私は、浄土真宗の門徒です。浄土真宗は、神社参拝やお守りを身に付けてはいけないとネットで見ました。 普段からパワーストーンブレスレットをファッションとして身に付けていますが、それも門徒としてよろしくないでしょうか?
スポーツをしていると動作の中にも計り知れない仏様が宿った様な瞬間を感じる時があります。 中国などに大勢で武術の鍛錬をしながら僧侶として過ごされている方が居られるそうですが、この様な武僧の方々は今の日本にも居られるのでしょうか? 或いは日本では様々な武道が発達し、武術修練を通じた自己形成の受け皿として機能したからその様なお坊様は現存していないのでしょうか?
hasunohaでお坊さんたちの回答を拝見して、今まで自分は心を鍛えてこなかったということに気づきました。 人生色々とヘビーなことはあり、私はどんなことがあってもしっかり頼れる存在としてあってきたつもりで、自分ではメンタルを鍛えてきたと思ってきました。(機嫌がころころ変わり度々爆発するヒステリーな母を見て育ち、そういう女性にだけは絶対なりたくないと思って生きてきたので)、家族喧嘩や深く付き合った恋人の前以外で他人様の前で自分の感情のコントロールができずに、浮き沈みや波を見せたり迷惑をかけたことは全くと言っていいくらいありません。 他方で、自分一人でいる時は心の波がぐっちゃぐちゃにあり、私自身も躁うつ病の気があるのではと思われるくらい、行動力と向上心に満ち溢れている時と、死にたい自分なんて無用だと思う時を入れ替わり立ち代わり繰り返して不安定な人間であることに、社会人になってから気づきました。それは、もともと芸術家志向だったこともあって、芸術は爆発だてはないですが、そういった波や破滅的な思考があることを個性ととらえ、変なくらいが個性的で良いと肯定していたことも原因としてあると思います。 これらの結果として、他人様の前では極端にしっかりと人間関係がちょうど自分にとって望ましい方向に転んでいくように表面に出す感情をコントロールするくせに、自分の心自体をしっかりとマネジメントし平静に保つことについては、全くやってこなかったのではとふと気づきました。 特に恋愛面での嫉妬心や独占欲が、究極的に強い人間である自覚はあります。(彼氏を束縛しようとしてうざがられるような可愛いレベルではなく、彼氏の精神を上手いこと支配して自分に依存させ、絶対振られないようにしてきたことにアラサーになって気づきました。) 根本には家庭仲が悪くどうやってもうまくいかないことによる不安定があり、最近では早く信頼できるパートナーを見つけて結婚したかったのにそうできてない自分への焦りやらがあります。 さぁ心を鍛えようと思っても、座禅をして無になってみるくらいしか思い浮かばないのですが、それでは実際に人と対峙する時、特に家族や恋愛的な嫉妬の対象である男性と対峙する時には中々うまくいかないのではと思います。毎日できるトレーニングとあわせて、人と対峙する時のコツについて何か御助言をいただけるととても嬉しいです。
いつもお世話になっております。 護摩は祈祷でも呪力でもなく、仏への供養であるとのご回答、大変勉強になりました。 私は生意気ながら、昨今の「信仰」について、地味に疑問を感じています。 ✳︎ お寺の願い札や絵馬を見ると、 「あいつに天罰を!」「高収入!」「背後霊消して!」など、なんだかちょっと違うんじゃ?と言いたくなるような内容の物を多々目にします。 自分の願い事を叶えたいが為に他のご信徒様のお気持ちを蹂躙するような行動を取る方、ご迷惑を考えない方も見かけることがあります。 ✳︎ 私の考えとしては… 願い事、成就したい物事は神仏ではなく、自分の力量や努力、その他外的要因に左右される。 また仏とは、素直に甘えさせてくださる存在、 遠く、堅苦しいように見えて実はとても身近で優しい、信じる人たちみんなの親のような存在… 荼枳尼天さんも、歓喜天さんも、供養法や何かを間違っても祟ったりなんかしない…… なんじゃないかというのが正直な意見です。 ✳︎ なんだか、ああいう自分自分!した願い事、神頼み的な物を見ると悲しくなります…。 この人たちは、本当に信心があるのかと。 先生方は、どう思われますか? お答えをいただけたら嬉しいです。
仏教について、学生時代に少し学びました、 お釈迦様は、「諸法無我(自分という実態は無い)」と 解かれたと教わりました。 しかし、「仏説阿弥陀経」の中で、四カ所「我」という漢字が出てきます。 「我見是利」「如我今者」 「亦称説我」 「當知我於」とあります。 この上記の4つの「我」と、「諸法無我」の「我」は何が違うのでしょうか? お教えいただければ幸いです。 よろしくお願いします。
小さい頃から浄土真宗教を読んでいました。 その癖なのか、頭に覚えており、フッとしたときには、頭で流れております。 今では、嫁いた先が般若心経の仏教でこれもこれで、覚えた部分だけ頭に流れております。 これは、どういう意味ですか? 今では、般若心経の家で浄土真宗のお経を読みたくても読めれないのですが、どうしたら良いですか?
