仏の教えって伝わりづらいものですか?
最近、仏教について勉強しています。
座禅の仕方や四法印の意味など、知れば知るほど『なるほど』と、思うことが多く、大変勉強になっています。
私にとって特に影響力があったのが、小池龍之介先生の考えない練習です。
心の扱い方や感覚に意識を向けることなど、試してみたところ集中力ものびたし悩みもずいぶんと減りました。
仏の教えは、心の教育にすごく役立つと思ったのですが、私の個人的な実感としては、今の日本にはあまり広まっていないような気がします。
これは、個人の興味の有無の問題なのですが、仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか?
先生方の実感としては、どのようなところに伝わりにくさがあると思いますか?
自分の弱さへの意識。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
伝わりやすくもあり、伝わりにくくもあり
G太郎さま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
G太郎さんは仏教に興味を抱いて、いろいろ勉強なさっているのですね。若い方が仏教に興味を抱いてくれることを、とても嬉しく思います。
さて、「仏教」という言葉ですが、これは「仏の教え」という意味と、「仏に成る教え」というふたつの意味があります。
「仏の教え」は、お釈迦さまや諸々の仏さまの教えで、それを聞いたり学んだりすることができます。現代の日本人であれば、充分理解できるものだと思います。
それに対して「仏に成る教え」は、自分自身が仏(buddha=真理に目覚めた者)に成るために、どう歩んでいくべきかを示す教えです。明治以前は「仏教」という言葉はほぼ使われず、「仏道」と言いました。これも「仏に成る道」ということでしょう。
「仏の教え」に「諸行無常」とあります。
全ての物事はうつろいゆく。いのちであれば、終わりを迎えます。これは頭では誰でも分かることです。しかし大切な家族や親友が亡くなったら、「諸行無常」を頭では分かっていても、仏さまで無い身としては、嘆き悲しんでしまいます。
頭で分かることと、腑に落ちることの違いだと、私は考えています。
ですので煙に巻くような答えになってしまいますが、伝わりやすくもあり、伝わりにくくもあり、とお答えいたします。
仏教だと思われてしまっているところが一番の問題
たとえば仏教の教えでなくとも、キリスト教の教えであっても学校教育や企業の教えであっても、優れた教えはシェアされるべきなのです。
たとえば、優れた製品だってシェアされるからそれによって、電化製品や工業製品が普及して、生活が物質的に豊かになるわけです。
精神的に豊かになるためには仏教の教えをどんどん広めればいいのですが、私たちがキリスト教の教えやイスラム教の教えを積極的にシェアしているか、といえば微妙なのではないでしょうか?
それと同様な事が、仏教に対しても起こっているのではないでしょうか。
ですから、仏教が極力、仏教の肩書をなくして、多くの方に教えのエッセンス的な所が広まればよいのです。仏教の教えは、仏教の言葉を使わずしても伝える事が出来るからです。
あ、(^<^;)一応、それをやっているつもりです。
やはり仏教語を多用いたしますと、仏教という一種の宗教と思われてしまうようなので。質問者様もどうか、良い教えを広めるべく、ご協力をよろしくお願いいたします。
こちらhasunohaの代表の井上さんや浦上さんが起こされた「ぶっちゃけ寺」などで今後、仏教が一般の方々に広まっていく機会がどんどん増えていくと思います。
僧侶の問題
おっしゃる通りで仏教はとても素晴らしい教えです。
仏様の智慧はとても魅力的なものです。
しかし今日の日本であまりそれが浸透していないのは、私は私の責任だと思っています。
僧侶の怠慢が大きな問題です。
以前、小池龍之介さんの講演を聞きましたが、同様に僧侶に危機感を感じておられました。
勿論、ここで答えてらっしゃる僧侶の方々はそうではないと思いますが、、
今の世間一般の好感度は【仏教>寺>僧侶】の順番に下がっていくようです。
本来とても魅力的な教えなのに、それを信仰しお伝えする僧侶に魅力が乏しいという悲しい現実があります。
個人的には伝わりにくい教えだとは思っていません。
仏教は決してむちゃくちゃな教えではありませんし、とても温かく優しい宗教です。
仏法が伝わっていく邪魔をしているのが僧侶なのかもしれません。
日本人は宗教に「寛容」?それとも「ルーズ」?
