両親の影響もあり普段からお寺や仏教が好きです。 私は婚約破棄になりやむ得ず中絶をした過去があります。その後お寺Aで良縁祈願をし、新しい彼と付き合うことになり過去の傷が少しずつ良くなりました。先日お寺Bに新しい彼とお参りに行きました。(近くにドライブしたので寄って手を合わせただけです。)お寺Bは私が水子供養をしたところであり、子供のころから親とよく訪れていたお寺です。その次の日に新しい彼と話が縺れ別れました。まだ未練はあります。新しい彼と付き合った期間はたった7か月でしたが、この7か月1度も別れたこともなく、喧嘩もあまりなかったです。喧嘩別れのようなものなので、別れたことが信じられないです。私が質問したいのは、もしかしたらお寺Bに行ったので、縁切りをしてくださったのか?と考えてしまいました。教えてください。
半僧半俗な生活をしている日本の僧侶。 本山が本社で末寺はフランチャイズ店のような仕組みも 理解できません。 日本の仏教って名ばかりだな。と思うことが多々あります。 お寺の息子や娘に生まれ落ちて各宗派の大学を出て ちょっと修行して資格を持ち、家を継ぐ。そしてそれだけで人々から拝まれ、敬われるのって・・・ 何か違う気がします。 たいして苦労もしていないお坊ちゃま僧侶に偉そうな事を言われても何も説得力もありません。 お坊さん自信はこういった日本の僧侶の状況を どう思っているのでしょうか?
いつも心の支えにさせてもらっております。 このサイトに来て仏教という物に関心を持ったのですが、私はお寺に行くという事が滅多になく、どういうところなのかピンと来ません。 神社とか願掛けによく行っていたのですが、お寺は大晦日くらいです。 私の家の宗派は真言宗のようですが、宗派の違うお寺でも皆さん気にせず参ったりしてるようで、ほとんど観光って感じですよね。 日本人はあまり特定の宗派に信仰心が無いのは知っていますし、信仰心が文化レベルまで落ちついているとか言われてますが、寺に観光に行けば願掛けしたり、 健康になると煙を浴びたり、神社とあまり変わらないような、 ふと思ったのですが、みんな何しにお寺に行ってるのかと、 私は神仏に対する知識はほとんど無いけれど、なんとなくのイメージとして 本来寺院は煩悩を無くし、心を正すところと思っているのですが、 願掛けなどは煩悩で、それと真逆の事なのでは? 大抵の人がお寺に参拝するときはどういう心構えなのか気になりました。
(編集部より。こちらの質問は利用規約により一部を変更しています) お世話になります。 母方の祖父のことですが、先日久しぶりに墓参りに行ったところ霊園の方から墓を建てた叔父と連絡が取れなくなったと知らされました。 母の兄弟は1男5女(長姉は夭逝)ですが、実家の跡取りの叔父と4姉妹とは不仲で疎遠にしていたため、私は母の実家のお寺や宗派についての知識はありません。母以外の姉妹3人はすでに亡くなり、母も認知症で実家のお寺についての情報は得られませんでした。 祖父母と母の長姉の戒名はそれぞれ「〇〇信士」「〇信女」「〇〇信女」で、霊園の方の想像では真言宗か浄土宗ではないかとのことでした。 祖父は、今の南あわじ市から大阪に出てきて当初は西成区に住んでおり、その後転居しています。 これくらいの情報から、お寺か宗派を特定する方法はないでしょうか? 祖父は昭和61年に亡くなっていて来年三十三回忌ですし、このまま叔父の行方が分からないままだと墓を仕舞うことになるかと思います。 宗派が分からないからと放置するわけにもいかず、質問させてもらいました。よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 私は、お薬のお陰、それから皆様がたのお支えによって感情のコントロールが以前よりはできるようになりました。 * ですが、言葉や行動が抑えられても、表情を抑えることが不得手です。人と関わっていても、顔色の見すぎ、それと警戒しすぎて、 予想外の事態に晒された時に反射的に眉を顰めたり、あからさまに 狼狽えてしまいます。 * それで相手の方に余計に気を遣わせてしまったり、自分自身もしんどくなってしまいます。 きょうもお寺の方に気を遣わせてしまいました… * 「お寺によってルールが違うので、まずは聞いてみて」とのご助言を いただきましたが、怖くてお声がけができません。 そもそもお坊様は別のお仕事の最中です。お廊下を歩いているのを 呼び止めては失礼ではないか…という疑問が湧いております。 * これ以上気まずくなりたくありません。 感情が表情や態度に出ないようにする方法、それとお坊さんへの話しかけるタイミングについてご教授頂きたく存じます。 どうかよろしくお願いいたします。
