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仏の教えって伝わりづらいものですか?

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最近、仏教について勉強しています。
座禅の仕方や四法印の意味など、知れば知るほど『なるほど』と、思うことが多く、大変勉強になっています。

私にとって特に影響力があったのが、小池龍之介先生の考えない練習です。
心の扱い方や感覚に意識を向けることなど、試してみたところ集中力ものびたし悩みもずいぶんと減りました。

仏の教えは、心の教育にすごく役立つと思ったのですが、私の個人的な実感としては、今の日本にはあまり広まっていないような気がします。

これは、個人の興味の有無の問題なのですが、仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか?

先生方の実感としては、どのようなところに伝わりにくさがあると思いますか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

伝わりやすくもあり、伝わりにくくもあり

G太郎さま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。

G太郎さんは仏教に興味を抱いて、いろいろ勉強なさっているのですね。若い方が仏教に興味を抱いてくれることを、とても嬉しく思います。

さて、「仏教」という言葉ですが、これは「仏の教え」という意味と、「仏に成る教え」というふたつの意味があります。

「仏の教え」は、お釈迦さまや諸々の仏さまの教えで、それを聞いたり学んだりすることができます。現代の日本人であれば、充分理解できるものだと思います。

それに対して「仏に成る教え」は、自分自身が仏(buddha=真理に目覚めた者)に成るために、どう歩んでいくべきかを示す教えです。明治以前は「仏教」という言葉はほぼ使われず、「仏道」と言いました。これも「仏に成る道」ということでしょう。

「仏の教え」に「諸行無常」とあります。
全ての物事はうつろいゆく。いのちであれば、終わりを迎えます。これは頭では誰でも分かることです。しかし大切な家族や親友が亡くなったら、「諸行無常」を頭では分かっていても、仏さまで無い身としては、嘆き悲しんでしまいます。

頭で分かることと、腑に落ちることの違いだと、私は考えています。
ですので煙に巻くような答えになってしまいますが、伝わりやすくもあり、伝わりにくくもあり、とお答えいたします。

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

僧侶の問題

おっしゃる通りで仏教はとても素晴らしい教えです。
仏様の智慧はとても魅力的なものです。

しかし今日の日本であまりそれが浸透していないのは、私は私の責任だと思っています。
僧侶の怠慢が大きな問題です。
以前、小池龍之介さんの講演を聞きましたが、同様に僧侶に危機感を感じておられました。
勿論、ここで答えてらっしゃる僧侶の方々はそうではないと思いますが、、

今の世間一般の好感度は【仏教>寺>僧侶】の順番に下がっていくようです。
本来とても魅力的な教えなのに、それを信仰しお伝えする僧侶に魅力が乏しいという悲しい現実があります。

個人的には伝わりにくい教えだとは思っていません。
仏教は決してむちゃくちゃな教えではありませんし、とても温かく優しい宗教です。
仏法が伝わっていく邪魔をしているのが僧侶なのかもしれません。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

仏教だと思われてしまっているところが一番の問題

たとえば仏教の教えでなくとも、キリスト教の教えであっても学校教育や企業の教えであっても、優れた教えはシェアされるべきなのです。
たとえば、優れた製品だってシェアされるからそれによって、電化製品や工業製品が普及して、生活が物質的に豊かになるわけです。
精神的に豊かになるためには仏教の教えをどんどん広めればいいのですが、私たちがキリスト教の教えやイスラム教の教えを積極的にシェアしているか、といえば微妙なのではないでしょうか?
それと同様な事が、仏教に対しても起こっているのではないでしょうか。
ですから、仏教が極力、仏教の肩書をなくして、多くの方に教えのエッセンス的な所が広まればよいのです。仏教の教えは、仏教の言葉を使わずしても伝える事が出来るからです。
あ、(^

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日本人は宗教に「寛容」?それとも「ルーズ」?

はじめまして。亀山純史と申します。仏教の教えが伝わりづらいとのことですが、もちろん、私たち僧侶の怠慢は大きいと思います。(この点については他の方が回答されておりますので、割愛させていただきます。)ただ、それだけではないかもしれない、と感じるところがあり、今回、回答させていただきます。
私たち日本人は、どうも宗教に対してよく言えば「寛容」、悪く言えば「ルーズ」であると思います。私たち日本人の多くが、まず、子供が生まれれば、神社へお宮参りに行きます。10月の月末にはハロウィンで騒ぎ、12月にはクリスマス、大晦日にはお寺に行って除夜の鐘、正月になれば、神社へ初もうで、そして結婚式は教会か神社で、でも葬儀はお寺で、といった感じですよね。このように、日本人は宗教本来の役割とでもいうべきものに対して、あまり関心を払わないのではないでしょうか。そしてそれが仏教の教えが伝わりづらいことの要因の一つではないかと思うのです。
なお、東日本大震災における日本人の行動に対して、フランスの新聞の特派員は、「おそらく、信者であろうとなかろうと、仏教の教えは日本人の心情にしみ込んでいる。それがゆえに、不可避の出来事を冷静に受けとめることができるのではないだろうか。…日本人ならば「諸行無常」の考えは子供の頃から知っているのである。」と分析していました。そうだとするならば、「仏教の教えは伝わりづらい」と悲観的にならなくてもいいのかもしれない、と考えたりもします。(もちろん、それにあぐらをかいていてはいけませんが…)
ともあれ、私自身も僧侶の端くれとして頑張っていきたいと思っています。ご質問、ありがとうございました。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...

「梵天勧請」

G太郎様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教を修習頂けますこと、誠に尊く有り難いことでございます。

「仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか?」・・はい、ございます。

このことに関して釈尊成道後における一つのエピソードがございます。それは、「梵天勧請」という出来事でございます。

菩提樹下にてお悟りを開かれた釈尊は、その悟りの内実に関して、涅槃の境地を静かに喜び、このまま更に深い禅定に入って、もはや再び迷い・苦しみの世界に生まれ現れることのないように、この世界から完全に解脱しようと考えられたと伝えられています。

また、この涅槃へと至るための深遠なる教えについて、例え説いたとしても、誰にも理解してもらえないのではないかと考えられて、教えを説くことを躊躇されたと言われています。

このように釈尊が教えを説かれることを躊躇なされていた時、梵天が現れられて、「そのすばらしい涅槃へと至るための道を衆生にも大いに説き、迷い・苦しみから衆生を救済して下さい」と、三度も勧められたと伝えられています。

この梵天からの勧請を受けて、釈尊は、その慈悲の御心と共に、涅槃へと至る道を衆生に説くことを決意され、いよいよ仏教が始まるのであります。

釈尊が教えを説かれることを躊躇なされた真意の一つとして考えられるのは、仏教は対機説法、方便を用いる教えであり、説く対象となる相手の悟りへと向けた機根に応じて(理解できる能力に合わせて)、説かれるものであって、一般的な教えとしてはある意味で成り立たないものもございます。それが故に、ある者に説いた教えが、別の者に対して適用できるかどうかは非常に難しく、かえって誤解や混乱を生じさせてしまい、益にならないかもしれないと考えられたのではないかと存じます。

もちろん、四法印や空、縁起などの代表的な教えは一般的なものとして挙げることもできますが、それでもやはり解釈においては、かなりの相違や範囲の広がりが見られます。なかなか統一した見解としては決定されにくいというのにも、やはり上記の理由があるからではないかと思われます。

伝わりにくい実感というものにつきましては、結局は機根を見極める拙生の力量不足、方便力の拙さによるところであり、誠に申し訳ないことであると日々反省致しております。

川口英俊 合掌

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質問者からのお礼

僧侶の方々、不躾な質問にお答えくださりありがとうございます。
在家ものながら、私も身近にいる悩んでいる人に、役立つ仏の教え伝えてみようと思います。

「仏教全般」問答一覧

待つことは仏教でも大事ですか?

前の話と似たような内容なのですが、同じ職業(画家)の好きな人と疎遠になっています。 母親曰く「待て」と言われてます。 向こうの方が立場が上なので、まずは実力をつけろと言われてます。会うのはそれからでもいいだろうと。 私の中に、なんでこんなに頑張らないといけないんだ、という焦る気持ちと、 頑張って違った新しい自分という土俵でまたお会いできたらという気持ちがあります。 焦っている時、イライラして家族にも邪見にされるときがあります。 また逆におろおろしまってもっとゆっくり物事を進めなさいともいわれます。 親の言うことは正しいと思っているのにイラっとすることもあります。 でも待ちながらそれが正解だと感じることもあります。 画家の仲間が増えて、みんな同年代の人は凄く苦労されてその中でも夢に向かってひたむきに頑張っている。中には同業者に貶されている人もいる方もいますしバイトしながら、別の仕事をしながら頑張っている人も。 年上の人達は年上の人たちでライバルがいて、年下の人たちに追い上げられそうになる中、孤高に取り組んでいる方もみられます。 もっと年上の人は本当に素晴らしい絵を描くのに、それでも絵の事で悩んでいる人も見ました。 私も貶されたり叱咤されたこともありますが、励まされたり期待されたりしながらやってていて、しかも家族も一応応援はしてくれてるので救われてる方だなと思います。仲間の話をネットや現実で聴くのもためになっています。 そういう人たちを見てると、その人がきっかけで待っていた縁のパワーって侮れないなと感じました。 仕事を極めるというのは難しいですね。 もっとゆったりとした心で仕事や日常に向かい、精進したいと思ってますが、 中々できない自分に悩んでます。でももっと視野を広げて縁のパワーを広げたら、いつかまたその人に仕事を通じて出会えるんじゃないか、同業者として支えられるぐらいの力が持てるんじゃないかという不思議な気持ちがしています。 こういう待つ縁の話は、仏教のお話にもあったりしますか?

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仏教の教えを守ってるけどダメみたいです

最初に、、、別に報われたいわけではありません。 どちらかというと達観していると思います、いろいろ経験して結論として出した考えです。 仏教を勉強し、理不尽な目に会う度に疑問に感じるので質問をしたいです。 ・人の不幸には圧倒的な差がある。→どうしようもない、心の持ち方一つで変えられるものではない、不幸は不幸。 仏教修行をして執着を手放してる群発頭痛の人が幾ら心もの持ち方を変えても苦しく痛みに関しては、生まれつき健康で他人に危害を加える人よりも圧倒的に不幸である。 ・人に親切にしたり愛したり優しくしても、恩を仇で返されたり感謝すらされない人もいる。→最新の研究では人はサイコパスに魅力を感じるようです。また生まれつきの容姿や印象で好感度が変動するようです。 ストックホルム症候群や共依存など他人に優しくしない方が人は恩恵を得れる生物のようです。 ・人に与える人より搾取する人の方が富を得れる。不幸量は下がる。 →本人の認知としては搾取している気がしない人も沢山います。 というより世の中先進国は後進国から搾取していますが誰も富を彼らに分け与えません。 そして搾取した人達の方が贅沢できます。 教育を受けたいサウジアラビアの女性よりも専業主婦になりたい日本人女性の方が教育が整備されています。 食べ物を欲しがるアフリカの貧しい人よりも、廃棄する先進国の人の方が不幸ではありません。 ・感謝しても報われないが、他人を侮辱して壊す人は報われる。→感謝感謝の毎日ですが、感謝するより他人を貶す方が相手を支配できます、経営学や政治学ではよく言われてますが他人を従わせるには恐怖や暴力的な支配が有効です。 当たり前と思ってる方が気が楽です、私たちの生活にはありとあらゆる犠牲があります。小さい細菌やらが私たちの身体を守り、昆虫が生態を守り、牛さんの内臓が食べられ、低賃金の人がサービスを支え、私のような人はガス抜きにされ笑、後進国の人を搾取して。それに感謝してたらキリがありません。当たり前と思って見下してる世界に対して感謝ゼロの人の方が楽ですよね笑  ・耐え忍んで努力しても惨めに何も得られず、生まれてただ朽ち果てるのみ。→生まれつきかなりの運命が決まっていて、奮闘しても生まれつき全てを手に入れてる人に搾取される世界です。 報われなくてもいいから、少しは良い方向に向かいたい

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解脱って怖い?

昨今の陰鬱とした情勢の中、多忙を極められておられるであろう僧侶の方にご相談をさせて頂けることに感謝いたします。 私は、宗教や哲学などの学問に興味があるのですが、仏教における「解脱」という考え方に一抹の不安を覚えています。 といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。 例えば、世俗では結婚を是、独身を非とする意見を度々耳にするのですが、私自身は伴侶の有無だけで人の貴賎が決まることはない、もっと言えば、そんな二項対立などで張り合いしないで平和の範疇で気楽に生きればいいのにと思っています。 ところが、ある時似たような意見を呟いた方が、ネット上で「生存競争についていけなかった腰抜けの負け惜しみ」、「生命や家族の尊さが分からない薄情者の言い草」といった罵倒を浴びせられているのを見て、この意見は既婚者の方や婚活を本気で行っている方に対して無自覚の批判や無粋な発言になり得ると悟らされたことがあります。 私自身は、特定の誰かを見下そうという気は全くないのですが、多くの人は何かと甲乙つけたがるものらしく、今に至るまで自身の本心が話せず度々肩身の狭い思いをしています。 そして、私が何より恐れているのは、この考え方を極限まで突き詰めた結果、今回の相談含め、全ての悩みについて「んなもんどうでもいいから腹でも切ってさっさと涅槃においでなさい」と強引に押し切られることです。こうなると最早立つ瀬がありません。 ただ、一つ思う所があるのは、「救世を考えるお釈迦様や僧侶の方々がそんな本末転倒な事言う?」ということです。 思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。 長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。 今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。 そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。

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