はじめまして。亀山純史と申します。仏教の教えが伝わりづらいとのことですが、もちろん、私たち僧侶の怠慢は大きいと思います。(この点については他の方が回答されておりますので、割愛させていただきます。)ただ、それだけではないかもしれない、と感じるところがあり、今回、回答させていただきます。
私たち日本人は、どうも宗教に対してよく言えば「寛容」、悪く言えば「ルーズ」であると思います。私たち日本人の多くが、まず、子供が生まれれば、神社へお宮参りに行きます。10月の月末にはハロウィンで騒ぎ、12月にはクリスマス、大晦日にはお寺に行って除夜の鐘、正月になれば、神社へ初もうで、そして結婚式は教会か神社で、でも葬儀はお寺で、といった感じですよね。このように、日本人は宗教本来の役割とでもいうべきものに対して、あまり関心を払わないのではないでしょうか。そしてそれが仏教の教えが伝わりづらいことの要因の一つではないかと思うのです。
なお、東日本大震災における日本人の行動に対して、フランスの新聞の特派員は、「おそらく、信者であろうとなかろうと、仏教の教えは日本人の心情にしみ込んでいる。それがゆえに、不可避の出来事を冷静に受けとめることができるのではないだろうか。…日本人ならば「諸行無常」の考えは子供の頃から知っているのである。」と分析していました。そうだとするならば、「仏教の教えは伝わりづらい」と悲観的にならなくてもいいのかもしれない、と考えたりもします。(もちろん、それにあぐらをかいていてはいけませんが…)
ともあれ、私自身も僧侶の端くれとして頑張っていきたいと思っています。ご質問、ありがとうございました。
「梵天勧請」
G太郎様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教を修習頂けますこと、誠に尊く有り難いことでございます。
「仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか?」・・はい、ございます。
このことに関して釈尊成道後における一つのエピソードがございます。それは、「梵天勧請」という出来事でございます。
菩提樹下にてお悟りを開かれた釈尊は、その悟りの内実に関して、涅槃の境地を静かに喜び、このまま更に深い禅定に入って、もはや再び迷い・苦しみの世界に生まれ現れることのないように、この世界から完全に解脱しようと考えられたと伝えられています。
また、この涅槃へと至るための深遠なる教えについて、例え説いたとしても、誰にも理解してもらえないのではないかと考えられて、教えを説くことを躊躇されたと言われています。
このように釈尊が教えを説かれることを躊躇なされていた時、梵天が現れられて、「そのすばらしい涅槃へと至るための道を衆生にも大いに説き、迷い・苦しみから衆生を救済して下さい」と、三度も勧められたと伝えられています。
この梵天からの勧請を受けて、釈尊は、その慈悲の御心と共に、涅槃へと至る道を衆生に説くことを決意され、いよいよ仏教が始まるのであります。
釈尊が教えを説かれることを躊躇なされた真意の一つとして考えられるのは、仏教は対機説法、方便を用いる教えであり、説く対象となる相手の悟りへと向けた機根に応じて(理解できる能力に合わせて)、説かれるものであって、一般的な教えとしてはある意味で成り立たないものもございます。それが故に、ある者に説いた教えが、別の者に対して適用できるかどうかは非常に難しく、かえって誤解や混乱を生じさせてしまい、益にならないかもしれないと考えられたのではないかと存じます。
もちろん、四法印や空、縁起などの代表的な教えは一般的なものとして挙げることもできますが、それでもやはり解釈においては、かなりの相違や範囲の広がりが見られます。なかなか統一した見解としては決定されにくいというのにも、やはり上記の理由があるからではないかと思われます。
伝わりにくい実感というものにつきましては、結局は機根を見極める拙生の力量不足、方便力の拙さによるところであり、誠に申し訳ないことであると日々反省致しております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
僧侶の方々、不躾な質問にお答えくださりありがとうございます。
在家ものながら、私も身近にいる悩んでいる人に、役立つ仏の教え伝えてみようと思います。