仏教をテーマにした、お坊様オススメのマンガはありますか? 以前、オススメの本の質問へのご回答で、朔ユキ蔵さんの『お慕い申し上げます』を挙げられていた方がいらっしゃいました。 連載開始時に気になっていたので読んでみたいと思います。 私は最近のWeb連載マンガで、小林ロクさん『ぶっカフェ!』という作品が好きになりました。 宗派の違う三人のイケメンお坊さんが、仏教に触れられるカフェを営む4コマ漫画です。作者さんがよく調べられていて勉強にもなります。 手塚治虫さん『ブッダ』、中村光さん『聖☆おにいさん』も読みました。どの作品もそれぞれ素晴らしいです。(語ると長いので省略します!) 他にもお坊様からのオススメのマンガがあれば、と思い質問させていただきました。 よろしければ、ご回答をよろしくお願いいたします。
身の回りで怪奇現象が起こり、お寺にお祓いにいったところ、亡くなった祖母が心配して、神鬼として降りてきてくれた、と住職先生がおっしゃっていました。お祓いの最後のほうで、五色のはたを目を閉じてひきました。 五色のうち、 青黄白の三色の組み合わせは何を表すのでしょうか。
(編集部より、こちらの質問は利用規約により一部変更しています) 私には、13年前に知り合った男性がいます。 お互い離婚経験ありでしたが、優しく、明るい彼にひかれ生活を共にするようになりました。 彼の家は〝ある宗教の分会〟です。知り合った当初、彼は教会長を継ぐ気はなく、私の住む県へ越してきました。そこで、9年近く一緒に暮らしました。 ところが、彼の母親や兄弟から、そろそろ後を継いで欲しいと話がありました。 彼は悩みました。けど、彼は、母親に悲しい思いをさせたくなかった。 彼は、後継者になることを決め、実家に戻りました。彼からは、『今後も付き合って行きたい。できれば、家に(他県)に来てほしい』と言われました。 悩みに悩んで3年後の昨年の春に、この家に来ました。再婚したのです。〝無理に信仰しなくていい〟〝徐々に覚えてくれればいい〟と・・・そんな言葉を真に受けて。 ところが、私以上にこの宗教に納得していない彼。もともと、ここの後継者になりたくなくて私の居る他県に行った(逃げた?)くらいですから。 私自身、48年、仏教の家で育ち、信心深い両親に教えてもらった、しきたりや教えを、変えて行く事はつらいです。 この宗教では、お盆やお彼岸も関係ないし、ひたすら神様や、その宗教の創設者(?)の教えを毎日毎日唱えて、月に一度家でお祭りみたいな事をして、信者さんがお供えをしてゆく。 信者さんと言っても、ほんの数人・・・しかも身内。 この家には私と、その彼、彼のお母さんの3人で住んでいます。ほんの数人の信者さんからのお供え、しかも、そのほとんどは、上級(?)へのお供えになります。 なので、私も、働かないと、食べては行けませんので、働いています。しかし、毎月、決まった日にちに、儀式を行うため、休まざるを得ません。 彼は、身体が丈夫ではなく、頻繁に入院をしています。 後継者になったこと、こんな家に産まれてしまったこと、とても悔やんでると良く言ってます。しかし、簡単には辞める事もできず、毎日苦しんでます。何度、心入れ換えようと頑張ってるようですが、納得できない事ばかりに嫌気までさしてるようです。 お母さんは、とても信仰熱心です。だから、余計に辞められないと。 正直、私も、この生活苦しいです。自分の納得していない思想を無理に替えてなんかいけません。 それとも、完璧に洗脳(?)され、彼の力になれば、彼もまた楽になるのでしょうか?
いつもお世話になっております。 先ほど位牌を壊してしまったと質問した者です。 * 私たち浄土宗檀信徒は、 「念仏信徒のところには阿弥陀如来が25菩薩を従えて臨終の夕べに迎えに来てくださり、次の瞬間には極楽の蓮の上に『不退転の菩薩』として生まれ変わらせてくださる。」と教わっています。 * これはつまり、 「生前どんなにひねくれていても、意地悪だった人も、極楽に往生すれば慈悲深い性格になる」 「鏡でもって生前の行いを全て見せられた後、意地悪や虐待を心から深く反省、懺悔、後悔し、優しい菩薩さま、仏さまになる」 ということで間違いありませんでしょうか? * ですが、どうしても私は法的かつ生物学的な親たちを好きになることができません。毎年お盆が来るたびに同じことを考えてしまうことが想定されます。何度位牌を作り直しても意味はないでしょう… どうかご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。
托鉢とはどのような行なのですか? 駅前に立っているお坊様がおられるので 見たらお布施をしています。 大概私もお坊様も無言です。顔も見ません。 たまに「ありがとうございます」と顔を見ておっしゃるお坊様もいてびっくりしますが 私がありがとうございます。とお金を入れるのが礼儀なのでしょうが、 意味もわからず、ありがとうございますというのも変なので 意味や托鉢について教えて下さい。
私はゲイとかホモではないのと、恋愛感情の相手は女性ですが、肛門性交に中学生の頃から興味がありました。 最近まで自分の肛門で自慰していました。 ですが本物と肛門性交(自分が挿入される側)及びペニスを舐めたりをやってみたいと思うようになり悩んでます。 歴史的には昔は衆道が流行っていたから肛門性交を行っても大丈夫とかありますが、仏教的に考えたら死後の世界で肛門性交やペニスを舐めたり、舐めさせたりしたから地獄行きともあります。 結局は仏教を信じる者は同性及び異性の肛門性交等はやってはいけないのでしょうか? 仏教を信じているので、死後地獄行き等になるなら行いません。 同性の肛門性交(挿入される側)はしても大丈夫なのでしょうか? また異性の肛門性交(女性相手で、こちらが挿入する側)はしても大丈夫なのでしょうか? 相手男性のペニスは舐めたり、男性女性に関わらず舐めさせたりするのは仏教的にどうなのでしょうか? 下品な質問ですが、お願いします。
お坊さん自身がご自身が好きな仏様がおられたら教えて下さい。また理由があれば教えて下さい。 題が自分にぴったりの仏様という題ですが ぴったりというのは受験や仕事など目的に向かってというのもあります。 何か分からないけどご縁? かも知れないものがあるような感じがします。
NHKの風土記という番組で、徳島の阿波おどりが特集されていました。 大通りを踊り歩く他に、各町々でも小規模ですが踊りを披露して、いい光景だなと久しぶりにテレビ📺に見入っていました。 しかし、途中で警察がきて、騒音の苦情がきたので町中で踊るのをやめてほしいと、後味の悪い終わり方でした。 お寺でも除夜の鐘がうるさいと苦情がきた結果、鐘をつくのをやめたり昼間についたりするお寺もあるようです。 世のうつりかわりといえばそれまでですが、やっぱり楽しみにしている人もいるわけです。 しかし、苦情をいう人の気持ちもわかります。ゆっくり寝たい人もいるでしょうし、正月とはいえ朝から仕事の人もいるでしょう。 どちらも正しいし、どちらも間違っていません。 とはいえ、そうやって日本の風土、伝統がなくなっていくのは少し寂しい気もします。 お寺としては、伝統よりも人々の生活に沿うことが正しいのでしょうか? 世のならいで古来より続いてきた風習がたえることも、それもまた仏様の意思なのでしょうか。
