仏教用語で、有無同然という言葉があります。私はこの言葉と出会い、いきる意味がわからなくなりました。 なにかを得ようと努力して苦しみ、なにかを得ても苦しむ。だとしたら、なにもしないことが幸せなのでしょうか。夢を追うことに意味はないのでしょうか。 有無同然という言葉には、いずれ死ぬ定め、という考え方があるように思います。死ぬのだから努力してもしなくても変わらない、となると生きることがむなしくなります。みなさんは有無同然を、どのように考えますか?
正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。
お坊様が「仏教徒で良かった」と思われる時はどんな時ですか? ちなみに私は、あらゆることにご縁を感じるとき、また、仏様に生かされていると感じるとき、心の底から仏教徒でよかった!と叫びたくなります(*^^*)
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三年くらい前に仏教に出会ってから、その考え方に感動し自分なりにかなり努力してきたと思います。 (とは言え日常生活に取り入れるくらいですから、お坊さんに対しこの程度を「仏教修行」と言うにはおこがましいかもしれません。) 他者は己をうつす鏡と言うのは本当で、誰かに対し怒りや悪感情を覚えたならそれはその人ではなく、自分の内面の未熟な箇所が露になっているのだということを、仏教はわたしに教えてくれました。 そんな考え方を持ってから、自然と友達が多くなったと思います。 同時にちょっと辛いことも多くなりました。 頼られすぎていると言えばいいんでしょうか。 相談を長く受けているうちに、相手が多分甘えているのだと思いますが、攻撃的になる人も中にはいます。 相談をしながら何だかこちらに向けて嫌みをおりまぜてくるというか。 社会的に見ると身勝手、というような行為を受けることもあります。 「辛いことがあったから家に来て聞いてほしい」と言われ一時間半かけて向かったら、「彼氏が家に来ることになったからやっぱり帰って」と帰されたりとか、そういうことがままあります。 内心ぎょっとしますが、それすら優しく迎えられるような人間になりたいと思っていたので「そっか、じゃあ彼氏とゆっくりね!後日のろけを聞かせてもらうんだからな☆」と笑って終えます。表面だけではなくて、優しい感情を持ってそう言います。 私には二つ障害がありまして、また診断を下すほどではないけどかなりその傾向があるよ、とお医者さんに言われている障害がもう一つあります。 友人には特に隠しているわけではありませんが話していないので、友人が嫌味をわたしに言うときに障害の症状にあたる面をなじられたりすると、結構こたえます。これは私自身が私の欠点に感じているからでもありますが、やはりきついものはきつくて、一時期ある友人とは距離をおいたことがありました。 するとその友人の母らしき人が電話をかけてきて、「あの子の支えはあなただけなので支えてあげてほしい」みたいなことを言われました。 もうなんか全部きっついな。自分でもサイズの合わないタイトなジーンズにねじ込んでるな、と思います。 こころざしのレベルを少し落とした方がいいのでしょうか。 障害のこともあり頑張ってきましたが、今までの努力が間違っていたとしたらなかなか悲しいです。
いつもお世話になっております。 今まで日和を気にしたことはあまりなかったのですが、子どもが生まれてから少し気になるようになりました。 というのも、長女が生まれた日は仏滅、次女が生まれた日は赤口でした。二人とも日が悪く、気の持ちようかもしれませんが、少し気になっているので、お坊さんからのアドバイスをいただけるとありがたいです。
仏様が叱っても悪いとこが直らないやつはどうしようもないってことでしょか
いつもお世話になっております。 もう当面は例の法要会にいけそうにないので、仏事の質問は ここでさせていただきたく存じます。 * 仏は誰かを傷つけよう、陥れようとする願い、それから自分の 欲求だけを満たそうとする願いは聞いてくれない。 皆さんの願いと一緒に、わたしのお願いも聞いてくださいと 願うのが正しいお願いの仕方だとお話をいただきました。 * ですが私自身も難儀を抱えており、 愛し守ってくれる親も無し、お不動様や阿弥陀様を父母と思い、 慕い縋って生活している次第でございます。 * 私自身、人のために願い事をして、その人に裏切られるのが 恐い、という思いがあります。一度成功しましたが… 大祭などでお札を奉安するときも「信徒安全」と書きますが 基本的に普段はご本尊様の前で自分の感じる辛さを吐露して 時には涙すらこぼします。 * でも普段の生活においては赤ちゃんに笑いかける、席を譲る 、お礼とねぎらいの言葉を忘れないなど多々気を付けています。 * 私のやり方は間違っていますか。 どうかお教えいただきたく存じます。
主人が亡くなり、両親に会えたかな…と何気なく話をしたら、Sの方に、仏教は3年経たないと会えないんだよ、Sならすぐ会えるから、入りなさいと言われましたが、本当ですか? Sに入る気もありませんし、Sの方達を否定もしておりません。それぞれ、信じる道を進んでよいと思います。ただ、本当なのかな、と思い、こちらに質問させていただきました。
