仏教に、盗まれた相手の許可なく、泥棒のを横取りしても良いという教えがあるのでしょうか? 報道を視て、韓国の仏教には、道徳や理性がないのかと思うと悲しいです。 長崎県対馬市の観音寺の前住職が怒っていましたが、お坊様が怒っておられる姿を初めてみました。 このままでは、仏様も悲しまれていると思われますし、とても悲しいです。 対馬だけではなく長崎や他でも韓国人の盗難事件があり、東北では仏様やお稲荷様が韓国人に多数、破壊される事件も起きています。 これでは、下手すればの宗教戦争です。 どう思われますでしょうか?
坐禅を始めて2年ほどたちました。当初、気持ちいい、リフレッシュする程度で通っていたのですが、ある時、坐禅ってそんな程度じゃない気がして、仏教に強く興味を持ち始めました。 知識を得ることも行を行うことも大切だといわれます。そこで迷ってしまったのですが、仏教に関する書籍はすさまじい数だし、歴史もあるだけに書かれている内容も様々だし、知識を得るとしてもどこから手をつけていいのか分からなくなってしまいました。何冊か読んでみましたが、言葉が難しかったりで遅々として進みません。 行についても知りたいのですが、今回は知識を得る方法(+仏道)についてお尋ねします。 ・仏教に関する用語集等があるものなのでしょうか。古語辞典等も活用するものべきでしょうか。 ・書籍等より経文を理解すべきなのでしょうか。 ・現在曹洞宗のお寺に通っております。正法眼蔵を始めて読むには、どう手をつければよいでしょうか。 ・宗派にこだわらず、これは!というものがあればお教えください。 ・最後に、仏道とは結局どういうことでしょうか。心がけなのでしょうか。結果として名づけられるものなのでしょうか。 漠然としていて申し訳ありません。全く分かっていないことに改めて気づいて、何とか前進したいと思っています。何卒よろしくお願いいたします。
法話集を求めて 近くの書店へ行ったときに、 読んでみたいなぁと思う本がありましたので 購入してさっそく読んだのですが、 書かれている内容は、 なるほどなぁ、ありがたいなぁ、 これからはこういう風に 生きていきたいなぁと前向きになれたり、 仏教についても理解が深まったり、 素敵な本だったのですが、 亡くなった人は仏様になったのだから 食べ物に好き嫌いはありません 故人の好物をそなえるのは 供養とは真逆の行為です、 仏様になったということを 信じていないことになります。 とか 仏様になった故人に、 手紙を書いても声は届かないし読めない 故人との思い出を綴ることは良いが 手紙を書くのはすすめない、 と言う内容のことが書いてありました。 他の内容はとても素敵なのに 自分がしている行動と違うからか、 どうしてもこの2つが気になります。 著者の方の考え方を否定しているわけではありません。 仏教の中で、このように考えるのか、 それとも著者の方が、このように考えておられるのかがわからず、混乱しています。 日本語がおかしいですかね、すみません。 わたしの理解力が足りないのかもしれません、 失礼なことを申し上げているかもしれません。 ですが、このモヤモヤをはっきりさせたいです。何かお言葉をいただけたら、と思います。 未熟ですみません。
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
去年11月に母から絶縁されそうになって相談した者です。あれから何とか母と関係修復できそうな雰囲気になりました。ありがとうございました。 その母なのですが、以前から「鬼子母神」を名乗る拝み屋なのか占い師なのか分からないような人を頼って色々と相談しており、その人の言うことを信じ切って行動するので私も弟も困惑しています。 例えば、母は去年初めに急性腸炎になった後、雪道で滑って足を骨折してしまったのですが、その拝み屋の人に見てもらうと、母の父(祖父)の二十七回忌法要をきちんとしてほしいという訴えだと言われたそうです。祖父の二十七回忌法要はすでに一昨年に祖母の三回忌法要と一緒に行ったのですが、母はその拝み屋の人の言う通り去年の3月に改めて行いました。 しかし、その後も母は去年4月に初期の胃がんが見つかり手術しました。その後も調子が良くないと言って、またその拝み屋の人の所に行って相談すると、今度は母が自分の実家の仏壇ばかり世話をするので、今の家(婚家)の先祖が怒っておりケンカになっているため母に災いが起こると言われたそうです。