お遍路巡礼してますが、本堂と大師堂がありますが、両方とも般若心経唱えるものなのですか?大師堂には弘法大師のお姿が見えるお寺もあって、私は弘法大師の優しいお顔をじっと見て、心の中にある邪気とかお願い事をつぶやいてますが、これではダメなのでしょうか?巡礼してる人それぞれ違ってて、私はこれでいいのかな?と、思うところがあります。もちろん、ロウソクとお線香は立ててますが…。
初めまして、私はタイ国からです。早速ですが、ご質問いたします。和尚という言葉がよく理解できませんので 意味を教えていただきたいと思います。因みに、お坊さんと和尚には同じ意味ですか? 日本語はまだ十分ではありませんので ご遠慮なく、どんどん教えて下さい。
仏教用語が日常に深く溶け込んでいますが、日常的に使われる有名な仏教用語の多くが正反対の意味で使われています。 僧侶の皆様はあまり気になりませんか? 悪い意味で反対の一例 他力本願→自分では何もしなくて他人(人)にしてもらう事 調子に乗る→いい気になって物事を行う 諦める→放棄する 我慢→辛抱すること 内容が合わない一例 縁起でもない(縁起が繋がらない事も無ければ、良いも悪いもない) 因果応報(悪いこと限定なわけがない)
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
仕事で落ち葉の掃き掃除をする時に、小さな虫やアリが落ち葉についていています。 仏教でも、生き物を殺すのはいけないことと聞きますし、そのまま掃いてしまうのがいけない気がして、虫を見つけては取り除き、、としていました。 しかし、なかなか掃除が進みませんし、他の同僚たちの目も気になり、どうすれば良いかわからなくなりました。 ゴミ袋に入れた落ち葉の中に、間違えて虫も入れたのではないかという不安で、仕事中も考えたり、人の目を盗んで手を合わせて虫に謝ったりしています。 掃除をするのが怖いです。どのような気持ちで、どのように掃除をしたらよいのでしょうか。 よろしくお願いします。
どうもこんばんは。 いつも皆様には質問をお答えいただき感謝しております。 今回は大乗仏教の三宝について質問があります。 ブッダ入滅後の原始仏教や上座部仏教での三宝は、 仏=釈迦牟尼(ブッダ) 法=ブッダの教え(ダンマ) 僧=僧団(サンガ) と思います。 大乗仏教の三宝では、 仏=本尊 法=ブッダまたは本尊や宗祖(または高祖や太祖)の説いた教え 僧=僧侶(ここは色々と議論の余地はありますが) であると認識しています。 今回の質問はご本尊についてですが、ニュアンス的に本尊は『仏』ではなくて『法』に思えるのですがいかがでしょうか。 例えば、大雑把に言うと 阿弥陀如来(アミターユスとアミターバ) それぞれ無限の光と無限の寿命の体現 大日如来・毘盧遮那仏(マハーヴィローチャナ・ヴィローチャナ) 宇宙の真理の体現 内容から見ると大覚者というよりは真理そのものではないかなと考えてしまいます。 大乗のマハーパリニッバーナスッタンタ(大般涅槃経)では三宝一体常住不変説があるから、『仏』で良いのだというのは理解が難しいです。 どういう流れでご本尊は三宝の『法』ではなくて『仏』なのでしょうか。 マハーヤーナ(大きな乗り物=大乗)に掛けて、木造の手漕ぎの小舟しか知らない人が大型豪華客船(鉄船)を見ても船と『認識』しませんが、変化の過程を理解すると鉄でも浮いて自動で走るのが理解できるかと思います。 ここは私の知識欲だけの話で、問題が解決してもしなくても自分の苦を滅することには関係いたしませんが、どうかご教授の程宜しくお願い致します。