多くのお寺は総本山があり、各地に分院があることも多いと思います。 お参りをする時に、総本山にお参りをするのではなく分院にお参りをしても祭られているご本尊が同じであればご利益も同じなのでしょうか? また、例えば子宝・安産のご利益があることで有名なお寺の子宝・安産お守り等は、分院の形状が違う子宝・安産お守りでもご利益は同じなのでしょうか。
はじめて書き込みをさせていただきます。 40代独身女性です。コロナ渦中で無職になり職を求めていますがなかなかうまくいかない中、この先生きていく希望や楽しみをわたしは何も持っていないとふと気がつき愕然としてしまい、そこから何をするにも気力が湧いてきません。 生きたくても生きられない人、命を落としてわたしの生きる糧となった動物の存在もあるのだからと思うと、このような考え方をしてしまうことに対し罪悪感でいっぱいになるのですが、消えてしまいたいという考えが頭から離れません。 毎朝目が覚めるのが苦痛でたまらなくなり、生きていきたくないと思いはじめネットで「死にたい」や「生きるのが辛い」と検索してこちらのサイトにたどり着きました。 色んな書き込みを拝見し「死ぬんならうちで出家して尼僧になりなさい」という趣旨の回答を見た時、少し心が軽くなりました。 今は両親ともに健在で、わたしに何かあって悲しませてはいけないし死ぬわけにはいかない、という事が最終的な心の砦になっているのですが、いつか両親がいなくなった日には「死ぬんならお寺に」を心の砦にしていいでしょうか?
お坊さんは、現代日本を襲う少子化、人口減少をどのように捉えているでしょうか。仏教の衰退にも関わる重大な問題だと思うのですが、移民を受け入れて、彼らに仏教の未来を託すべきでしょうか。
お寺についていろいろ教えて下さい。 こちらのサイトで同じような内容で何度か相談させていただいた時に「くよくよしてないで説法でも聞きに行ってみては」と言われました。 正直常に小さい子供を抱えている状態で、場所見知り・人見知りがあり知らない場所や人がいると泣き叫ぶ子供を連れて行く勇気がなく、まだ足を運べていません。 なのでやはり悩みは尽きず、いっぱいいっぱいになってきています。 そこで質問なのですが、説法というのは一体どういうものなのでしょうか? 大小関わらず全てのお寺でやっているものなのですか? 悩んでないで説法を聞きに行けと言われましたが、説法で悩みが解決するようなものなのでしょうか? 他にも説法を聞きに来ている方もいらっしゃると思いますが、永遠に泣き続けるような子供を連れててもいいのでしょうか? そしてこれは個人的な意見なのですが、私が関わったお寺はそんなに多くはありませんが、正直儲け主義・自己中心的なお寺ばかりだったように感じています。 1 保育園併設のお寺でしたが、住職さんのお誕生日には園児1人につき1000円を徴収し、かなり高めのお誕生日プレゼントを購入しないといけない。他にも何かと金銭を徴収されることが多かったです。 2 こちらも保育園併設のお寺でしたが、私の妹が保育園の先生として就職した際なぜか住職さんの奥様に嫌われたらしくイビリ倒されて心を病んで泣く泣く退職。 3 母方の祖父のお葬式などでお世話になったお寺でしたが、母が「お葬式が初めてでお布施にいくら包ませていただいたらいいか分からないので、申し訳ないのですが平均的なお値段を教えていただきたい」と申し出たところ、平均の2~3倍の値段を言われていました(後で他の方に聞いたみたいです)。 といった感じで、あまりお寺にいいイメージがありません。 できればこういったお寺ではなく、こちらのサイトで色々な方々の相談を親身になって聞いてくださっているような住職さんから説法を聞きたいと思っています。 何か見極める方法などありますでしょうか?
お寺での生活や、僧侶として従事する方の日頃の暮らし、なぜ仏門に入られたのかきっかけ等に興味があり、件名の通りの質問をさせていただきます。 不躾な質問でしたら申し訳ございません。 お寺や宗派によってもまた違うかと思いますが、できるだけいろんな方の回答を伺えたら幸いです。 質問数が多くなってしまい大変申し訳ありませんが、差し支えのない範囲でご教示いただけますと幸いです。 何卒よろしくお願い申し上げます。 ①一般的に、住宅街にあるような比較的小規模な寺院には、住職以外のお坊さんは大体何名ほどいらっしゃるのでしょうか? ②お坊さんが一通りの修行を終えたとされるのはどのような段階ででしょうか? ③修行を終えたのち、学校職員など他の職業と兼任しながら、お寺に住み込みで役僧や僧職員として住職のお手伝いをして暮らす言うことはあるのでしょうか? ④お寺に住み込みで働く場合、住職にご家族がいらっしゃる場合、同じ場所で暮らすのでしょうか?別棟などが用意されてるのでしょうか。 ⑤実家がお寺で家業を継ぐ以外で、お坊さんになられた方がいらっしゃいましたら、なぜ仏門を目指されたのかお話を伺えますと幸いです。 以上です。 もし失礼なことを伺っていたら申し訳ありません。
不躾な事を相談させて頂くのですが お寺を変える事は可能なのでしょうか。 理由は、お寺の方の対応に嫌な思いをしたからです。 以前、大切な身内の法事がありました。 住職は体調が悪いとの事で代理で女性の方がいらっしゃいました。 恐らく身内の方なのでしょうが、その方は法事をあげる人の名前を間違え何回忌かも把握していませんでした。 後ろにいた身内から名前を訂正され、何回忌かを振り向いて聞いてました。 怒りの気持ちでいっぱいでしたが親族がいたので堪え、ぐだぐだな法事になり説法も説得力なしでとても嫌な気持ちになりました。 慣れてないのか仕方ないです。 お経も間違えても仕方ないです。 せめて名前と回忌をきちんとしてほしかったです。 これから身内が亡くなった時などこんなにいい加減なお寺にお葬式を任せたくないです。 お寺を変える事は可能でしょうか? また変えるにはどうしたらいいでしょうか?
数年前に最愛の家族が亡くなってからよく不思議な夢を見るようになりました。 不思議と自分の意識がハッキリしていてまるで起きているかのような夢で、怖く厳しい顔のお坊さんに「岩手県の湖の近くにある寺に行け、そうすればあるいは助けてくれるかもしれない」と言われ、そのお寺をずっと探しています。 広い湖が目の前に広がり、お寺は岩壁に囲まれて、中には立派な薬師如来様が座っているお寺でした。 最初は毛越寺と達谷窟かと思いましたが、毛越寺は湖ではなく池で、達谷窟も湖が近いわけではありませんでした。 自分で探しても探しても見つける事ができません、湖の近くで薬師如来様のいらっしゃるお寺を教えてほしいです。 どんな些細なことでも構いません、どうしても探したいのです。 どうかお知恵を貸していただきたいです。 どうか、どうかお願いします。
カテゴリわからずその他にしてます、、 疲れました、 なにがとはないですが、少しやすみたいです、 心をどこかに置きたいです ゆっくりしたいです 好きなことや散歩の前に、あまりにも心にガスが溜まっていっぱいで、体を動かす力がでず、感情、感覚がなくはないですが不感症ぎみで鈍くなってきてそれらじゃ、 いやな気持ちではなく、まだマシな気持ちで時間が過ぎているような感覚で、休まりません 心が疲れた時はもう外が、人が億劫なため、景色がいいところに行っても、人が少ないところにいっても休めないし少しも気持ちが晴れないです 家でも少し休んで回復できたらその分すこし家事をして、また休んで、、 自分の気持ち、考えを見失ったりなにかに強くしがみついたり、てことはあまりない分自分の中ではまだましな方なのですが それも疲れてどこかで耐えきれなくなって支障が出そうです できることなら一度でいいのでどこか、心休まれる場所で。安心できる場所で、なにも考えなくてもいい、なにもしなくてもいい、表の?礼儀やマナーがとりあえずなっていなくてもそのままで受け入れるところで少し休みたいです もともとストレスはたまりづらく自己処理してきたのですがそれも なにかがあまりにもたまり過ぎてなにかがうまく作動してくれないような、、 お金もないのですが、 何かあったときに、疲れたなぁて思ったときにふらっと駆け込めるお寺はありますでしょうか? 少しの間いるだけでいい、よっぽどじゃない限りマナーとかとりあえず一旦おいといてそのままの気持ちでいてもいい場所、少しの間休めるような そんな場所、お寺はありますでしょうか? もしあればそれはどう探したら良いか、どこにあるか知りたいです また外から見た時に門が開いてるところはお寺の中に入っても大丈夫のような特徴などあれば教えてほしいです そんな都合のいいところはなかなかないと思いますがなければないでもちろん構いません、 もし何かあれば切実に知りたいです このような状態が5年ほど続き今までどこに相談したらいいか、またここのサイトを見つけて半年ほど経つのですがなんとなくいいのかな?と思い書き込めずにいました 今もどうしたらいいのかとこれを書きながら涙がこぼれます もう全て停止してもいいかなぁと虚妄もします笑 長々と、読みづらい、どこか文がおかしいとかありましたらすいません
