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仏教の心髄はなんでしょうか

回答数回答 9
有り難し有り難し 184

各宗派の違いはあれど
仏教は釈迦の教えから発していると思いますが
端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか?
多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。

なお恐れ入りますが、
仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。


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お坊さんからの回答 9件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「鳥窠道林の話」

 仏教の大切なところの話で、私の好きな話は、「鳥窠道林(ちょうかどうりん)の話」です。

 中国唐の時代の鳥窠道林という禅師が、有名な中国の詩人白居易(白楽天)に「仏の教えにおいて最も大切なことは何ですか」と質問され、「悪い事をせず、善いことをする事だ」と答えました。白居易は、「そんなことだったら三歳の子供だって言えるぞ」と言い返しますと、道林は「三歳の子供でも言えるかもしれないが80歳の老人でも行うことはできまい」と切り返しました。

 悪い事をしない、善いことをする、実践なんだ。仏教の大切なところはそういう事だと思います。

追記
追記はしない事にしていますが少しだけ・・・
このお話は「諸悪莫作 衆善奉行」です。
あなたの知っている「学べばわかる」ような仏教用語だけで理解しようとしては危険です。「悪い事はしない、善いことをする」ただそれだけでいいのです。
説示一物即不中。言葉には限界があります。あとはあなたが頭ではなく、具体的に実践する事です。

最後に
「お礼」を拝読しての感想ですが、あなたは、ゴール近くで「こっちこっち」と言っている人がいるのに、スタートラインの線を見て「これがゴールラインと承知しましたがいかがでしょうか」とやっているような印象を受けました。
もちろん、スタートラインに立たなければゴールできません。スタートラインを探し当てただけでも立派なものです。
そこから進むためには、あなたの持っているその認識を一度捨てる事です。是非ご精進ください。
そろそろ字数制限です。これ以上は書きません。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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聴く 聞く と書いて「聴聞(ちょうもん)」

瓢鮎様

釋 慧心と申します。

拝見させて頂きました。

仏法を聞くことを、「お聴聞させて頂く」と言います。

仏教の真髄、醍醐味は、
自らの愚かさを知らしめて頂き、聞く(聴く)耳を持てることでしょう。

私と対極にあるのが真理です。
また智慧です。

仏の智慧なので、仏智(ぶっち)と言います。

仏智によって、私の有り様、私の知恵の有り様を浮き彫りにして頂けます。

ある仏教に造詣の深い医師のお話があります。

70代の末期の肺癌の男性患者様。
この方が、傲慢で全く人の話しに耳を傾けない。
聞いていても、自分で学んできたこと、自分の信念が全て正しいかのような態度で、全く聞き入れないのだそうです。

その男性の病状は一進一退を繰り返し、
次第にオペや投薬の手立ても段々と尽きてきたある日、

先生は思いきってその男性に言うたそうです。

「○○さん、段々と使えるお薬ものうなってきました。これから先は、もちろん治療を継続しながら、ホスピスなどの様々な施設も選択に入れていきましょう。」

続いて、
「どうですか、一度私のご縁のあるお寺へでも参って、気分転換にご法話でもお聞きになりませんか?」
通常、病院では特定の宗派のお話などはご法度でしょうが、この先生は男性のどうにもならない態度に、思いきって言うたそうです。

そしたら、その男性は、こう答えたそうです。

「まだ早い」と。

命の期限が目前に迫った状態の中にあっての、まだ早い。
先生は驚きました、と言われてました。

私達も同じかも知れませんよ。

仏教は様々理屈はあります。
真理や道理になるほどと思わされます。
しかしそれは、私には仏教学です。

また52段階の覚りというても、等覚や無上覚を覚る人があるのでしょうか。

仏教は、突き詰めれば、過去でも未來でも無い、そして他の誰でもない、

今のこの私一人の生き死にの一大事の話しをしています。

今、素直に聞く耳を持たせて頂くことしかありませんよ。

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有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派です。 有髪に非僧非俗、 肉食妻帯(現在は独身ですが)...
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そのようにある から離れていますよ

ご返信を読んだ上での回答です。
まず、インターネットで仏道を説けるか?説ける部分と説けない部分があります。同時に語り手と受け手の機根が1つにならねば伝わるということは成立しません。
その中でいかにさじ加減をしていくか?それは個々の僧侶が相手を見ながら考え、経験を通じて学んでいくことです。0か100かで可否を問えば、それ自体が執着となります。