私は正直その話を母からきいた時に呆れてしまったのですが、母は真剣に受けっとって、毎日家の仏壇にご飯や季節の果物やお茶を欠かさずにあげているのにこれ以上どうしたらいいのかと私に言います。 私は母に、拝み屋の人の言葉をあまり否定しないように気をつけて、母の身体がずっと調子が悪いのは65歳の定年までずっと働きづめだったから、身体が少し休みたいと言っているのではと優しく言ってみたのですが、母本人は「だってそう言われたから」と今までと同じく私の言葉は届きません。 母は昔から神社仏閣を何より重んじており、その事自体は全く問題がないと思うのですが、その拝み屋の人の言うことをまるで神様仏さまが言っているように思うのはどうなのだろうと思います。その拝み屋の人にお礼として高額ではないにしろ渡しているのも気になります。 母に本来の仏教信仰を理解してもらうにはどうしたら良いのでしょうか。 本来であれば檀家の寺のご住職に相談すべきなのかと思いますが、母は身の上話をご住職にするなんてとんでもないと考えているようです。 仏教の本も渡してみましたが効果なしでした。何か良い方法があればご教示いただけますでしょうか。
何もわからず、失礼な質問かもしれません、お許しください。 近年、お寺や、神社など、参拝した時に、御朱印をいただくということがブームになっていると、いつかのテレビで観たことがあります。 しかし、御朱印のそもそもの意味を知らずに、スタンプラリーのように、お寺、神社構わずたくさん集めておられる方々がいらっしゃるみたいです。 私も参拝した記念にと、某神社二箇所で御朱印をいただきましたが… あるお寺では、御朱印とは写経を納めいただくものだと参拝者を諭しているともテレビで観ました。 一から御朱印について、 お寺と神社のあり方を教えていただきたいと思って質問させていただきました。 根本的に世間知らずで失礼な質問だと理解しております。 よろしくお願いいたします。
仏教についてなるべく簡単にわかりやすく書いてある本が欲しいです。 仏教が成り立った経緯とかも知りたいなと思っています。 またはWebサイトでも良いところを知りたいです。 よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 大変に唐突な質問でございますが、 仏教の世界では、障害者、無職者はまさに「障害」、「邪なる存在」なのでしょうか? * 以前にご質問した「お寺」での非礼行為に対する苦情を申し上げたのですが、依然、一部の職員さん(お坊さんは改心してくださった模様)が、いわゆる「客を見る」ような態度で接してきます。 他の寺務さんやお坊さんたちは普通なのに、その人たちの所作を見ると、「あぁ、もしかして本当は…」 と疑心暗鬼に陥ってしまいます。お護摩の時の願意の唱和?で、 「一心祈願、就職成就~!!」 と言われたり、祈祷後の短いお話も、嫌味にしか聞こえなくなるときがあります(苦情を述べる前に、私が書いた絵馬の内容を軽く引き合いに出された事がある) ちなみに宗派は新義真言宗です(「もしも」が恐いので、詳しい宗派はあえて書きません) * 私は発達障害を持っており、その影響の為か、時折ズレた行動に出てしまいます。それでも周囲に迷惑をかけないように心がけており、 就労支援にも通っているし、手帳の取得も考えています。 なので余計悲しいです。 素敵なご縁、素晴らしい教えのおかげで私自身の生活にも光が差し始め、祈りと感謝の喜びを噛み締めている所なのに…… 真実をお教えください、よろしくお願いを申し上げます。
私は、統合失調症という病気です。 夏頃に私の病気の説明会に行ったのですが、その時お医者さんが、「統合失調症は脳の病気です。」とおっしゃっていました。 そして、疑問に思ったのが統合失調症の人が坐禅や瞑想をしてもいいのか?ということです。 心の病気の方は坐禅や瞑想で良くなったという話がありますが、脳の病気の場合はどうなのでしょうか? また、仏教書を読む時の注意点などがあれば教えて欲しいです。
怒りを最小限にする、欲を少なくする実践がなかなか上手くいきません。 一年くらい前も坐禅や瞑想、掃除、料理などに励んでいたのですが、挫折してしまいました。 再び仏縁があって、今は仏教書をよんで実践しています。 始めた頃は落ち着いた感じで、安らぎも感じられますが、続けていくと何故か苦しくなってやめたくなります。 苦しみからは逃れられないのですか? また、実践を続けた方がいいですか?
