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色即是空 空即是色の「空」 について

不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。

仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか?

教えて頂けると助かります。
どうぞよろしくお願いいたします。

仏教
有り難し 44
回答 6
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

分別も分別無しの分別行為は分別行為ながらに分別で無し

天然無為の純粋行為それ自体には何の罪も咎も善し悪しもないということを知ると良いでしょう。理由付けは後からやるものです。自分で行為しているようでも、行為の当初は無自覚に行為されるだけ「ただそれだけ」なのです。
どんな選択でもその本質が人間の見解がそこに入らないままに行われている。その行為自体が人間の分別心や見解を離れているので、仏性(=人間の見解・「私」をはなれたさま)として、行為されているのです。
それそのものが、そのものでありながら(行為であっても)、人間的な着色が何もなされないままに存在している事を仏性・仏相といいます。
自性がないということは、言い換えますと「それそのもの性」といえます。
無いのではありません。それの「おのずから性」を全うしているのです。人間が評ずる善し悪しや是非な名称もないままの様子。
ですから、我々の意識は意識という「おのずから性」なのです。
意識の働きがあるだけで天然自然の働きですから、そこには「わたくし性」がありません。
もちろん自分のエゴや欲望たっぷりに行為するものは別ものです。
「わたくしなきさま」「わたくしによって拾い上げられるもののなきさま」=空
私たちの内に発生する想念にすら発生時点では「自分の」というラベルがありません。
無自性=「無我なる働き」と読み替えてみると分りやすいと思います。
無我=わたくし性の無い働き自然なはたらき
自性=わたくし性
自分自身の活動をよくみてみると、出てくる思いにも聞こえる音にも、見える景色も呼吸も「わたくし性」がないありようとして、全自動でポンポン出てきているはずです。
よって「わたくし性」がないままになされている行為こそ大安楽なのです。
人間の思いや純粋な言動には本来が自性やわたくし性がはじめからついていない姿のままになされているから、これを自覚されればなにを為すにも安心安楽なる行なのです。
そこを離れて人間の見解越しに(わたし的に)扱えばわたくし性丸出しでエゴエゴにすらなるものなのです。
☝たとえば空いている席に何気なく座ったとします。
そこに理由付け、理屈はありません。
ただイスの上に腰を下しただけです。
後から「なぜキミは他にもたくさんイスがあるにもかかわらずあなたはこの椅子を選んだのか?」などという理屈をコネられても理由すらない。いつでもそういう(仏性のままに)行為されているはずです。

回答僧

大慈

部派や時代で無数の解釈がある所です

ん〜…ややこしい所ですよね。一言に心といっても、「あ、女性だ!」と、パッと知覚する感覚的な心、そこに「俺の好みだな。でもちょっとあの辺の特徴が気になるんだよな」と評価したり好き嫌いを付ける心、短期記憶や長期記憶、さらには深層心理的な誰にもよく分からない心、様々な心に細分化されます。

その中でパッと知覚する一次的な心は反応に近いでしょう。しかし評価したり好き嫌いをつける二次的な心は行動に近いです。かといって100%割り切れるわけではないでしょう。

でも大切なのはそこではありません。
空のややこしさは色即是「空」・「空」即是色を取り込んだ、さらに大きいくくりの『空』がある所です。禅の言葉で言うと「箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。不思量底いかんが思量せん。非思量(ひしりょう。」です。
それぞれ違うということ(個・思量・色)と、1つということ(全・不思量・「空」)、両者が融和して『空』であり、非思量なんです。般若心経ではそれを「空」と般若波羅蜜多(『空』)で呼び分けているのかなと今ふと思いました。

例え話です。お母さんが赤ちゃんを育てています。赤ちゃんが便秘になりました。生理的便秘といって、新生児にはしばしばあります。10日以上続くこともあります。「こんなに小さいのにお腹に溜め込んで、なんと可愛いそうなことか…代われるものなら代わってあげたい…」そう思っているうちに遂にブリブリイィィィ!ヤッタアァァァ!お母さんは自分の事のように大喜び。

こんな時お母さんの心に赤ちゃんが満ち満ちて、お母さんの「私が私が」という我が沈静化します。これが色即是空であり、我を離れて他者に通じることです。
でも、どんなに我を沈静化させても、親は親だし子は子です。子がおっぱい出して親に飲ませるなんて自然の摂理に反します。親は親をまっとうし、子は子をまっとうする…それぞれの違いをまっとうすることがそのまま全体に通じます。これが空即是色です。
この個を全にもっていくベクトルと、全もまた個々であるベクトル、両方が矛盾なく和した上での悟りです。

違いにこだわれば自分への執着です。しかし全体だけでは悟りへの執着です。あくまで個人的な見解ですが、全体性だけを神聖視するのは形而上学的になりがちで、ヒンドゥー教やジャイナ教か何かそっち方面の色を感じます。

回答僧

法演

ホッシー様

「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、
実は選択していない」ということになるのでしょうか?