お忙しい時期に恐れ入ります。 岩間寺に約19年前に初めて参拝させて頂きました。 その後私が介護職へ行っていたときかその前に今から10年前ぐらいに 参拝をさせていただいた時に 住職様が一人一人に話しかけて下さり お祈りをしてくださったことを思い出しました。 そしてたくさんの参拝者がおられました。 最近久しぶりに岩間寺へ参拝しましたが、 全く変わってしまった感じで違和感がありましたが そんなものかなと思いました。 いつも観音霊場へ行くと自然と私が笑顔になるのですが 今回は顔が引きつっていました。 帰宅途中に調べるとなにか大変なことが起こったというのが 分かりどうしてなのかと思いました。 詳しくご存じの方教えてください。
九字護身法を学びたいです。 静岡県静岡市またはその近辺で教えてくださる寺院があれば直接お話がしたいので、お寺のお名前を教えて頂けると幸いです。 ネットのサイトや動画で調べました(図書館の資料検索で九字護身を検索したが出てきませんでした。)が、サイトによって内容が少し違っていて本当に正しい情報なのか疑問だったので実際に教本(新版・九字護身法 平らかな付)を購入しました。しかし細かい所が分らないので直接お話を伺える、または実際に印を結んでいる所を拝見できるお寺があれば教えてください。 宜しくお願い致します。
こんにちは。 近所にあるお寺や神社には、ほとんどホームページがありません。 もしかしたらほとんどのお寺にも無いんでしょうか。 これだけネットしている人が多いのに、どうしてなんでしょう? 単に、必要ないからなんですか。忙しいんでしょうか。 いろいろ調べたいときに情報が少ないです。 わかる範囲でご回答いただけませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。 ホームページを持っていない方に質問です。 1. なぜ持っていないのでしょうか? 2. 今後予定はありますか? いつからですか? 3. 今後必要な方は、なぜ必要なのですか? 4. 今後も必要でない方は、なぜ必要でないのですか? ホームページを持っている方に質問です。 5. いつ作りましたか? 6. どのように活用(どんな情報を発信)していらっしゃるのでしょうか? 7. 更新は誰がしていますか? 8. 更新はどのくらいの頻度でされるのでしょうか? お忙しいとは思いますが、よろしくお願いいたします。
お寺に週に何度か参拝しにいっています。 何も起こらない平凡な毎日、1日1日を終えられたことに感謝し手を合わせています。 なぜかお寺に入った瞬間、心がクリーンになったように感じ前向きになり見守られている気がします。週に何度か通うことでその気持ちが持続できてるようです。 私はなにを感じているのでしょうか?
たびたび神経質で奇妙な質問、申し訳ありません。 仏様と身近になりたくて、「懐中仏」をいただきました。 (また旅行先等での勤行を行なうため) お不動様と三面大黒天様です。 こちらにも開眼をしたいと思っております。 自宅の祭壇にお祀りしているお不動様は同じ町にあるお寺で開眼していただいたので、同じお寺にお願いしようと思っております。 ところが祭壇の大黒様は、(開眼済みの仏像を通販でいただいたため)非常に遠方のお寺で開眼をしていただきました。 お不動様をお願いしたお寺様では「うちでも大黒様の開眼はできます」と言っていただいているのですが、お願いしてしまっても良いのでしょうか? (ややこしいことに宗派も違います) それともやはり、祭壇にお祀りしている本命の大黒様を開眼していただいた遠方のお寺に、多少無理をしてでも行って、こちらで開眼すべきなのでしょうか? とある人の忠告では、「お寺とのご縁があるので、同じ仏様でも何から何まで同じに考えてはいけない。またお寺との義理もあるでしょう」とのことでした。 こうした場合、どうすべきでしょうか。 アドバイスいただけましたら幸いです。
はじめて質問します。こんにちは! 早速ですが… お寺につく、"山号""院号"とは一体何なのでしょうか。 お寺さんにはそれぞれお名前があるかと思うのですが(寺名?寺号と言うのでしょうか…)、あるお寺には山号があり、院号があり…ないお寺もあり…。 もともと山にあるお寺にその名前を冠した山号が付いている、と何かで知ったのですが、だとするとこれは住所ということですか?どこどこ村の某、みたいな…? ならば院号は…?院と堂は違う…?堂≦院∈寺??? 自身でも多少調べたのですが、当事者たるお坊さま方がどのように考えていらっしゃるのか知りたくて質問しました! 頭の中がぐるぐるしていますが、主の質問は 山号についてです!お手隙の際にでもご教授ください、お願いします!