よろしくお願いします。 私の妻の家は檀家なのですが3年前義祖父が他界いたしました、その際の葬儀の時に妻から色々お寺さんの話を聞いてみると義祖母は「お寺に今までお布施等を納めた事は無い」(多分寄付の事だと)と言っていました、私の感覚ではお寺さんとのお付き合いは法事や葬儀、お盆以外にも寄付等があると認識しておりました。 その後祖母と一緒に同居する様になり、ある時本堂建て替えの為の寄付の案内が届きました、祖母は「節目節目で色々贈り物をしてるからいいんだ!」と言い寄付をしようとしません、そこまで高額では無かったので納めた方が良いとも思いましたが私が口を出すのもと思い結局納めませんでした。 ですがその事実を知ってから私自身がお墓参りも行きづらい気持ちと他の檀家さんに申し訳ない気持ちです。 今後の事も考え妻と話し他の檀家さんと同じようにお付き合いをしていきたいと思っているのですが10年20年近くお付き合いもせずに今更ご住職様になんと言うべきか分かりません。
現在、父方母方の2つの宗派の寺の檀家になっています どちらも年間1万円くらいなのですが、季節ごとにお参りに回ってこられたときに御札の購入とお布施が必要になります。収入が少ないため支払いがしんどいので居留守をつかってます。 また、それぞれのお墓は寺ではなく霊園にあるので墓の維持費にもそれぞれ2万円かかります。お墓は今後も必要なので維持していきたいです。 これらを踏まえてお聞きしたいです。 お寺に、お墓がないこと。 お寺にお世話になってることがほとんどないこと。 万が一、法事になっても最近は葬儀屋を通したらその宗派の寺の方を派遣してもらえるので檀家じゃないとお経を読んでくれないというデメリットはなさそう。 これらを考えたらお寺の檀家になりつづける必要は無いのではないでしょうか。 しかし周りの親戚は、檀家料を支払ってはくれないけど 先祖代々檀家なのだから子孫は守らないといけないと言われます。 檀家をやめると先祖が安らかにいられないのでしょうか。 本当にどうしたらいいものか迷っています。 どうかご意見をいただきたいです。 よろしくおねがいします
お堂を見た時、思ったんですが、お堂って、仏様の「家」か、「別荘」何ですか?
お寺で過ごすということは何かしらの不思議な出来事があると思うんですよ。 例えば夢に仏様が出てきたとか、誰もいないのに物音がしたとか…。 不思議な出来事があれば教えて下さい(*'∇'*)ワクワク
一年前に父が急に亡くなり、本家に勧められるまま本家当主と住職が古くから友人関係としての付き合いがあるお寺(臨済宗になります)にお世話になることになりました。 つい先日、父の一周忌を終え、節目としてお寺を移りたいと考えています。 理由としては、昔から本家筋から難癖や高圧的な行動を受けることが多く、折り合いが悪いという状態にあります。本家と付き合いがあるお寺さんでこれからもお世話になると本家関係で不都合が生じてしまい(この一年で実際に何度かありました)、出来ることであれば避けたいと思っています。 移らせていただきたいと考えているお寺さんには事情などを説明し、受け入れていただくという話はついています。 なので、質問としては、一年お世話になったお寺さんに移らせていただきたいという旨の話をしっかりとつけるべきかどうか。つけるべきであれば電話だけでいいのか直接伺うべきなのか。お気持ちとして包ませていただいた方がいいのか。など、寺を移ることに関して、行った方がいいことなどを教えていただきたいです。 なお、お墓はまだなく、今のお寺さんに遺骨や位牌などは一切預けていない状態です。 よろしくお願いします。
私は寺に生まれて跡継ぎとして育てられました。庫裏の裏部屋で寝起きし、庫裏の台所で母が作った料理を食べ、庫裏の風呂に入って育ちました。 毎朝本堂にお参りに行くのが日課でした。ダイキンを叩いて「今日もいいことがありますように。」と願っていました。 庫裏は私の家でした。寺の広い境内は庭でした。子供の頃も檀家から隔離されていました。 そして今また檀家から隔離し、寺が家だったことも否定します。 仕事場だといいます。裏の畑を潰して60坪の家を建てましたが、帰ってテレビ見て風呂入って寝るだけの家です。 そこにさえ来るなといわれたら、どうしたらいいのでしょうか?