そしてそもそも論として2点押さえていただきたいのですが、まずインターネットの是非を問う時代はおよそ10年前に通り過ぎています。我々が望むと望まざるにかかわらず、インターネット上の人間関係はさらに拡大し続けています。にも関わらず、ネット上でも思いやりを持ちましょうという教育は普及しないどころか、大の大人が差別発言や犯罪行為を繰り返しているのが現実です。そこでお坊さんがネット社会に飛び込まないで誰が道を示すのでしょうか?

hasunohaが初めてテレビで特集された時、凄まじい反響がありました。当時は質問制限もなく、文字どおり寝る時間も食事の時間も削って回答していた頃、Yahoo!リアルタイムでこのようなツイートを目にしました。「hasunohaを見ていると、人間の良心はここまで出来るものなのかと思える。」

文字の裏側に刮目して下さい。私たちの足跡が仏道を語っております。身業説法です。これが諸悪莫作、衆善奉行です。そのように良心を良心のまま感じ取るのが「そのまま」です。ネットだから知性のやり取りだと決めつけるのは執着です。その考え方が言葉の出る前の世界に、言葉で色を塗っているのだと気付かねばなりません。その今の自分に気付いてこそ、仏教学ではない仏教の心髄です。このご質問自体は仏教学とやっていることは変わりません。

次に、これは布教の現場で勘違いしないよう最初に教わる基礎基本ですが、世間のほとんどの人は仏道の心髄など興味ありません。新着質問をご覧ください。ほとんどの人達は「お坊さんに話を聞いてほしい」、「お坊さんの話を聞いてみたい」という思いでいらっしゃっています。その思いに寄り添うのが第一、その中でうまい具合に仏道のエッセンスを混ぜ込んで回答するのが釈尊より2500年の伝統たる対機説法です。

語り足りませんが字数制限です。回答を書き換えての返答は推奨されていませんので、追加があれば新規質問を立ててください。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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二諦

ご質問、各回答僧侶様のご回答、あわせてそれにたいする瓢鮎様のご返信を拝読させていただきました。

私などの力の及ぶところではないと思いますが感じたところを少し

仏陀釈尊の覚りはどこまでいっても仏陀釈尊にしかわかりえない勝義諦。まさに言葉という戯論の寂滅した一切法は無自性空であるという世界なのかもしれません。

しかし仏陀釈尊はそこで個人の覚りにとどまらず大悲をおこし、法を説いてくださった。言葉をもって我々に伝えようとしてくださったのではないでしょうか。

一切法は言語・分別を超えたものだが、同時に言語・分別によって世俗的あり方としても存在している。

「世俗諦によらずして勝義諦は説かれず」『根本中論』

私の理解は私の理解、しかしそれを瓢鮎様に伝えるには言葉を尽くすしかない
瓢鮎様の理解(あるいは体得)を私が理解するにはやはり瓢鮎様に言葉を尽くしていただくしかない

しかし言葉で伝わったお互いの理解が同じものとは限らない

それでもなお、尽くされた言葉を通したものが言葉を超えて、領解される(頭の理解)のではなく体解(身体全体での理解)されるような世界が覚りの世界なのかもしれません。

ある方は、「腹に落ちる」(頭で納得する)のではなく「腹が落ちる」(身体全体で納得させられる)と表現する

ある方は、仏陀の覚りとは「こんなにすごいことを私は気づいたぞ」というものではなく「こんなことに私は気がつかなかったのか」というものではないかと表現する

言葉はおもしろい、しかし同時に言葉は戯れる危険性もある

それでもやはり言葉って大切ではありませんか?言葉を通して言葉を超えていく世界もあるのだと思います。

そんな私が最近好きな言葉は「一如不二」

生と死
他と私
煩悩と涅槃
過去と未来
空と仮
勝義諦と世俗諦

対立するそれぞれが二つあるのではない、しかし全く一つかというとそうでもない、それはまるで一つの如し

もしよろしければ瓢鮎様が体得された「仏教の心髄」も私たちに言葉を尽くして教えてくれませんか?また「学んだのではなく与えられらた」というそのプロセスもお聞かせいただけないでしょうか。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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自己完成を目指す!。

上は何処までも高い精神性を追究し、下は何処までも世の中で困っている人たちに手を差し伸べて行くという行動する事。自己完成を目指す教えです。お母さんは赤ちゃんが泣いている声を聴いてこれは、ミルクが欲しい泣き声だ、これはおむつが濡れている泣き声だ、これは熱が出た泣き声だと聞き分ける事が出来ますね。マザーテレサのように他人の苦しみが自分の苦しみ、他人の痛みが自分の痛みのように感じる事が出来る心を養う事です。この客観の世界(山川草木、他人)と自分とは別物ではないという宗教的体験(悟り)をする事です。私は悟ってませんので、参考までに!。

