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仏教の教えと座禅

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心が強くなれそうと言う単純な理由で、座禅を始めました。

始めて見たら、座禅より、仏教の教えを勉強する方が、心のささえになるのではと思うようになり、座禅の意味が良く判らなくなりました。

座禅は、仏教の教えのひとつなのか?

仏教の教えと、座禅は、同列でどちらも仏教の修行なのか?

座禅で悟りを開いたものが、仏教の教えも理解出来るようになるのか?

仏教の教えを理解したものが、座禅で悟りを開けるのか?

初歩的な質問で凝縮ですが、教えて頂けますでしょうか?

2016年10月8日 23:00

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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

教えはカーナビ、修行(坐禅)は運転

仏教は3つの修行から構成されます。戒・定(じょう)・慧(え)の三学(さんがく)です。このうち禅定(ぜんじょう)が瞑想や坐禅のこと、慧学(えがく)が経論の勉強にあたります。つまりどちらも大切な修行なのですね。特に禅定についてはお釈迦さまはこうおっしゃっています。

>瞑想あれば智慧生じ
瞑想なければ智慧滅す
生じることと滅することの
この二種の道を知り
智慧が増大するように
自己を確立するがよい
(片山良一『法句経』第282偈、大蔵出版)

これは経論の勉強は熱心にしたけれども、自ら苦を離れようとする心がなかった長老についてお釈迦さまが説かれたものです。坐禅は苦を離れることの実践であり、実践に裏付けられていない口先の知識では、かえって悟りから遠ざかるとおっしゃっているわけですね。

これは誰もが一度は迷うところなのですが、悟りとは何か素晴らしいものを得ることではありません。余分なものを全て手放した時、悟りだけが残ります。これを仏教語で『無所得』と言います。般若心経にも出てきます。
勉強することは得ることです。所得です。所得で悟りをイメージすることができたとしても、自分が悟りになることはできません。東京に行くには次のジャンクションを左に行けば良いんだなと分かって安心しているだけで、全く東京に近付いていないようなものです。それで一時的に明るい気分になることはあるでしょうが、実は長い目で見れば全く救われていないのです。

さて、喧嘩にならないようにちょっとフォローせねばなりませんが、坐禅はともかく禅定要素の無い宗派はありません。坐禅や瞑想といっても色々あるのですが、禅定はより広い言葉になります。
禅宗は坐禅、密教は止観です。念仏も歴史的に言えば大昔はブツブツ言いながら瞑想をしていた系統になります。黄檗宗(おうばくしゅう)はこの念仏禅の宗派と習いましたが、実際に見たことはありません。
逆に禅宗でも十佛名や短縮バージョンの略三宝、歎仏のように念仏に近いお唱えごとをします。
また、大脳生理学の方では写経も読経や坐禅と同じ効果がでたという調査結果があるそうですので、そういった視点からは同じであると言えます。ただ、より瞑想的な読経(読誦)や勉強に近い看経(かんぎん)、懺悔としての読み方など、いろいろ意図目的に合わせた読み方があるのですが、それはもっと先の話ですね。

2016年10月9日 1:00
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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

修行とは何かを知らなければ修行にならない

世間一般でいう、仏教を学ぶということは、知識を増やすというだけのことこれは修行ではないということです。
知識をいくら増やしても救いはありません。
実践してそこで、気づくことがあるのです。それが坐禅であり修行となります。

しかし、闇雲にただ座っていても救われません。座り方を知り、本当の修行とは何かを知る必要があります。がまん大会ではないのです。自分勝手な解釈ではいけないのです。
そのために経典があります。
しかし、これもまた自分勝手な解釈をしている方がたくさんいるので、本を読んでも間違った方向に進んでしまうこともあります。

心の底から信じられる正師との出会いが必要になるでしょう。

2016年10月9日 7:13
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座禅をしない宗派もあります

日本仏教の伝統的な宗派だけでも13ありますし、数が多い宗派を数えても、7くらいの宗派はあると思います。
座禅を重視するのは、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の禅の系統の宗派です。