お寺に生まれお寺の後継として育ち、10年くらい寺に勤めましたが、激務と結婚のプレッシャーから無職になって17年になります。住職が退く時が来ました。無職でも寺から給料は出ていたのですが、それも打ち切りです。富岡八幡宮殺人事件と同じ立場です。新住職を恨んでもしかたがありませんが、自分が生きていけません。借金がかなりありますし、年金だけでは生きていけません。自己破産して生活保護をうけるのも難しそうです。もう死ぬしかないのでしょうか?死ぬなら富岡八幡宮殺人事件のように新住職を巻き込みたくはないと思います。恨み辛みの感情は有りますが。
少子高齢化や東京一極集中で地方のお寺がどんどん成り立たなくなっています。 それはわかります。ですが、無住になったらなぜそのままにしておくのでしょうか?当家のお寺も、住職が住んでるメインのお寺のほかに2箇所兼務で持っています。本体でも食えないから副業してるのに、兼務寺院が財政に寄与してるわけありません。 素人考えでは、遠隔地に建物を維持するのも大変だし、給料どころか光熱費すら賄えない名前だけのお寺はメインの中核寺院に全部まとめて潰しちゃえば効率的だと思うのですが(名前だけをお堂やスペース等で残せばよくありませんか?仏像も一箇所に集まれば豪華でしょう)そうはなっていません。今後経営が好転する可能性が全く無い場所で、無住のお寺を日本中で維持しているのは不合理だと思うのですが、これってなんでなんでしょうか?(有名な札所だから、というケースは無しで)
今までの質問や他の方との問答で、個人的な悩みについて色々助けていただきました。ありがとうございます。 社会的に気になることについても、ここでお尋ねできるでしょうか。 貯金のおぼつかない生活をする中で、もし仕事が途切れて家賃も通信費も払えず情報も頼れる先も見つからなくなったような時、役所でも「まだ働ける可能性がある」「血縁者が存命」などで生活保護が受けられず追い払われてしまった時、行き当たったお寺で助けを求めることはできるのだろうかと疑問を持ちました。考えてみれば、ホームレスのような方をお寺で見かけたことはないように思います。 キリスト教の団体では募金や炊き出しをしているのを知っていますが、仏教ではあまり目につきません。 一部、セーフティネットとなるべく取り組んでおられるところもあるようですが、ネットで名前があがるのは一部の意識の高いお寺の個別の取り組みのように見えます。 歳末ですが、越年、越冬が難しいような方にいま頼られたら、お寺の皆さんはどのように対応なさいますか。 個々のお寺でなくても、困窮した人を現実的に助けているような場所、団体を紹介なさったりすることはあるのでしょうか。 せっかく公開の質問ですから、私だけでなく、今ネットは見られるにしてもいつ厳しい状況になるかわからないような人みんなのためと思ってお答えをいただければと思います。 これは厄介な質問と思われるかもしれませんが、よろしくお願いします。
檀家さんとかも。。。 これから、日本の仏教が廃れていかないか心配です。
鎌倉の報国寺住職であられた菅原義道氏(故人)の本を数冊読みました。禅宗の僧侶だったことですので、以下老師と呼ばせて頂きます。老師は著名な僧侶だったらしいので、現在の僧侶のなかにも老師の著書を読まれたり、直接謦咳に接された方もおられるでしょう。 菅原老師のご著書を読んで感慨を深くしたことは、(少なくとも)菅原老師の寺院は「駆け込み寺」としての機能を持っていたことです。ご著書の中にこんな部分がありました。「自分の寺の境内で女子高生らしき若い女性を見つけた。深く悩んでいるように見えた。お寺に救いを求めて訪れたのだろうと思い、『さあ、さあ、そんなところに立っていても寒いから、中に入ってお茶でも飲まないか?』と言って寺の中に入れ、彼女の話を聞き始めた。」 今、こういうことをして下さる菅原老師のようなお坊さんて居るんですかね?少なくとも私は今まで一度も経験はありません。寺を一人で訪れたことは数十回もありますが。。 率直で恐縮ですが、今の仏教は「葬式仏教」と言われて久しい。人が死んで葬式を行い、それでお金を稼いでいるという意味ですよね?(はっきり言えば) なんでこんなことを聞くのかと言えば、私一年ほど前に近隣の浄土真宗の寺院の住職にお会いしたかった。仏教を学ぶ手ほどきも受けたかった。でも、メールを送っても電話をしても何の連絡もなかった。「お忙しいでしょうから、お手すきの時にお電話でもメールでも返信をお願いしたい」と伝えたのにも拘らずです。その浄土真宗寺院には、もう連絡する気も訪問する気もなくなりました。 今のお寺には菅原義道老師のお寺のような「駆け込み寺」的な要素はもう期待できませんか? 住職に面会を求めて何かの悩みを相談できるような雰囲気はもうありませんか? このhasunohaに登録されている僧侶の皆さんであれば、菅原義道老師のような方がおられるかもしれないと思ったのですが、いかがでしょうか? それとも今の仏教はもはや「葬式仏教」に堕してしまったんですか? 少々辛口になってしまいましたが、忌憚のない意見・質問を述べさせて頂きました。ただ、”私のように考えている日本人は決して少なくない”ということを忘れないでください。
どうして、全国各地の寺院は、葬式、法会が中心なのでしょうか。 学校のいじめに悩む子供たちが気軽に住職に相談しに行けるのが理想なんでしょうけど、やっぱり多忙だからしょうがないのでしょうか。 だからこそ、ハスノハのようなウェブサイトが貴重だけど、本来はお寺がその役割をしなければ、葬式仏教と揶揄されるのも仕方がないのかと個人的に思います。