お忙しいところ、申し訳ありません。 最近は、世の中が不穏な気がします。 前よりも良くなっていることもありますが、自分が騙されやすいということと、自分がポルノ作品を過去に見てしまったこと、そして事件等のせいで、この世の全てを疑わないと生き延びられないように感じるようになってしまいました。さらに、信用するためには、疑わないと真実を見抜くことができないという考えもあるからです。 逆に信じているのは、家族の言葉と、この人間界のシステム(因果応報)です。 しかし、それ以外がもう信じられません。 ですが、どうしても気になることがあります。 仏教では、疑心暗鬼、疑うことは罪にあたりますか? このせいで、地獄には行きたくありません! どうか教えてください…!
心の眼で見るとは、どういうことなのでしょう。どうすれば見ることが出来るのでしょうか? よろしくお願い致します。
仏教の教えは、自分の感情はおさえ、他のために尽くすこと、うまくおつたえできないのですが、何事も諦めることになるのでしようか? よろしくおねがいいたします。
こんばんは。 話が長くなるかもしれませんが、お付き合いくだされば嬉しいです。 ずばり、①ここにいらっしゃるお坊さまは家中のゴキブリにどう対処なさいますか。②また蚊はどうですか。 例: 殺虫する、生け捕りにして外へ逃す、全く気にしないので放置 加えて、ゴキブリに対するその対応について、既婚者の方は、③奥さまも同じように対応なさいますか。 こんな質問をするに至った経緯を説明しますと… 私の住んでいる県ではうちわまきがあり、蚊に対しても不殺生、というエピソードを何度と聴くうち、「そうか、蚊も生きているのだものな」という事実を認識するようになりました。 私自身は仏教徒かと問われれば甚だ疑問の残る、なんでも信じる人間ですので可笑しな話ではあるのですが、なんとなく、蚊を叩き殺したりすることに葛藤が生まれ、ただ払うことが多くなってきたのです。(※肉食するのでそもそも論でいえばなぜそんな不徹底なことをするのか意味がわからないですが…) そしてつい最近、同じ県内に"護鬼佛理天"(ごきぶりてん)なる神様の像があることを知ってしまいました。なんでも、害虫駆除の被害にあった虫を供養するためのようです。さて、ここで、蚊もゴキブリも虫であり、理論でいえばゴキブリも殺さずにおくべきなのでしょう。とはいえ、やっぱりどうしても無視できないのです。同じ場所にいると考えるだけで嫌悪感が募ります。自分で殺虫できればまだいいのかもしれないですが、あろうことか、自分で手を下すのが嫌なので(単純に怖いというのもある)誰かに殺してもらっている、というのもなんだかひっかかります。自分の手は汚さずに…という感じで精神的にはひどいな、と思います。 訓練すればゴキブリすら無視できるようになるのでしょうか…。 さて、宣言通り長くなりましたが、質問は上にあげさせていただいた通りです。お坊さまたちとそのご家族は一体どんな意見をお持ちなのか伺いたいです!お手隙のさいにでも回答をいただければ幸いです。よろしくお願いします。 ここまで読んでくださり有難うございました◎
職場で、感謝の気持ちを込めて手を合わせて 「ありがとうございます」 を伝えていたところ、 私、仏様じゃないんだけど!!! と二人の方に別々に注意されてしまいました。 勿論、誤解されてまでその方たちに行おうとは思いませんが、 一般的にその様な合掌は正しくないのでしょうか。 インターネットで検索しても、 外国の人が間違ってしてしまっているおかしな日本の文化だ! 若い人がするのを見るとイラっとする! 等あまりよく思われていないようです。 私にとっては、お寺さんやお墓、仏様で手を合わせることも、 いつもご先祖様や私たちを守ってくれている仏様やご先祖様達へ感謝と尊敬の気持ちで行なっていましたし、 ご飯のいただきますの合掌も、 食材や食卓に並ぶまでの多くの人たち、 食事を頂けるということへの感謝と尊敬の念を込めてすると教わり、 そうした気持ちで手を合わせてきました。 お坊様の丁寧なお辞儀と手を合わせたありがとうございます、の仕草が暖かさを感じ好きだったこともあります。 いつの頃からか、 ありがとう感謝します、有難いことです。 を伝えるジェスチャーとして、度々使っていたため、 ちょっとショックでした。 合掌のそのような使い方は正しくないのでしょうか? お坊様のそうした合掌とはまた違ったものなのでしょうか? 本来、合掌の意味とはどんなことなのでしょうか?
梵我一如と入我我入の違いってなんですか?
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47
仏教用語で、有無同然という言葉があります。私はこの言葉と出会い、いきる意味がわからなくなりました。 なにかを得ようと努力して苦しみ、なにかを得ても苦しむ。だとしたら、なにもしないことが幸せなのでしょうか。夢を追うことに意味はないのでしょうか。 有無同然という言葉には、いずれ死ぬ定め、という考え方があるように思います。死ぬのだから努力してもしなくても変わらない、となると生きることがむなしくなります。みなさんは有無同然を、どのように考えますか?
正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。
お坊様が「仏教徒で良かった」と思われる時はどんな時ですか? ちなみに私は、あらゆることにご縁を感じるとき、また、仏様に生かされていると感じるとき、心の底から仏教徒でよかった!と叫びたくなります(*^^*)
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三年くらい前に仏教に出会ってから、その考え方に感動し自分なりにかなり努力してきたと思います。 (とは言え日常生活に取り入れるくらいですから、お坊さんに対しこの程度を「仏教修行」と言うにはおこがましいかもしれません。) 他者は己をうつす鏡と言うのは本当で、誰かに対し怒りや悪感情を覚えたならそれはその人ではなく、自分の内面の未熟な箇所が露になっているのだということを、仏教はわたしに教えてくれました。 そんな考え方を持ってから、自然と友達が多くなったと思います。 同時にちょっと辛いことも多くなりました。 頼られすぎていると言えばいいんでしょうか。 相談を長く受けているうちに、相手が多分甘えているのだと思いますが、攻撃的になる人も中にはいます。 相談をしながら何だかこちらに向けて嫌みをおりまぜてくるというか。 社会的に見ると身勝手、というような行為を受けることもあります。 「辛いことがあったから家に来て聞いてほしい」と言われ一時間半かけて向かったら、「彼氏が家に来ることになったからやっぱり帰って」と帰されたりとか、そういうことがままあります。 内心ぎょっとしますが、それすら優しく迎えられるような人間になりたいと思っていたので「そっか、じゃあ彼氏とゆっくりね!後日のろけを聞かせてもらうんだからな☆」と笑って終えます。表面だけではなくて、優しい感情を持ってそう言います。 私には二つ障害がありまして、また診断を下すほどではないけどかなりその傾向があるよ、とお医者さんに言われている障害がもう一つあります。 友人には特に隠しているわけではありませんが話していないので、友人が嫌味をわたしに言うときに障害の症状にあたる面をなじられたりすると、結構こたえます。これは私自身が私の欠点に感じているからでもありますが、やはりきついものはきつくて、一時期ある友人とは距離をおいたことがありました。 するとその友人の母らしき人が電話をかけてきて、「あの子の支えはあなただけなので支えてあげてほしい」みたいなことを言われました。 もうなんか全部きっついな。自分でもサイズの合わないタイトなジーンズにねじ込んでるな、と思います。 こころざしのレベルを少し落とした方がいいのでしょうか。 障害のこともあり頑張ってきましたが、今までの努力が間違っていたとしたらなかなか悲しいです。
いつもお世話になっております。 今まで日和を気にしたことはあまりなかったのですが、子どもが生まれてから少し気になるようになりました。 というのも、長女が生まれた日は仏滅、次女が生まれた日は赤口でした。二人とも日が悪く、気の持ちようかもしれませんが、少し気になっているので、お坊さんからのアドバイスをいただけるとありがたいです。