浄土真宗は「南無阿弥陀仏」を称える以外の一切の修行を必要としませんので、座禅はやりません。

仏教のなかにもいろいろ宗派があって、座禅を重視する宗派もあれば、座禅をしない宗派もあるということです。

ただ、私は思うのですけどね。

浄土真宗でも「勤行」はやるのですよ。

いろいろな作法があって、お経、偈文、和讃等に、節をつけて称えます。
簡易な作法でも15分くらい、通常の作法だと30分くらいかかると思います。

お寺の本堂に正座して(正座が無理な人は椅子を使ってもよい)、みんなで勤行する行為は、「効果」としては、座禅に近い効果があるんじゃないだろうか?

と私は思っています。

2016年10月8日 23:11
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浄土真宗、真宗大谷派です。

禅定も全体のバランスの中での一つの修行

平安な心様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

龍樹(ナーガールジュナ)大師が、そのご著書「宝行王正論」にて、六波羅蜜の、布施・持戒を「利他」、忍辱・精進を「自利」として、そして、禅定・智慧を「解脱」に分類されておられ、このうち、坐禅(瞑想)は、禅定のカテゴリーに入り、坐禅(瞑想)も悟りへと向けた一つの修習として大切なものとなりますが、悟りへ向けては、それだけでは不十分であり、自利と利他の円満な修習、そして最終的な悟りへの智慧も必要なものとなります。

どうしても釈尊がお悟りを開かれた際における菩提樹下における最後の禅定・坐禅(瞑想)のイメージが強いため、禅定・坐禅(瞑想)をことさらに重視してしまうところがありますが、それまでの自利・利他の下地があってというところも、しっかりと理解しておきたいところとなります。

また、禅定・坐禅(瞑想)の中では、何も思わない、何も考えない、という「無想無念」、「無思無観」の「無分別知」こそが悟りだとする極端、偏見となる誤った主張も散見されることがありますので、それは注意が必要となります。

とにかく、智慧と福徳(方便)の円満な成就へと向けて、禅定もしっかりと全体のバランスの中での一つとして修習致して参りたいという感じでございます。

川口英俊 合掌

2016年10月9日 8:28
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川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

禅語を学んでみては?

臨済宗の僧侶です。お釈迦様は悟りを開いた際に坐禅をされていました。この事から禅宗では坐禅を重視します。ちなみに縁起もので知られるダルマさんは禅宗の始祖と崇められる達磨禅師の九年に及ぶ坐禅の末に手足が壊死した姿と言われています。禅の教えでは己を坐禅により調え磨いて己を拠り所、支えとする事を目指します。
坐禅は仏教の修行の一種です。坐禅の基本的なテーマは身体と呼吸と心を調える事にあります。そして、最終的なテーマは自我からの解脱です。私達の苦しみの根本は自我によるものです。これは自分のもの、あれは他者のもの。こうやって線引きする事で執着が生まれ、苦しみが生まれます。そこから解脱することで安心を得るための方法が坐禅です。私自身は一年ほどしか修行していないので偉そうな事は言えませんが、長い時間坐禅していると、たまに自分と周りとが一体化(境界線がなくなる)するような感覚になる事があります。これが自我からの解脱の始まりではないかと感じています。
質問者さんの心を強くするという目的にはそぐわないかもしれません。ただ坐禅を通して悟りに近付けば、強くなる必要もないのではないでしょうか。結論だけ言うと仏教を勉強せずとも坐禅だけで悟りを得る事は出来ると思います。しかし、質問者さんの目的はそこではないと思います。質問者さんの言われる心の支えには禅語はいかがでしょうか?良い言葉がたくさんあります。

2016年10月9日 8:10
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臨済宗寺院の住職です。皆様の良き御縁となる事が出来れば幸いです。

