけど。)教養もなく悪人として生きてきたカンダタを、カンダタが成功しそうにない極限状況で試すなんて。助ける気なんかもともとないじゃないか、この話に正解も救いもないじゃないか と思った また少しして(青年期) ④カンダタが蜘蛛の糸を見ても登ろうと思わないくらい達観していたら、もしくは落語の江戸っ子のように、「一度地獄に落ちた身分の自分が、いまさら蜘蛛の糸などにすがってたまるか」と居直っていたら、お釈迦様は確実にカンダタを助けていたのかも と思った そして今(中年期) ⑤芥川が絵本として子供向けに書いた以上、一周回って、①の子どもらしい慢心(カンダタを通した戒め)が作者の意図した一番素直な読ませ方なのでは とも思う そこで質問です。 カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすればよかったのでしょう。 回答者陣のお坊様方は、自分の仏教に関するすべての見識や体験をふまえたならば、助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか? それともこれは、カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか? その他、この作品に対してどう解釈しますか?
私はキリスト教には詳しく、「イエス様を信じないと地獄に堕ちる」と言う教えがキリスト教にはあるようです。仏教にも、「仏陀を信じないと地獄に堕ちる」というような教えはありますか?
うまく言えませんが、般若心経を覚えることに挑戦してみようと思っています。 まずは意味は分からないけど全部言えるようになる方がいいか、一区切りずつ意味を分かって覚えて行くべきか迷っています。 つまらない質問ですみません。 よかったらアドバイス下さい。
連続投稿失礼します。 我が家は子もなく、甥姪もなく、主人と二人きりになります。 主人を一人残して世を去るのはしのびなく、石にかじりついてでも後に残ろうと 決心しています。すると自分一人残る訳ですが、弁護士さんか誰かと契約し て、自分は直葬と墓がありますのでそのまま墓に直行、と思ってます が・・・。 やっぱり四十九日までの法要をしないと、はすの葉の上に座れず、主人に も会えないでしょうか?
仏教に、盗まれた相手の許可なく、泥棒のを横取りしても良いという教えがあるのでしょうか? 報道を視て、韓国の仏教には、道徳や理性がないのかと思うと悲しいです。 長崎県対馬市の観音寺の前住職が怒っていましたが、お坊様が怒っておられる姿を初めてみました。 このままでは、仏様も悲しまれていると思われますし、とても悲しいです。 対馬だけではなく長崎や他でも韓国人の盗難事件があり、東北では仏様やお稲荷様が韓国人に多数、破壊される事件も起きています。 これでは、下手すればの宗教戦争です。 どう思われますでしょうか?
坐禅を始めて2年ほどたちました。当初、気持ちいい、リフレッシュする程度で通っていたのですが、ある時、坐禅ってそんな程度じゃない気がして、仏教に強く興味を持ち始めました。 知識を得ることも行を行うことも大切だといわれます。そこで迷ってしまったのですが、仏教に関する書籍はすさまじい数だし、歴史もあるだけに書かれている内容も様々だし、知識を得るとしてもどこから手をつけていいのか分からなくなってしまいました。何冊か読んでみましたが、言葉が難しかったりで遅々として進みません。 行についても知りたいのですが、今回は知識を得る方法(+仏道)についてお尋ねします。 ・仏教に関する用語集等があるものなのでしょうか。古語辞典等も活用するものべきでしょうか。 ・書籍等より経文を理解すべきなのでしょうか。 ・現在曹洞宗のお寺に通っております。正法眼蔵を始めて読むには、どう手をつければよいでしょうか。 ・宗派にこだわらず、これは!というものがあればお教えください。 ・最後に、仏道とは結局どういうことでしょうか。心がけなのでしょうか。結果として名づけられるものなのでしょうか。 漠然としていて申し訳ありません。全く分かっていないことに改めて気づいて、何とか前進したいと思っています。何卒よろしくお願いいたします。
法話集を求めて 近くの書店へ行ったときに、 読んでみたいなぁと思う本がありましたので 購入してさっそく読んだのですが、 書かれている内容は、 なるほどなぁ、ありがたいなぁ、 これからはこういう風に 生きていきたいなぁと前向きになれたり、 仏教についても理解が深まったり、 素敵な本だったのですが、 亡くなった人は仏様になったのだから 食べ物に好き嫌いはありません 故人の好物をそなえるのは 供養とは真逆の行為です、 仏様になったということを 信じていないことになります。 とか 仏様になった故人に、 手紙を書いても声は届かないし読めない 故人との思い出を綴ることは良いが 手紙を書くのはすすめない、 と言う内容のことが書いてありました。 他の内容はとても素敵なのに 自分がしている行動と違うからか、 どうしてもこの2つが気になります。 著者の方の考え方を否定しているわけではありません。 仏教の中で、このように考えるのか、 それとも著者の方が、このように考えておられるのかがわからず、混乱しています。 日本語がおかしいですかね、すみません。 わたしの理解力が足りないのかもしれません、 失礼なことを申し上げているかもしれません。 ですが、このモヤモヤをはっきりさせたいです。何かお言葉をいただけたら、と思います。 未熟ですみません。
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。