関わっている寺院の改修について、どうすればいいのか判断出来ません。 強風と、境内の巨木の枝によって、瓦が落ちました。それを機に、本堂の屋根などを調査して貰ったら、全体的に老朽化していて、雨漏りも多数あるとのことでした。 さて、改修となりますと、当然ながら門徒様への「懇志」を必要とします。 その額は6桁を超えます。しかし、懇志をお願いする以前に、自坊から(宗費や伝燈奉告法要懇志 事務費を除いた上での)修繕費を捻出出来ません。 年間に頂く財施の合計も少なく、担保になるものも無いため、金融機関からの融資依頼も絶望的です。 また、老住職が寺務に無関心であり、門徒様からの説得にも一切応じる意思を捨てている為、お金も出されず、話になりません。 見積もり書をもらい、町内の総代様とお話しても、お寺側が動いたら動くというスタンスです。僕は、この問題から逃げたくて仕方ありません。雨風の強い日が来る度に、不安になります。放置して、良くなることなんて絶対にありません。 門徒様の中には「私らは年金生活だから、大金出せないよ」とか、先に釘を刺される方もいます。 それはそうですよね。 年金は減らされ、消費税は上げられ、保険料や固定資産税も高くなり、みんな生活を送るのに節約して、やっとやっとです。 高齢者でこれなら、お若い方々は違うのかと言うと、そうでないですよね。みんな生活苦です。自分の家の修理もままならないでしょう。 それらを思うと、果たして大金を出すのをお願いして、でも一方でお寺側はお金出せませんという形で、お寺の修繕費をお願いなんて、しちゃいけないんじゃないか?と思うのです。 私は、どうすればいいのでしょうか。 また、お坊様方は、お寺の修理を行う迄に、どのような御苦労をされましたか。宜しければ、教えてください。
我が家は菩薩寺がない状態です。 昨今は宗派を問わない民間の祭儀場があり、近隣住民もそこを利用しています。 末代の私が宗派変えを言い出したため、総本山で近辺の菩提寺を探してもらったのですが、檀家を取っていないとのことで、菩提寺探しに難航しています。 急ぎで法要や葬儀があるわけではないのですが、私自身が素人信者なため、経験の深いご住職や僧侶様の教えを頂戴したいと考えているところです。 教えを乞う、というのはおこがましいのでしょうか。素人仏教徒にとって必要なものは一体なんでしょうか。
プロフィールに書きました 捨てなくて良いですよね
お寺さんで働きたいです。出家希望ではなく、厚かましいのは重々、承知していますが、お給料発生で働きたいです。 お料理は食べられるものは作れます。掃除、洗濯、致します。他にもお申し付けいただければ、できる言葉致します。 働けるお寺さん、ございますでしょうか?
私の実家はあるお寺の檀家です。 私の父は三人兄弟の末っ子ですが家を継ぎ同時に本家の墓も継ぎました。 長男(私にとって伯父。仮Aさん)、次兄(こちらも伯父。仮にBさん。Bさんは自分の墓をすでに購入済み)は家を出てそれぞれ家庭を持ちました。 私は女の一人っ子ですが嫁に行き、本家を継ぐことはなくなりました。 そうこうしているうちに父の長兄夫妻が突然亡くなり、続けて父も亡くなりました。 A伯父夫妻はあまりに突然亡くなったのでお墓の用意がなく、『お墓が決まるまで』というA伯父さんの息子(私の従兄)との約束で本家の墓に遺骨を仮安置しました。 この約束はお寺さんもB伯父さんも了承済です。 この時、父はすでに病床にあり、この直後父も亡くなりました。 今回お尋ねしたいのは『本家』『分家』とは?というものです。 この話し合いの時、A伯父さんの息子から『〇〇家の名前をこれからも引き継いでいけるのは自分』と言われました。 この時、本家の墓を管理しているのは父で、父が亡くなったら母、そのあとは私が墓を引き継ぐつもりでいましたので、従兄の発言は一蹴していました。 あれから数年経ちますが、従兄は伯父夫妻のお骨を本家の墓から出す気配はありません。 先日、お寺へ行った時、お坊さんから『お母さんから娘へ早く管理者継承の手続きをしなさい。そうしないとA従兄に墓を取られちゃうよ』と言われました。この『取られちゃう』が心に引っかかっていて、知り合いの年配の方に相談したところ、 お墓は「〇〇家の墓」という男系のもの。 父が亡くなった時点でうちが『分家』、 A伯父の息子が『本家』となるといわれました。 お寺から母→私へ管理者の継承を勧められて管理者が私に移っても私の一家(私や私の夫や子ども)がその墓に入れるわけではない。それが菩提寺と檀家というもの、と言われました。 父が亡くなった時点でうちが『分家』になるのですか?あの時、お坊さんに『取られる』と言われたのはこういうことなんでしょうか? 母娘とも以前から菩提寺に少々不信感があり、従兄との揉め事ももうたくさん。もしうちが『分家』になるのでしたらお墓の権利をA従兄に譲り、父のお骨を出したいと思っています。 B伯父さんに間に入ってもらいたいですが・・・少し認知症気味で、ちょっと難しいかも、です。