「意識」にも「自性」はないと思います。
自性、中心、主体そうゆうものがなくても
立派に、完璧に生命は働いていると思います。
むしろ自性、主体を認めないほうが、
すばらしい働きをすると思います。
「私」以前に大きな、完璧な働き、智慧が
働いています。
それを「私が」とつけて説明しているだけです。

自己といっても正確には2つの意味があると思います。
一つは大元の、本来の自己。
もう一つは、普段自分と思っている、「私」「自分」
とよばれるもの、これは観念です。認識作用の作り出したものです。
何かを見ている自分、生まれてから死ぬまでの間の自分・・・です。

無我や空ということが敢えて言われるのは、
私たちが、観念としての自己を、実体のある、本当の自分と
思い込んでいるからです。
「自己選択をしているようで、実は選択・・・」の自己は
観念の自己ならそうです。選択はしていないとも言えます。
観念の自己を創り出している、大元の自分は働きそのもの
ですから、選択しているとも言えます。

「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、
そこに「自己選択」などというものはないということになる
のでしょうか?

大元の自分の働きを「反応」と呼ぶか「自己選択」と
呼ぶかは、表現の違いで同じものでもあると思います。
大元の自分の反応というのは、
その人が、その人の世界をすべて創るというほどの
大きな働きです。

観念の自己を観念と見極め、落とすと、
自他不二という一つの世界、全体性が現れてくる
ということ、その全体性が大元の自分ということです。

私はこのように考えています。

働きとしての私

拝読させていただきました。

そういう言い方もできると思います。ですが、自由意志がないかというと…それも違うのではと。

「空即是色」の大切さがやはりあると思います。「色即是空」で終らなせないということ。

刺激に対して反応しないこともできますよね?抵抗するわけでもなく、執着するわけでもなく…。
でもそれだと人間として不自然ですので、刺激に反応するという必要性があります。

どちらも知っていながら、どちらも否定しない、二つの働きの必要性も実感できている、というのが大事だと思います。両者の間で無自性としてゆらいでいる。

…質問の答えにはなっていないかもですが、私もとても興味のあるところです。他のお寺様のご意見もとても興味があります。勉強させていただきます。…言葉でうまく整理するのは難しいです、力量不足ですね…。合掌

空と縁起

☆ホッシー☆様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙論『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392

その中で、「色即是空 空即是色」につきましては・・

 「般若心経」と言えば、最も有名なフレーズが「色即是空 空即是色」でございますが、この場合の「色」とは、「物質的な現象のこと」であり、「物質的な現象の本質は、空なるものであり、また、空なる本質であるがゆえに、物質的な現象は、縁起なるものとして立ち現われているのだ」として、つまり、「物質的な現象は、実体、独立自存として成り立っているものではないが、空にして縁起なるものとしては成り立っている」ということ、また、「縁起なるものとして成り立っているがゆえに、空なる本質であると言えるもの」として、更に、私たちの色(物質)以外の「受・想・行・識」の各作用なども、そのようなものであると続けられています。
 いずれにしても、この世の全てのモノ・コトは、必ず他に依存することによって成り立っており、他に依存せずに成り立っているものなどどこにもなく、それがゆえに、全てのモノ・コトは、「縁起」なるものとしてあり得ており、そして、それら「縁起」としてあり得ているものは、実体が無く、「空」なるものと言い得るのであります。・・

として、「空」だからと言っても何もない「虚無」というわけではなくて、「空」と説かれるものについては、確かに存在はしています。存在はしていますが、それはあくまでも「縁起」として成立しているということになります。

そして、五蘊(色・受・想・行・識)などや様々なモノ・コトの因縁(原因と条件)における中で、それぞれの作用・働き次第において、私たちそれぞれが選択できることもあり得えているものとなります。但し、選択する作用・働きはありうるものの、ではどこがそれを選択したのかと問われても、その実体はもちろん見い出すことはできないということになります。

意思というものも、実体は無いが、縁起なる中において、その因縁次第にて選択し得ていることもあり得ているとして、運命論や決定論とも違うものであるとお考えを頂けましたらと存じます。

