お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。
いつもお世話になります。 昨年 真言宗のお寺で護摩焚きをした際 祈祷札を授かりました。このお札の裏側には焦げ目のような汚れが、ありました。これは、お札を護摩焚きの火で炙ってるのでしょうか?
自分自身の考えに限界を感じています。 人生的な考えであって、哲学書などを読みふけっています。 ただ、仏陀の教えに関して詳しく書いている書物を読もうとしても どうしてもその介錯が何か仏陀の教えと言えるものは違うことのように解釈をしている翻訳家が多いように感じます。 仏門を修めている方にその辺りを詳しく書いている本や、自分は仏教や仏陀の教えをこうして学びました、というものがあれば教えていただけるでしょうか。 よろしくお願いします。
婚家親族に拝み屋さんがいらっしゃいます。 観音様以外にも複数奉られており、一族護られているそうです。 その婚家のお姑さんから嫁いびりを受けております。 他人への差別発言もされますし、動物の虐待のような行為もあるようですが、それでも神様は護るものなのでしょうか。 他者へひどい事をしても神様に護られる家系は存在しますか?
たびたび神経質な質問をして申し訳ありません。 阿弥陀様、お不動様、三面大黒天様をお祀りしています。 勤行は原則、毎日行なうものと聞き、その通り実践しております。 しかし出張や里帰り、旅行等で家を数日あけざるを得ないことがあります。 あるいは病気になるかもしれません。 仏様は怒ったりはしない。 しかし天部の神様は、怒ったりはしないが、失礼にあたる。 と聞きました。 ある人(在家)は、理由をお話しして旅行に出れば、まったく問題ないと言います。 また別の人(’在家)からは、あらかじめ勤行を休むことが分っている場合、「拝み溜め」をした方が良いと聞きました。つまり2日休む時は、前の日に休むぶんを合わせ3回勤行するべきなそうです。そしてこれは外出前に前もって行うのが原則と聞きました。 可能な限り、私は「拝み溜め」をしています。 ただ「拝み溜め」の場合、1日2日の短期旅行の場合は良いのですが、1週間以上の長期旅行となると、少々大変です。 また急な出張等で時間が無い場合もあり得ます。 こうした場合、どうすべきなのでしょうか? よろしくお願い致します。
保育士をしています。 子どもたちは鬼ごっこが大好きで、私も、色んな鬼ごっこを子どもに伝え、一緒に遊んできました。 しかし、最近、鬼から逃げるという遊びは仏教の観点から考えると良くないのではと思い、不安になり、子どもから誘われた時にとても困ってしまいます。 ご意見をよろしくお願いします。
密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか? 2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。
お坊様に教えて頂きたいことがあり、こちらに書いてみました。 実家に庭があるのですが、私の祖父の代から庭に行者菩薩と書かれた石碑が置かれた祠のようなものがあります。 祖父はもう20年近く前に亡くなっています。 実家は祖父から私の父に継がれてますが、庭仕事が趣味だった祖父が亡くなり現在は誰も庭の管理をしなくなり荒れた庭となっています。 その行者菩薩様の祠も祖父が建てたらしいのですが、庭も荒れ放題で祠も誰も手入れをしないことが最近気になっております。 そもそもどんな経緯があって実家にこの祠があるのか実家の父も母もよく分からず、荒れた庭にとくに何もされずに放置されてる状態です。 しかし、何か理由があり実家に祀られていて管理をしていた祖父が居なくなって放置というのもどうなのかと思っています。 祠を建てお迎えしておきながら長らく荒れた庭に・・なんとなく実家に今の状態を見に行ったのですが、祠には蔦が絡まり隣に植えられてる紫陽花の枝が祠を覆うように伸びていて、これはちょっと庭全体を片付けるのは難しいにしても、せめて祠と祠の周りくらいは綺麗にした方がいいと思いました。 道具を揃えて実家に掃除に先ほど行ってきました。 なんだか・・そうした方がいいと思って。 私自身も祠の存在のことなど忘れていたので今更という気もしましたが・・。 長らく放置してしまってますが、この祠はこれからどのように管理したら良いのでしょうか? 私自身は家庭を持ち実家を離れております。 隣町なのでいつでも行ける距離ではありますが、どのように管理していくのが適切なのか教えて頂けないでしょうか?
今日亡くなった母の四十九日でした 母が良いところに行けるには自分は何をすべきでしょうか? 高齢の母をしばらく実家に一人で住まわせて申し訳ないという思いが ありました 母にあまりなにも出来ずに病気で亡くなってしまいました やはり自分が至らないのだろうと思います かわいそうな事をしたと思います これから母はつらい所へ行くのでしょうか? さみしくないように 苦しまないように願いますが 残された自分に出来ることを教えてください
はじめまして´`* 私は仏教系の女子校を卒業して現在は短大でいけばなをしています。高校では毎週宗教の授業が嫌ほどあり、頭が悪いのか何なのか、なぜか宗教だけ成績が一番良かったです( ̄∇ ̄)ですがそこまで宗教に興味がありませんでした。高校3年になると得度を受けないとみんな卒業させないと言われたので仕方なく受けた感じでした。 卒業してからは短大でいけばなをしています。いけばなは仏前供花が元になっているので現在でも仏教的思考は少なからずあると思います。いけばなの歴史などを勉強しているうちに仏教にも興味を持つようになりました。 いけばなや仏教を勉強しているうちに、ふとこんな言葉を思い出しました。〝人間になるな、人になれ〟です。 これは得度をした時に学校の先生(お坊さん)が言った言葉です。当時は意味がわからず流して聞いていましたが、今でもわからず日々考えていますが、なかなか答えにたどり着きません。 〝人間になるな、人になれ〟とはどういう意味なのでしょうか?ぜひお坊さんの力を貸して下さい!
