托鉢とはどのような行なのですか? 駅前に立っているお坊様がおられるので 見たらお布施をしています。 大概私もお坊様も無言です。顔も見ません。 たまに「ありがとうございます」と顔を見ておっしゃるお坊様もいてびっくりしますが 私がありがとうございます。とお金を入れるのが礼儀なのでしょうが、 意味もわからず、ありがとうございますというのも変なので 意味や托鉢について教えて下さい。
私はゲイとかホモではないのと、恋愛感情の相手は女性ですが、肛門性交に中学生の頃から興味がありました。 最近まで自分の肛門で自慰していました。 ですが本物と肛門性交(自分が挿入される側)及びペニスを舐めたりをやってみたいと思うようになり悩んでます。 歴史的には昔は衆道が流行っていたから肛門性交を行っても大丈夫とかありますが、仏教的に考えたら死後の世界で肛門性交やペニスを舐めたり、舐めさせたりしたから地獄行きともあります。 結局は仏教を信じる者は同性及び異性の肛門性交等はやってはいけないのでしょうか? 仏教を信じているので、死後地獄行き等になるなら行いません。 同性の肛門性交(挿入される側)はしても大丈夫なのでしょうか? また異性の肛門性交(女性相手で、こちらが挿入する側)はしても大丈夫なのでしょうか? 相手男性のペニスは舐めたり、男性女性に関わらず舐めさせたりするのは仏教的にどうなのでしょうか? 下品な質問ですが、お願いします。
お坊さん自身がご自身が好きな仏様がおられたら教えて下さい。また理由があれば教えて下さい。 題が自分にぴったりの仏様という題ですが ぴったりというのは受験や仕事など目的に向かってというのもあります。 何か分からないけどご縁? かも知れないものがあるような感じがします。
NHKの風土記という番組で、徳島の阿波おどりが特集されていました。 大通りを踊り歩く他に、各町々でも小規模ですが踊りを披露して、いい光景だなと久しぶりにテレビ📺に見入っていました。 しかし、途中で警察がきて、騒音の苦情がきたので町中で踊るのをやめてほしいと、後味の悪い終わり方でした。 お寺でも除夜の鐘がうるさいと苦情がきた結果、鐘をつくのをやめたり昼間についたりするお寺もあるようです。 世のうつりかわりといえばそれまでですが、やっぱり楽しみにしている人もいるわけです。 しかし、苦情をいう人の気持ちもわかります。ゆっくり寝たい人もいるでしょうし、正月とはいえ朝から仕事の人もいるでしょう。 どちらも正しいし、どちらも間違っていません。 とはいえ、そうやって日本の風土、伝統がなくなっていくのは少し寂しい気もします。 お寺としては、伝統よりも人々の生活に沿うことが正しいのでしょうか? 世のならいで古来より続いてきた風習がたえることも、それもまた仏様の意思なのでしょうか。
お遍路巡礼してますが、本堂と大師堂がありますが、両方とも般若心経唱えるものなのですか?大師堂には弘法大師のお姿が見えるお寺もあって、私は弘法大師の優しいお顔をじっと見て、心の中にある邪気とかお願い事をつぶやいてますが、これではダメなのでしょうか?巡礼してる人それぞれ違ってて、私はこれでいいのかな?と、思うところがあります。もちろん、ロウソクとお線香は立ててますが…。
初めまして、私はタイ国からです。早速ですが、ご質問いたします。和尚という言葉がよく理解できませんので 意味を教えていただきたいと思います。因みに、お坊さんと和尚には同じ意味ですか? 日本語はまだ十分ではありませんので ご遠慮なく、どんどん教えて下さい。