先日は客観的かつ優しさに溢れたご回答を、ありがとうございました。 辛さがぶり返した時に読んで励みにしています。 泣いてばかりの時もありましたが、今はとにかく前に進もうと、転居の準備を進めています。 hasunohaで、自分と似た悩みを抱えた方へのご回答を拝見するうちに、仏教のことがもっと知りたくなりました。 そして、生き方など普遍的な悩みを持つ方へのご回答や、人生を穏やかに過ごすヒントになるようなご回答を探して、読むようになりました。 いくつかは画面を保存させていただいて、時々読み返しています。読むたび、少しほっとします。 読書が好きなので、お坊様の書かれた本や、手塚治虫先生の「ブッダ」を読んだりもしました。とても感動し、腑に落ちる内容でした。 ありがたい教えに触れているうちに、私の今までの人生は、執着と寂しさにまみれていたと気づくことができました。 手に入れたいものが多くて、ガツガツ努力して、認められても不安で、環境を恨み続けて…という生き方に、疲れている自分を見つけました。 お坊様のお話に触れているうちは、一人でも生きてていいんだよ、無理しなくても大丈夫だよ、と言ってもらえている気がするのです。 凝り固まった考え方が、少しずつ変わりつつあるのを実感していますが、同時に、私は仏教や、お坊様の教えに依存しているのではないか?と不安が出てきました。 日常でも、人と接する時、フッと辛さが出てきた時、仏教の事を考えます。皆様のお言葉を思い出して心を鎮めています。 他にも書店で関連の本を探したり、近くのお寺を探したり、ネットで用語を調べたり、日常の中で仏教のことを考える時間がかなり増えました。 仏教を知ることで、自分が救われる気がしてならないのです。 周りからの評価や、恋人の存在に依存していたのが、仏教に依存先が変わっただけなのではと思ってしまって、お坊様のありがたいお話を読んでいても、苦しくなってしまうんです。 仏教の考え方に依存するのは、いけないことでしょうか。執着にあたるのでしょうか。 長くなってしまい恐縮ですが、ご教示いただけますと幸いです。
仏教で「心が穏やか」は、どういう状態ですか? 今まで教えて頂いた事と似ているご回答かな、と思うのですが教えて頂きたくて。 よろしくお願い致します。
お釈迦様が本当にいらっしゃっるのなら、いつまで苦しめば良いのですか? 私、何か悪い事をしたの? 悪い事をしたなら謝るから死なせて
仏教は肉や魚などを食べてはいけないと聞きましたが、食事内容は米や野菜のみで構成されているんですか?
(こちらの質問は利用規約にもとづき一部編集しています) 僕が昔瞑想してた時に雑念を払い無になろうと心がけ瞑想してました でも雑念を払い無になろうとする意識自体が雑念であることに気づき 無になろうと意識することも意識しないいことも野放しにしました そしたら目の前で色んな色をした小さな粒が不規則な動きをしてる光景が見えました その小さな粒の不規則な動きを目で追ってるときはまだ自分の中に意識がある状態で その小さな粒の不規則な動きを目で追ってないときは自分の中に意識が無いような状態でした そしてその小さな粒の不規則な動きを目で追ってない意識が無い状態になると 神妙な気持ちでボーっとしてるんです 色即是空のような無であると同時に無でないような そしてずっとその状態でいると白昼夢みたいなのを見るんです 白昼夢を見てるときは意識がないのでそれを見てるという意識がなく見てるんです でも後で意識がある状態にもどると自分がさっき変な夢を見てたなと気がつくんです 白昼夢には良いものもありましたが悪いものもありました 一番悪いものは白昼夢の夢の中でもう一人の自分が無差別に人を殺してました でも僕はそれをボーっと見てるんです 意識があるのかないのかもわからず 善悪の価値観があるのかないのかもわからず 自分であるのかないのかもわからず ただただボーっと見てるんです 凄く怖い夢だったのでそのことを親に話しました そしたら親は「え!おまえ上の階で瞑想してたのか?おまえ下の階でテレビ見てたじゃん・・・」って言われました それを聞いて僕は瞑想して意識が有るのか無いのかわからない状態になると悪霊に憑依されるんじゃないかと思いました そして瞑想やヨガのルーツを探ると ヒンドゥー教の破壊神シェバからで人間の切り落とした頭部を持って踊ってる神様からだというのを知りました インド人はカニバリズムや麻薬や変態的性癖を儀式的に行いこのシェバを崇めてることも知りました 瞑想やヨガのルーツって危ないんじゃないんですか? 瞑想やヨガの危険性は全く無く健康に良いだけなんですか? 瞑想のしすぎて悪霊に取り付かれることとかないんですか? 僕が見たのは単なる幻想で何も考えず瞑想し続けて悟りを開いた方がいいですかね? というか瞑想し続けた結果として自殺大国日本や僕のこの悪夢すら救える悟りの力は得られるのですか?
密教の在家信者でも悟りに至ることができるのか、質問したものです。出家者にお布施をして悟りに至るとのことですが、即身成仏の問題があります。 在家信者でもご真言を唱えれば即身成仏できるんですか?(出家者にお布施なしで)
いつも、いろいろな事を教えてくださり有難うございます。 私の生家(真言宗)では、毎朝、仏壇に御飯を上げるのですが、 小さな茶碗で、必ず「六つ」 それと、子供達用にと、一回り大きい茶碗を「二つ」 合計「八つ」上げます。 御先祖様が六人いるという訳ではありません。 子供の御先祖様は、人数は分かりませんが確かに何人かはいます。 この、お茶碗の数には、何か意味があるのでしょうか? 昔から、そうしていたから当たり前のように、今でも同じように、 やっていますが、 まとめて「一つ」にしてはイケナイのでしょうか? それとも「六」という数字には何か意味があるのでしょうか? よろしくお願い致します。
前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね
前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?
では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて 涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか