仏教の教えと座禅
心が強くなれそうと言う単純な理由で、座禅を始めました。
始めて見たら、座禅より、仏教の教えを勉強する方が、心のささえになるのではと思うようになり、座禅の意味が良く判らなくなりました。
座禅は、仏教の教えのひとつなのか?
仏教の教えと、座禅は、同列でどちらも仏教の修行なのか?
座禅で悟りを開いたものが、仏教の教えも理解出来るようになるのか?
仏教の教えを理解したものが、座禅で悟りを開けるのか?
初歩的な質問で凝縮ですが、教えて頂けますでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
教えはカーナビ、修行(坐禅)は運転
仏教は3つの修行から構成されます。戒・定(じょう)・慧(え)の三学(さんがく)です。このうち禅定(ぜんじょう)が瞑想や坐禅のこと、慧学(えがく)が経論の勉強にあたります。つまりどちらも大切な修行なのですね。特に禅定についてはお釈迦さまはこうおっしゃっています。
>瞑想あれば智慧生じ
瞑想なければ智慧滅す
生じることと滅することの
この二種の道を知り
智慧が増大するように
自己を確立するがよい
(片山良一『法句経』第282偈、大蔵出版)
これは経論の勉強は熱心にしたけれども、自ら苦を離れようとする心がなかった長老についてお釈迦さまが説かれたものです。坐禅は苦を離れることの実践であり、実践に裏付けられていない口先の知識では、かえって悟りから遠ざかるとおっしゃっているわけですね。
これは誰もが一度は迷うところなのですが、悟りとは何か素晴らしいものを得ることではありません。余分なものを全て手放した時、悟りだけが残ります。これを仏教語で『無所得』と言います。般若心経にも出てきます。
勉強することは得ることです。所得です。所得で悟りをイメージすることができたとしても、自分が悟りになることはできません。東京に行くには次のジャンクションを左に行けば良いんだなと分かって安心しているだけで、全く東京に近付いていないようなものです。それで一時的に明るい気分になることはあるでしょうが、実は長い目で見れば全く救われていないのです。
さて、喧嘩にならないようにちょっとフォローせねばなりませんが、坐禅はともかく禅定要素の無い宗派はありません。坐禅や瞑想といっても色々あるのですが、禅定はより広い言葉になります。
禅宗は坐禅、密教は止観です。念仏も歴史的に言えば大昔はブツブツ言いながら瞑想をしていた系統になります。黄檗宗(おうばくしゅう)はこの念仏禅の宗派と習いましたが、実際に見たことはありません。
逆に禅宗でも十佛名や短縮バージョンの略三宝、歎仏のように念仏に近いお唱えごとをします。
また、大脳生理学の方では写経も読経や坐禅と同じ効果がでたという調査結果があるそうですので、そういった視点からは同じであると言えます。ただ、より瞑想的な読経(読誦)や勉強に近い看経(かんぎん)、懺悔としての読み方など、いろいろ意図目的に合わせた読み方があるのですが、それはもっと先の話ですね。
修行とは何かを知らなければ修行にならない
世間一般でいう、仏教を学ぶということは、知識を増やすというだけのことこれは修行ではないということです。
知識をいくら増やしても救いはありません。
実践してそこで、気づくことがあるのです。それが坐禅であり修行となります。
しかし、闇雲にただ座っていても救われません。座り方を知り、本当の修行とは何かを知る必要があります。がまん大会ではないのです。自分勝手な解釈ではいけないのです。
そのために経典があります。
しかし、これもまた自分勝手な解釈をしている方がたくさんいるので、本を読んでも間違った方向に進んでしまうこともあります。
心の底から信じられる正師との出会いが必要になるでしょう。
座禅をしない宗派もあります
日本仏教の伝統的な宗派だけでも13ありますし、数が多い宗派を数えても、7くらいの宗派はあると思います。
座禅を重視するのは、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の禅の系統の宗派です。
浄土真宗は「南無阿弥陀仏」を称える以外の一切の修行を必要としませんので、座禅はやりません。
仏教のなかにもいろいろ宗派があって、座禅を重視する宗派もあれば、座禅をしない宗派もあるということです。
ただ、私は思うのですけどね。
浄土真宗でも「勤行」はやるのですよ。
いろいろな作法があって、お経、偈文、和讃等に、節をつけて称えます。
簡易な作法でも15分くらい、通常の作法だと30分くらいかかると思います。
お寺の本堂に正座して(正座が無理な人は椅子を使ってもよい)、みんなで勤行する行為は、「効果」としては、座禅に近い効果があるんじゃないだろうか?
と私は思っています。
禅定も全体のバランスの中での一つの修行
平安な心様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
龍樹(ナーガールジュナ)大師が、そのご著書「宝行王正論」にて、六波羅蜜の、布施・持戒を「利他」、忍辱・精進を「自利」として、そして、禅定・智慧を「解脱」に分類されておられ、このうち、坐禅(瞑想)は、禅定のカテゴリーに入り、坐禅(瞑想)も悟りへと向けた一つの修習として大切なものとなりますが、悟りへ向けては、それだけでは不十分であり、自利と利他の円満な修習、そして最終的な悟りへの智慧も必要なものとなります。
どうしても釈尊がお悟りを開かれた際における菩提樹下における最後の禅定・坐禅(瞑想)のイメージが強いため、禅定・坐禅(瞑想)をことさらに重視してしまうところがありますが、それまでの自利・利他の下地があってというところも、しっかりと理解しておきたいところとなります。
また、禅定・坐禅(瞑想)の中では、何も思わない、何も考えない、という「無想無念」、「無思無観」の「無分別知」こそが悟りだとする極端、偏見となる誤った主張も散見されることがありますので、それは注意が必要となります。
とにかく、智慧と福徳(方便)の円満な成就へと向けて、禅定もしっかりと全体のバランスの中での一つとして修習致して参りたいという感じでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様さま
たくさんのご回答ありがとうございます。
感謝いたします。
もっともっと、仏教の教えを学び、実践していくことが必要と理解しました。
迷った時は、ここで質問させて頂きながら、焦らず、一歩づつ、歩みを進めて行きたいと思います。
合掌