高校生の頃から将来や未来に対して、漠然とした恐怖や不安に絶えず襲われて、何をするのにも尻込みしてしまう癖がついてしまいました。 社会人になって仕事を初めてからもずっとその癖が抜けず、人間関係の構築、効率的な思考、発言も下手くそになってしまい辛い日々を送って来ました。 最近は世間も人も未来も、とにかくありとあらゆる事柄に不安と恐怖を感じるようになり、自分は本当は何が怖いのか、何がしたいのか、誰に何を言いたいのかわからなくなって、ただ得体の知れない恐怖と不安に支配されてしまいました。 自分でもわからない心の不安と恐怖をどう相談していいかも判然とせず、ずっと自分の内に押し込めたままでした。 そんな時に、お坊様が相談に乗ってくださるサイトがあること知り、試しに覗いてみると世間には自分と似た若しくは、それ以上の悩みや苦しみを抱えた人がこんなにも多いものかと、悲しくなったと同時に一つ一つ丁寧に回答して下さるお坊様達の慈悲の心に深く深く感動致しました。 それからと言うものお釈迦様の教えや仏教の歴史をより深く知りたいと考えるようになり、書籍を読んだりやお寺に訪れて手を合わせるようになりました。 すっかり仏教の虜です。 未だに不安や恐怖は取り除けてはいないのですが、仏教と出会う前よりは心が軽くなってきたと感じております。 ハスノハを通じて、お釈迦様の教えに触れる機会を与えて下さった縁とお坊様達に誠に勝手ながら感謝の気持ちを伝えたくなり、文章を送らせて頂きました。 本当にありがとうございます。 最後に乱文、長文で読みにくいものになってしまい。申し訳ありません。
空の思想というのは一切の枠組みを設けないと言うことでしょうか? 例えば世間ではいちいち善悪を持ち込んで価値判断して断罪しますが、空では一切の枠組みを設けないので、善悪がなく、完全に自由と言うことになります。 また、善悪が無いことで安心できない人が大勢いますが、それも安心と言う枠組みを設けなければ完全に自由でいられます。 また、安心してもそれが本当に安心なのか心配する人もでてくると思いますがそれも同じように心配と言う枠組みを設けないでいれば自由でいられます。 脳内で湧き上がるあらゆる妄念には枠組みがあって枠組みを当てはめることで苦悩が生じますが、このようにその都度、一切の枠組みを取っ払うことで完全に自由な空という物が発現するのでしょうか? まとめると、あらゆる場面で枠組みを設けなければ全ては幻想と言うことになりそれが空という物でしょうか? 不立文字を無視して質問しましたが、ご回答お願いします。
御寺の方から告知がありましたので、ご報告致します🙇 腕数珠を受けてある方に、お知らせです、 8年に一回 神座が一周いたします 3/21で腕数珠の四天王珠が少しずつ擦れに入りますので 御数珠の四天王を変えることを おすすめ致します 意味がわかりません。教えてください
新しいお守りを買おうと思っているのですが、古いお守りが沢山あるのですが、どのように処分すれば良いのでしょうか? 購入した神社やお寺に返すと良いとも聞いたのですが、購入した神社やお寺が遠方にあり難しいです。どうすれば良いのでしょうか?
真言宗を信心している者です。朝のおつとめをする場所がありません。何もないところで、やっています。これでもいいのでしょうか。
幼少の頃より、仏教の中道という考え方に魅力を感じていました。 その後、大病をし、不治の病であることから、今後どのような考え方で生きていこうかと模索していました。 もうたたかうのはやめよう。 もし勝負を挑まれたら、あえて負けよう。 という結論に至りました。 およそ20年後に、まさか仏教徒になろうとは考えたこともありませんでした。 今更ながら、怨親平等という教えを知り、自分に対して危害を加えてくる相手を平等と考えることにかなり苦しみましたが、み仏の教えは守ろうと考えられるようになりました。 ただ、相手が仏教徒でもなく、攻撃的で私を叩き潰そうとしている場合はどうなのでしょう。こちら側からは怨親平等で貫くべきなのでしょうか。 もうたたかうのはやめよう、とかつて決めていたのですが。
仏教の教えで、なぜ私たちは他人の幸せを気にするべきとありますがなぜですか? また、経典に従えば道徳的な心の改善はできますか?
真言宗を信仰している祖母に、夫の胆嚢ポリープに悪性の可能性が出てきた。と相談したら千枚通しをもらいました。 南無大師遍照金剛と三回唱え、お願い事をいい、千枚通しを一枚お水で飲み、また南無大師遍照金剛と三回唱えなさい。と教えてもらいましたが、ネットで調べたところ手順が違うようで、どれが正しい頂き方か分かりません。 どうかお教えいただけたら嬉しいです。 よろしくお願い致します。
不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。 仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか? 教えて頂けると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。