仏教用語が日常に深く溶け込んでいますが、日常的に使われる有名な仏教用語の多くが正反対の意味で使われています。 僧侶の皆様はあまり気になりませんか? 悪い意味で反対の一例 他力本願→自分では何もしなくて他人(人)にしてもらう事 調子に乗る→いい気になって物事を行う 諦める→放棄する 我慢→辛抱すること 内容が合わない一例 縁起でもない(縁起が繋がらない事も無ければ、良いも悪いもない) 因果応報(悪いこと限定なわけがない)
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
仕事で落ち葉の掃き掃除をする時に、小さな虫やアリが落ち葉についていています。 仏教でも、生き物を殺すのはいけないことと聞きますし、そのまま掃いてしまうのがいけない気がして、虫を見つけては取り除き、、としていました。 しかし、なかなか掃除が進みませんし、他の同僚たちの目も気になり、どうすれば良いかわからなくなりました。 ゴミ袋に入れた落ち葉の中に、間違えて虫も入れたのではないかという不安で、仕事中も考えたり、人の目を盗んで手を合わせて虫に謝ったりしています。 掃除をするのが怖いです。どのような気持ちで、どのように掃除をしたらよいのでしょうか。 よろしくお願いします。
どうもこんばんは。 いつも皆様には質問をお答えいただき感謝しております。 今回は大乗仏教の三宝について質問があります。 ブッダ入滅後の原始仏教や上座部仏教での三宝は、 仏=釈迦牟尼(ブッダ) 法=ブッダの教え(ダンマ) 僧=僧団(サンガ) と思います。 大乗仏教の三宝では、 仏=本尊 法=ブッダまたは本尊や宗祖(または高祖や太祖)の説いた教え 僧=僧侶(ここは色々と議論の余地はありますが) であると認識しています。 今回の質問はご本尊についてですが、ニュアンス的に本尊は『仏』ではなくて『法』に思えるのですがいかがでしょうか。 例えば、大雑把に言うと 阿弥陀如来(アミターユスとアミターバ) それぞれ無限の光と無限の寿命の体現 大日如来・毘盧遮那仏(マハーヴィローチャナ・ヴィローチャナ) 宇宙の真理の体現 内容から見ると大覚者というよりは真理そのものではないかなと考えてしまいます。 大乗のマハーパリニッバーナスッタンタ(大般涅槃経)では三宝一体常住不変説があるから、『仏』で良いのだというのは理解が難しいです。 どういう流れでご本尊は三宝の『法』ではなくて『仏』なのでしょうか。 マハーヤーナ(大きな乗り物=大乗)に掛けて、木造の手漕ぎの小舟しか知らない人が大型豪華客船(鉄船)を見ても船と『認識』しませんが、変化の過程を理解すると鉄でも浮いて自動で走るのが理解できるかと思います。 ここは私の知識欲だけの話で、問題が解決してもしなくても自分の苦を滅することには関係いたしませんが、どうかご教授の程宜しくお願い致します。
お忙しいところ、申し訳ありません。 最近は、世の中が不穏な気がします。 前よりも良くなっていることもありますが、自分が騙されやすいということと、自分がポルノ作品を過去に見てしまったこと、そして事件等のせいで、この世の全てを疑わないと生き延びられないように感じるようになってしまいました。さらに、信用するためには、疑わないと真実を見抜くことができないという考えもあるからです。 逆に信じているのは、家族の言葉と、この人間界のシステム(因果応報)です。 しかし、それ以外がもう信じられません。 ですが、どうしても気になることがあります。 仏教では、疑心暗鬼、疑うことは罪にあたりますか? このせいで、地獄には行きたくありません! どうか教えてください…!
心の眼で見るとは、どういうことなのでしょう。どうすれば見ることが出来るのでしょうか? よろしくお願い致します。
仏教の教えは、自分の感情はおさえ、他のために尽くすこと、うまくおつたえできないのですが、何事も諦めることになるのでしようか? よろしくおねがいいたします。
こんばんは。 話が長くなるかもしれませんが、お付き合いくだされば嬉しいです。 ずばり、①ここにいらっしゃるお坊さまは家中のゴキブリにどう対処なさいますか。②また蚊はどうですか。 例: 殺虫する、生け捕りにして外へ逃す、全く気にしないので放置 加えて、ゴキブリに対するその対応について、既婚者の方は、③奥さまも同じように対応なさいますか。 こんな質問をするに至った経緯を説明しますと… 私の住んでいる県ではうちわまきがあり、蚊に対しても不殺生、というエピソードを何度と聴くうち、「そうか、蚊も生きているのだものな」という事実を認識するようになりました。 私自身は仏教徒かと問われれば甚だ疑問の残る、なんでも信じる人間ですので可笑しな話ではあるのですが、なんとなく、蚊を叩き殺したりすることに葛藤が生まれ、ただ払うことが多くなってきたのです。(※肉食するのでそもそも論でいえばなぜそんな不徹底なことをするのか意味がわからないですが…) そしてつい最近、同じ県内に"護鬼佛理天"(ごきぶりてん)なる神様の像があることを知ってしまいました。なんでも、害虫駆除の被害にあった虫を供養するためのようです。さて、ここで、蚊もゴキブリも虫であり、理論でいえばゴキブリも殺さずにおくべきなのでしょう。とはいえ、やっぱりどうしても無視できないのです。同じ場所にいると考えるだけで嫌悪感が募ります。自分で殺虫できればまだいいのかもしれないですが、あろうことか、自分で手を下すのが嫌なので(単純に怖いというのもある)誰かに殺してもらっている、というのもなんだかひっかかります。自分の手は汚さずに…という感じで精神的にはひどいな、と思います。 訓練すればゴキブリすら無視できるようになるのでしょうか…。 さて、宣言通り長くなりましたが、質問は上にあげさせていただいた通りです。お坊さまたちとそのご家族は一体どんな意見をお持ちなのか伺いたいです!お手隙のさいにでも回答をいただければ幸いです。よろしくお願いします。 ここまで読んでくださり有難うございました◎
職場で、感謝の気持ちを込めて手を合わせて 「ありがとうございます」 を伝えていたところ、 私、仏様じゃないんだけど!!! と二人の方に別々に注意されてしまいました。 勿論、誤解されてまでその方たちに行おうとは思いませんが、 一般的にその様な合掌は正しくないのでしょうか。 インターネットで検索しても、 外国の人が間違ってしてしまっているおかしな日本の文化だ! 若い人がするのを見るとイラっとする! 等あまりよく思われていないようです。 私にとっては、お寺さんやお墓、仏様で手を合わせることも、 いつもご先祖様や私たちを守ってくれている仏様やご先祖様達へ感謝と尊敬の気持ちで行なっていましたし、 ご飯のいただきますの合掌も、 食材や食卓に並ぶまでの多くの人たち、 食事を頂けるということへの感謝と尊敬の念を込めてすると教わり、 そうした気持ちで手を合わせてきました。 お坊様の丁寧なお辞儀と手を合わせたありがとうございます、の仕草が暖かさを感じ好きだったこともあります。 いつの頃からか、 ありがとう感謝します、有難いことです。 を伝えるジェスチャーとして、度々使っていたため、 ちょっとショックでした。 合掌のそのような使い方は正しくないのでしょうか? お坊様のそうした合掌とはまた違ったものなのでしょうか? 本来、合掌の意味とはどんなことなのでしょうか?
梵我一如と入我我入の違いってなんですか?
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47
仏教用語で、有無同然という言葉があります。私はこの言葉と出会い、いきる意味がわからなくなりました。 なにかを得ようと努力して苦しみ、なにかを得ても苦しむ。だとしたら、なにもしないことが幸せなのでしょうか。夢を追うことに意味はないのでしょうか。 有無同然という言葉には、いずれ死ぬ定め、という考え方があるように思います。死ぬのだから努力してもしなくても変わらない、となると生きることがむなしくなります。みなさんは有無同然を、どのように考えますか?
正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。
お坊様が「仏教徒で良かった」と思われる時はどんな時ですか? ちなみに私は、あらゆることにご縁を感じるとき、また、仏様に生かされていると感じるとき、心の底から仏教徒でよかった!と叫びたくなります(*^^*)