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おきもち

青年の自立支援(生活改善・病後の静養・引きこもり等)
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智慧と方便、空と縁起

瓢鮎様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教の心髄。

光禪さんのおっしゃられていますように、七仏通誡偈が、まさに端的にはその通りとなりますが、更にその中身における実践として大切になるのが、智慧と方便であると言えるのではないだろうかと存じます。

智慧と方便が、悟り・涅槃へと至れるためには必ず必要となるからでございます。

智慧は、空を悟る智慧のこと。方便は、福徳行、善徳行、慈悲行のことになります。智慧と方便により自利利他を円満に成就することが、悟り・涅槃へと向けて大切となります。

あとは、「縁起をみるものは、法をみる。法をみるものは、仏をみる」、「縁起をみるものは、法をみる。法をみるものは、縁起をみる」と申しますように、空と共に縁起も仏教の大切な要諦であると言えるでしょう。

特に空の理解においては、縁起もセットで理解することが望まれます。

ご参考までにて。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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心を楽に無理せず生きる道

仏教のエッセンスは、学べば分かるものではなく、心と体で実践する道です。何にもとらわれずに心を落ち着けて物事のエッセンスを見極め、人の本能を理解し、理性で制御して生きる道だと思います。そうすることによって楽を得られるのです。

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おきもち

悩み苦しみの原因を消したり制御したりする

悩み苦しみには原因があります。
煩悩です。
仏教は、煩悩を消したり制御したりして、
悩み苦しみを消したり制御したりするための教えです。
そのための方法が、仏教の修行です。
戒(生活習慣)、禅定(精神集中)、智慧(観察・気づき)の三学が仏道修行の基本です。
まずは、自分の欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩に気付きましょう。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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瓢鮎様

仏教の心髄は、心髄とか心髄でないとか
本質とか本質でないとか、そうゆう思考からすっかり離れて
自分自身、この世界の本当の様子に自ら気づくこと。
今のままで過不足なく整い、何かを求める必要もなく、
何かを捨て去る必要もなく、今のままで良かったのだと
今に安住できること。
と思います。

「インターネットで本当に仏教が説けるか」
説けないと思います。ですが種をまくことはできるし、
意味はあると思います。

「仏教の大切なところを、複雑化し誤解を与え間違った方に向けるのではないか」
インターネット以前に、もう十分、複雑化し誤解を与え間違った方
に向いていると思います。仮に間違った方向に行ったとしても大丈夫と
思います。すべては善知識。近道も遠回りもみんな人を良い方向へ
導いてくれるものと思います。

「仏の世界に好き嫌いもない 、仏の世界、こころの真実は
言葉のない世界、言葉の出るその前の世界
そこには対立も協調もない 。ただそのようにあるということでしかない
すなわち誰もが分かる世界なのだが、言葉、論理、知性が全てに
なってしまっているために気が付きようがないだけなのだ」
わたしもそう思います。

「悟りとはそれを体感するということであって 仏教の教えの根本
はそこにある。そこに到る法を説いたのが仏教であると承知しましたが
この見解はどうでしょうか」

見解としてはそうだと思います。
悟りをどう定義するかは、とても難しいと思います。
「それを体感する」のそれがこれだけの説明では、正確に受け取れませんが、
「生死が消滅し、比較の世界が絶対の世界になる」が、仏教では
ゴールではなくスタート地点です。
また、この世界は絶対、相対的思考以前と気づいても
思考はまだ残っています。分別する心、残っていませんか
「この見解どうでしょうか」正しいか、否かがどこかに
あるように思います。

とても大切なことにお気づきになっていらっしゃると思います。
そこに腰掛けず、立ち止まらず、どんどん信念、思考、分別を
手放されていかれるといいと思います。
「放てば手にみてり」ということばがありますが、
手放せば手放すほど、大きな気づきがあると思います。
この世界の豊かさに目が開かれていくのだと思います。

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おきもち

地方の小さい町の小さいお寺の住職をしていました。
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質問者からのお礼

和尚さん
ご回答ありがとうございます。
更には聞けないのかもしれませんが、
悪いことをしない、良いことをするは自戒、布施というとこですか、
それは和尚が真にこれが仏教の大切なところ、肝だと体得されたことなのでしょうか
仏教の核心はそのように言葉で説明できることなんでしょうか、

例外的な追記を誠にありがとうございます。
ご安心ください。
知性の働きが及ばないところに仏教の心髄があると承知しております。
言葉で仏教の核心を得ることは不可能です。
言葉は逐次的にしか扱えず処理に時間がかかりそれからできる論理は知性でしか扱えない。
それに対し仏教の核心的なところ、心は瞬間瞬間変化し論理、知性を超えたところのものである。
従って心に関して言葉を使い論理化し知性で扱うものにするとそれは実体のない観念、妄想となり
人を不幸にさせる原因となる、と承知しております。

>「悪い事はしない、善いことをする」 ただそれだけです。
その それだけ にしておく とおっしゃいますが
それをただ それだけ としておけるでしょうか。
言葉にするとそれで終わりません。

端的にいうと
インターネットで本当に仏教が説けるかということに大いなる疑問を感じております。
言葉、論理、知性を使わなければただこれだけの世界というとてもシンプルな
仏教の大切なところを、複雑化し誤解を与え間違った方に向けるのではないか。
わたしから問題提起です。

川口和尚様
ご回答ありがとうございます。
わたしは学問としての仏教は通り一遍も学んでおらず浅学です。
いろいろとお教えいただき誠にありがとうございます。
お教えいただいたことはまたゆっくりと調べ学んでいきたいと思っておりますが
しかしそれはあくまでも知識、学問として、
知らないことを学び理解し学習するという仏教学ですね。
しかしお教えいただいた中にある 悟り は仏教の核心的なところだと思いますが
それは学習で得ることは出来るでしょうか、
数学や科学のように他者に教えらえれるものでしょうか。
つまり言葉、論理、知性で伝えられるでしょうか、
わたしは仏教の真の教えと仏教学は、本物の花と造花以上に
質的というか全く異なるものであると思います。
赤信号の赤色はどんな風に感じるかということ、質的感覚:クオリアというらしいですが、それを他者に言葉で絶対に伝えられないということと同様に、悟りは論理、知性を超えたクオリアの最たるものではないかと
考えます。
それは言葉、論理では絶対に説明できず、知性では絶対に理解できないものでありまた得ることもできない
しかし論理、知性の世界を離れれば、だれでも自ずとわかる世界である、
そういうものではないでしょうか。
だれにもある世界であるが、ごく近くにあっても人は(言葉、論理、知性で)理解しようするため
ベールが掛かったわからない世界となっている、そのようなものではないかと考えます。
そして仏教の役割は、その言葉、論理、知性で処理できるものと、出来ないものの区別を
体感的に教えることではないかと考えております。

釋 御院さま
 ご法話ありがとうございます。仰ることはよくわかるお話です。
傲慢に理屈をこねていないで素直に聞けということでしょうか。
わたしもいい加減なことでこのように投稿しているのではございません。
わたしの記していることはすべて体験にから得た(与えられた)ことで
勉強で学べるものではありません。
自分の考えに基づく信念や思想ではなくすべて与えられたものを
自分の表現でしるしているのですがそれが理屈としか読めないことは仕方ありません。
言葉で伝えられない 理解できない ことは屁理屈としか見えないかもしれません。

わたしは長年にわたり自らの問題を解決することを追窮し、紆余曲折、いろいろと導かれる縁もあり
仏教の教えに到りました。
そしてそれは、あの世、死者や、先祖の供養、弔い、儀式、などとは本来全く関係のない、私たち自身の
今この時の真の姿を説いているのだということを承知しました。
そしてそれは学んだのではなく与えられらたという実感です。
この瞬間々々のわたし達の心の実態とはどのようなものかということ、
それは御院さんのおっしゃる生死の問題です。
生死が消滅し、比較の世界が絶対の世界になるとはどういうことかということが
感覚的にわかるという経験が与えられたのです。
そして心の真実は、教えられずとも全て与えられるものばかりであると承知しました。
生来だれもが持っていることであるからそうなのでしょう。

わたしのこの承知したことはプロのお坊さんからみて
わけのわからない屁理屈、全く見当はずれのことでしょうか。

>そんな私が最近好きな言葉は「一如不二」
>生と死
>他と私
>煩悩と涅槃
>過去と未来
>空と仮
>勝義諦と世俗諦

仏の世界に好き嫌いもない
仏の世界、
こころの真実は
言葉のない世界、言葉の出るその前の世界
そこには対立も協調もない
ただそのようにあるということでしかない

すなわち誰もが分かる世界なのだが
言葉、論理、知性が全てになってしまっているために
気が付きようがないだけなのだ

悟りとはそれを体感するということであって
仏教の教えの根本はそこにある

そに到る法を説いたのが仏教であると承知しましたが
この見解はどうでしょうか

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