川口英俊 合掌

その通りだと思います。
空とは三宝印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)と因縁の道理のことですから、全てのものは空なのです。そしてその逆もまた然り。
意識も同様です。
あなたが何かを思う時、様々な感覚や知識や経験や発想やその他の原因によって、そう思うのです。
自分の意思で選択しているようで、していないともいえますね。
あなたが仏教を興味を持ったのも何かの原因によるのでしょう。
そして仏教の知識が原因となって、あなたの意思をより良い方向に導いていることでしょう。
そしてそれが原因となって、あなたの行動さらには人生を、ご家族をより良い方向に導くだろうと思います。
この不思議な関係を感じたとき、思わず手を合わせたくなるのです。有り難い、有り難いと。
あなたがこれからも仏教を学び、あなたの意思決定の為の良い原因となればいいなと願います。
合掌


質問者からの有り難し - お礼

川口英俊さま ご回答ありがとうございます。
<すべてのものが「空」であるから「縁起」なるものとしてあり得ている>という視点は、抜け落ちておりました。また、意思や選択も因縁次第で実体はないが選択し得ている(運命論ではない!)ということも腑に落ちて、心が晴れる思いです。ありがとうございます。リンクの記事も拝読させて頂きました。特に「二諦」については、まさにそのとおり!「混乱してます」という感じです。初期仏教系の本を読むと色即是空はあっても、空即是色はないという感じがしますし、「悟り」への道(往相)と「方便」としての道(還相)の区別がつかず(理解が足らないため)、混乱してしまうのです。例えば、「慈悲」についても両方があり得ると思うのですがよくわかっていません。もう少し勉強をしたいと思い ます。ありがとうございました。
聖章さま ご回答ありがとうございます
全てのものは「空」であるということがよくわかりました。全ては原因があって、その結果が今である。これからも仏教の勉強を続けたいと思います。
宗像義順 さま ご回答ありがとうございます。
「自由意志がない」というと、なにもかもが決められていて、エゴも認めざるを得ないとか考えてしまっての質問でしたので、おっしゃって頂いたことは、とてもわたしの感覚的に近いものでした。ありがとうございます。「空即是色」の考え方が私の中でまだ理解が足りなかったようです。「どちらも否定しない」ことが大事という視点も腑に落ちました。
法演さま ご回答ありがとうございます
「本来の自己」と「観念の自己」の違いよくわかりました。私の浅はかな頭では、「自己」とつくだけで「観念の自己」を想定してしまい混乱しておりました。西田哲学では、「自己」を否定することで「自己」になるといったりしますからわけがわかりません。ご説明して頂き、観念の自己と本来(空・全体性)の自己の関係が理解できました。
大慈さま ご回答ありがとうございます。
「個が全体へ、全体が個へと融和する」ことが大事だということがわかりました。「個」という意識と「全体」という意識がありそれが融和するという風に解釈いたしました。エゴもひとつの意識であり、エゴによる選択(妄想と呼ばれるもの)もありうる。エゴの選択を排し、全体性の意識に同調することで、真の自己が生まれるというイメージが浮かびました。
丹下覚元さまご回答ありがとうございます。
行為そのものが「おのずから性」であり、その行為を選択したというのは結果でしかないということがよくわかりました。後から「主体的に」解釈を加えることはエゴにすぎないということですね。ありがとうございます。全てが「空」という土台の上の現象であるならば、エゴもまた「空」の一部ということになりますでしょうか。とすると、「エゴ」と「本来性」を分別しているのは誰の意識なのかということを考えてしまいました(二分法で考える以上答えはでないのかもしれませんね)。またの機会にお聞きしたいです。
たくさんある質問の中、こんなに早くにご回答をたくさんの僧侶の方から頂けて大変有難く存じます。まだまだ不勉強ですが、今回の質問で大きく理解が前進しました。間違っているかもしれませんが、おそらく、意識というものは、「概念としての意識(エゴ等)」「プロセスとしての意識(いまここに気付く・観照者)」「全体性としての意識」があって(ないのではない)、それらが現象としてまとまりをもったものが「自己」という意識であり、「選択」も縁起の中で行われる(選択そのものが縁起)が、それが三つのどのレベルの「選択」であるかはわからない。瞑想等により、「プロセスとしての意識(視点)」を発動させ、「概念としての意識」と「全体性としての意識」を融和させることが大事。と いったイメージがわきました。おかげさまで、「すべては空なのだから、エゴもまた空であり、何選択しても変わらないのだったら、好きにしていいじゃん」と言ってくるもう一人の自分に一つ答えができました。本当にありがとうございました。

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