仏様が叱っても悪いとこが直らないやつはどうしようもないってことでしょか
いつもお世話になっております。 もう当面は例の法要会にいけそうにないので、仏事の質問は ここでさせていただきたく存じます。 * 仏は誰かを傷つけよう、陥れようとする願い、それから自分の 欲求だけを満たそうとする願いは聞いてくれない。 皆さんの願いと一緒に、わたしのお願いも聞いてくださいと 願うのが正しいお願いの仕方だとお話をいただきました。 * ですが私自身も難儀を抱えており、 愛し守ってくれる親も無し、お不動様や阿弥陀様を父母と思い、 慕い縋って生活している次第でございます。 * 私自身、人のために願い事をして、その人に裏切られるのが 恐い、という思いがあります。一度成功しましたが… 大祭などでお札を奉安するときも「信徒安全」と書きますが 基本的に普段はご本尊様の前で自分の感じる辛さを吐露して 時には涙すらこぼします。 * でも普段の生活においては赤ちゃんに笑いかける、席を譲る 、お礼とねぎらいの言葉を忘れないなど多々気を付けています。 * 私のやり方は間違っていますか。 どうかお教えいただきたく存じます。
主人が亡くなり、両親に会えたかな…と何気なく話をしたら、Sの方に、仏教は3年経たないと会えないんだよ、Sならすぐ会えるから、入りなさいと言われましたが、本当ですか? Sに入る気もありませんし、Sの方達を否定もしておりません。それぞれ、信じる道を進んでよいと思います。ただ、本当なのかな、と思い、こちらに質問させていただきました。
以前の質問とはうって変わった内容で失礼いたします。 禅宗のお坊様方の中で、ご存知の方がおられましたらお教えください。 Wikipediaの「応量器」の項目に、こんな記述があります。 材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である ここで疑問に思ったのですが、なぜ木製が禁じられているのでしょうか? 器の腐敗を防ぐため、あるいは木片(ささくれ)がのどに刺さることを防ぐためなのかとも思いましたが、鉄製であれば錆もでましょうし、それがのどに悪影響を与えることもありましょう。 にもかかわらず、なぜあえて木製の器のみを指定して禁じたのか、その経緯をご存知であれば、お教えください。 また、昨今はプラスチックの器が増えておりますが、漆器ではなくプラスチック製を応量器(持鉢)に用いているということは無いのでしょうか?こちらも、お教えいただけましたら幸いです。
私は14年前、母を交通事故で亡くしました。 突然のことで、最後に話すこともできず お別れしてしまいました。 亡くなってからしばらくして、母の夢をみました。 私が母を抱っこしたら骨になった…という夢で、 その日が四十九日の日でした。 それから14年、ずっと母の夢をみていません。 自分も病気をして1度命の危機を感じたとき すごく母に逢いたいと思いました…。 思いついてお墓参りに行ったりしましたが なんとなくすっきりせず…。 仏教的には 夢にみたり、逆に全然夢に見なくなったのは 何か意味があるのでしょうか? 気になります。
先日はお坊様からのアドバイス頂き、ありがとうございました! そのアドバイスに、利他行をするようにとありましたが、具体的に利他行とはどのようなことをしていけばよろしいのでしょうか?
お忙しい所恐れ入ります。 仏教では自分の両親を敬い大切にしなさい、と教えられております。 しかし、今の世は「気に入らない」とか「言う事を聞かない」といった理由で、教育や躾という大義名分の名の下に我が子を虐待し、場合によっては殺してしまう事もあります。 その様な幼少期を過ごした子供が両親を快く思わない事は、想像に難くないでしょう。 それでも子は、両親に感謝し敬い、大切にしなければいけないのでしょうか?