以前の質問とはうって変わった内容で失礼いたします。 禅宗のお坊様方の中で、ご存知の方がおられましたらお教えください。 Wikipediaの「応量器」の項目に、こんな記述があります。 材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である ここで疑問に思ったのですが、なぜ木製が禁じられているのでしょうか? 器の腐敗を防ぐため、あるいは木片(ささくれ)がのどに刺さることを防ぐためなのかとも思いましたが、鉄製であれば錆もでましょうし、それがのどに悪影響を与えることもありましょう。 にもかかわらず、なぜあえて木製の器のみを指定して禁じたのか、その経緯をご存知であれば、お教えください。 また、昨今はプラスチックの器が増えておりますが、漆器ではなくプラスチック製を応量器(持鉢)に用いているということは無いのでしょうか?こちらも、お教えいただけましたら幸いです。
私は14年前、母を交通事故で亡くしました。 突然のことで、最後に話すこともできず お別れしてしまいました。 亡くなってからしばらくして、母の夢をみました。 私が母を抱っこしたら骨になった…という夢で、 その日が四十九日の日でした。 それから14年、ずっと母の夢をみていません。 自分も病気をして1度命の危機を感じたとき すごく母に逢いたいと思いました…。 思いついてお墓参りに行ったりしましたが なんとなくすっきりせず…。 仏教的には 夢にみたり、逆に全然夢に見なくなったのは 何か意味があるのでしょうか? 気になります。
先日はお坊様からのアドバイス頂き、ありがとうございました! そのアドバイスに、利他行をするようにとありましたが、具体的に利他行とはどのようなことをしていけばよろしいのでしょうか?
お忙しい所恐れ入ります。 仏教では自分の両親を敬い大切にしなさい、と教えられております。 しかし、今の世は「気に入らない」とか「言う事を聞かない」といった理由で、教育や躾という大義名分の名の下に我が子を虐待し、場合によっては殺してしまう事もあります。 その様な幼少期を過ごした子供が両親を快く思わない事は、想像に難くないでしょう。 それでも子は、両親に感謝し敬い、大切にしなければいけないのでしょうか?
お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。
いつもお世話になります。 昨年 真言宗のお寺で護摩焚きをした際 祈祷札を授かりました。このお札の裏側には焦げ目のような汚れが、ありました。これは、お札を護摩焚きの火で炙ってるのでしょうか?
自分自身の考えに限界を感じています。 人生的な考えであって、哲学書などを読みふけっています。 ただ、仏陀の教えに関して詳しく書いている書物を読もうとしても どうしてもその介錯が何か仏陀の教えと言えるものは違うことのように解釈をしている翻訳家が多いように感じます。 仏門を修めている方にその辺りを詳しく書いている本や、自分は仏教や仏陀の教えをこうして学びました、というものがあれば教えていただけるでしょうか。 よろしくお願いします。
婚家親族に拝み屋さんがいらっしゃいます。 観音様以外にも複数奉られており、一族護られているそうです。 その婚家のお姑さんから嫁いびりを受けております。 他人への差別発言もされますし、動物の虐待のような行為もあるようですが、それでも神様は護るものなのでしょうか。 他者へひどい事をしても神様に護られる家系は存在しますか?
たびたび神経質な質問をして申し訳ありません。 阿弥陀様、お不動様、三面大黒天様をお祀りしています。 勤行は原則、毎日行なうものと聞き、その通り実践しております。 しかし出張や里帰り、旅行等で家を数日あけざるを得ないことがあります。 あるいは病気になるかもしれません。 仏様は怒ったりはしない。 しかし天部の神様は、怒ったりはしないが、失礼にあたる。 と聞きました。 ある人(在家)は、理由をお話しして旅行に出れば、まったく問題ないと言います。 また別の人(’在家)からは、あらかじめ勤行を休むことが分っている場合、「拝み溜め」をした方が良いと聞きました。つまり2日休む時は、前の日に休むぶんを合わせ3回勤行するべきなそうです。そしてこれは外出前に前もって行うのが原則と聞きました。 可能な限り、私は「拝み溜め」をしています。 ただ「拝み溜め」の場合、1日2日の短期旅行の場合は良いのですが、1週間以上の長期旅行となると、少々大変です。 また急な出張等で時間が無い場合もあり得ます。 こうした場合、どうすべきなのでしょうか? よろしくお願い致します。
保育士をしています。 子どもたちは鬼ごっこが大好きで、私も、色んな鬼ごっこを子どもに伝え、一緒に遊んできました。 しかし、最近、鬼から逃げるという遊びは仏教の観点から考えると良くないのではと思い、不安になり、子どもから誘われた時にとても困ってしまいます。 ご意見をよろしくお願いします。
密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか? 2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。