いつも、有難うございます。 お寺・お坊様の「暗黙の了解事項」を教えてください。 私の生家は真言宗です。 そして、御先祖様の戒名には「院号」がついています。 この間、御住職様の御家族の方から、 戒名に「院号」のつく家は、 塔婆をお願いする時は、塔婆代とは別に、 一万円を置いていくのが常識だと、教わりました。 初めて知ったので驚きました。 このように、口にはしない「暗黙の了解事項」を 出来る限り教えてください。 宜しくお願い致します。
お線香が切れてしまいました。今、家にあるのは、インドの長い棒状のお香です。 何もないよりいいかと思い、今朝はそれを使いましたが、代用になるのでしょうか? あと、お寺で売っている箱のお線香とスーパーや百貨店などの箱のお線香で付加価値に違いはありますか? 例えば、お寺のお線香は、境内にあったものだから清められているとか、お経があがっているとか、そのようなことがあれば、教えてください。
私は昔から神社仏閣が好きで、友人にも同じような方が多いです。 先日友人が、自分の集めている御朱印帳を見せてくれました。 神社仏閣にお参りした際は、いただいているのだとの事でした。 私も感銘を受け、御朱印帳集めをはじめてみたいと思うようになりました。 そこで、御朱印帳について質問があります。 神社とお寺とで分けた方が良いのでしょうか? ネットなどで調べてみると、私は気にせず1冊にまとめているという方もいらっしゃれば 神社で(またはお寺で)、お寺(神社)の御朱印のある御朱印帳を出したら怒られた、断られた、とも意見もあり、どのようにするのが良いか迷っています。 お坊さんの意見を聞きたいです。
アルツハイマー型認知症を永年患った母を在宅介護の末、今年の3月に亡くしました。 77歳の誕生日の3日後でした。 その母の供養にと、父と愛犬とわたしの男3人で地元のお寺巡りを始めました。 お大師様や観音様にすがりたく遍路、巡礼路に沿ってもう150寺近くを巡りました。 お寺を巡っている間は気も晴れ、癒されるのですが、帰宅と同時に果たして母は喜んでくれただろうかと、自責の念にとらわれます。 時に強い虚脱感や絶望感にも襲われます。 周りの皆さんはあなたはお母様によく尽くして差し上げた、お母様はお幸せだったと言って下さいますが、認知症を患い始めたばかりの頃の母をとても煩わしく思い、本人が一番心細かったであろう10年程前に、母の気持ちに寄り添ってあげられなかったことを今でも強く悔やんでおります。 晩年のつきっきりの介護はその罪ほろぼしのようなものです。 自身が独身のため、ゆくゆくは、お墓も作らず、納骨もせず、母の故郷である島の海岸に散骨をと考えています。 父も自分もそれでよいと言ってくれています。 自分自身も甥や姪はいるものの、彼らに負担をかけさせたくなく、また、お墓の石の下や、暗い納骨堂の中よりは、海のほうがのびのびできていいかなあ、お金もかからないし、などと考えております。 母の供養のため、一日三回、新しく購入した仏壇の前で父と般若心境を唱える毎日です。 写経も日に二度ほど書き、お寺巡りの折に納めさせて頂いております。 しかし、母の人生を思うと、特に病魔に蝕まれたのちの辛かったであろう最後の十年を思うと、お経を唱えていても涙がとめどなく溢れます。 不甲斐ない息子でごめんねと心で詫びてばかりです。 また写経の途中で筆を止め、やはりこんなことで母が果たしてよろこんでくれているだろうか、母の病気の進行をもっと緩やかにしてあげられる手立てがあったのではないか、果ては晩年お世話になりながらもその冷たい対応に腹立たしく思えたこともあったデーサービスや病院に今更ながらに腹を立てたりと、全くもって邪念だらけです。 百枚近く写経を致しましたが、ほんの一枚も最後まで穏やかな気持ちで書けたことは今だかつてありません。 このようなわたしが、果たして、これからもお寺を巡らせて頂く資格があるでしょうか。 亡き母は喜んでいてくれるでしょうか。 何卒よろしくご回答の程、お願い申し上げます。