質問者からのお礼

皆様さま

たくさんのご回答ありがとうございます。
感謝いたします。

もっともっと、仏教の教えを学び、実践していくことが必要と理解しました。

迷った時は、ここで質問させて頂きながら、焦らず、一歩づつ、歩みを進めて行きたいと思います。

合掌

「仏教全般」問答一覧

「師匠無しは外道です。仏教は世界を救うためにあります」

坐禅会で副住さんと二人きりだった。 気候に依るか、今日は二人だけという縁に依るものであったのか、僕がムカつく顔をしていたのか…なるようにして、そうなったのでしょうが…。 会話量は僕が2、お坊様が8くらいでした。法話聞きに行ってるので。 風の吹き方一つで虫の居所も変わるでしょうし…なるようになったのか? 「山には色んな入口と登り方があり、諸宗教も同じですよ。」 僕「山なんて本来無いのでは?」 「貴方と話してるとウンザリするんですよ…こう言うのも面倒くさいんです(半笑い)」 「えっ」 突然だったので驚きました。これは何らかの方便なのでしょうか? 縁が整った故の個人的な考えですが、神様には個々人の内に誕生日があって、各々が見聞していく中で神々の造形や威光が深められていき、その信徒が己の生み考えた偶像にひれ伏すようになっていく。そういった一切は縁起に依り、各々が思うように仕立て上げていると気付くために坐禅等の諸行によって三昧、思い込みの縄を解き、無自性=縁起に気付き、よくよく見極めていく。 「自覚」縁起の教えが仏教。そこが諸宗教と一線を画する所では? と考えています。 そう思える縁が整っただけですが…。 上記のような屁理屈だって蹴倒れる程に悲しい。 因縁仮和合云々並び立てても殴られりゃ痛いし、彼の軽蔑は悲しい。 それで心相続していって変遷していく。 またその場の気分も風の吹き方一つで変わるので、次はお寺に行くかもしれないし、行かないかもしれない。嵐か地震が来るかもしれないし、実際は考えに依ってくれないし。 世界を救うって何を…? 僕「師がいなくて外道なら、在家信者は外道ですか?」 「師ならそこらじゅうのお寺にいるでしょう。 解釈に囚われているから、そういった考えになるんです」 僕「はい」 「ウチは檀家100件を超えておりますが、法事をして救いもして、救いもしない事が救いになる事もありますよ」 「師について学ばないとオウムと変わりませんよ。空だから〇してもいいっていう」 僕「え?(なんで突然オウム?そもそも誰かを〇すなんて)」 彼が気に入るだろう答案を提出できる縁に僕は恵まれなかった。 痛い位に今日の彼から伝わってきたのはもう僕に二度と会いたくないってこと。 僕が出来るのって出来る限り接する人に親切にしていこうと願う事位。 世界を救うって何?彼の真意は何でしょう?

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仏教では女は差別されるのですか?

初めて質問させていただきます。 ここ3年神仏に惹かれて近くのお寺にお参りなどさせていただいているのですが仏教では女だと差別される、等など聞いてしまい、ネットなどで見てみたらそんな話が色々書いてありました。 例えば女だと成仏出来ない、女は汚れているだの書かれていました(泣) 本当にそんな差別などお釈迦さまやお不動さま、そしてお坊さんがするのか知りたいです。 そんな事を仏さまは思ったりしていないと思うのですが… 女だと汚れているからと思っているお坊さんはこの時代いるのでしょうか? もし、本当にお釈迦さまやお不動さま、そしてお坊さんが思っていたらお 参りすることって出来ないですよね…? 悲しい事が書かれていたので凄く落ち込んでいます… 今まで一生懸命感謝の気持ち、これからもよろしくお願いしますと手をあわせていたのが意味もないんだと思ってしまいました。 実際、以前土俵に女性が上がったのが問題になったのがありましたよね? (土俵は神社系だと思いますが) なので、結局神仏どちらも女性軽視になるのですか? 神社で女性の神主さんは見たことがあります。 仏教はどうなのでしょうか? お釈迦さまやお不動さま、そしてお坊さん達は実際本当に女性軽視なのですか? 子供を産むのは女性なのに悲しいものを読んでしまいショックです。

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