命の意味

教えてください。

私は二年ほど前から不安障害を患っています。

何かと挑戦はしてきたのですが、中々良くなりません。

そして色々考えます。命に意味はあるのでしょうか。

不安障害が良くなったとしても、老いてまた他の病気、事故などで、苦しみ死んでゆく。

スピリチュアルな考えでは、人は自ら望んで生まれ、望んだ人生を歩んでいるとか。

幼くして、天災、人災、病気などで、悲惨極まりない運命を辿る人間が実在します。

悲惨極まりないと捉え、運命に抗おうとする心がエゴで諦めるというのが仏教なのですか?

僕は馬鹿で我が儘でどうしようもない人間です。

良い年をして皆が最低限幸せに生きられたらなんて幻想を抱いています。

こんな考えを抱くのも恵まれた環境で育ったからだとおもいますが。

宇宙は何故人に心を持たせたのでしょう。

偶然の産物なのですか?

何故と問うことにすらもう意味はないのですか?

気にしすぎだと言われます。不安障害だからかもしれません。しかし、この問題を乗り越えないと私は心から笑えません。目を背けても何れ死は訪れる。

有り難し 37
回答 6
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

畢竟じて 何の用ぞ? 

大変、立派な結論です。
考え・思考で答えを出そうとする姿勢自体が間違った解決方法であるということをあなたは悟りつつあるという事です。
偉大な哲学者であっても、悟りを得られないのは、その者が知を愛することにとどまって脳の状態が❝思考❞をしている状態だからなのです。
だから、まずあなたは、その思考のペダルをいくらこいでも救われなかったのだから、求め方を変え、意味づけ、思考に生きる事を止めさえすればよいのです。
私もかつて思想、哲学の限界を感じ、知のペダルをこぐことを止めました。
いくら、ご立派な哲学、理論でも、それが思考・思量のペダルをこいでいる以上、救われは無いのです。だから禅僧は思考ではなく坐禅をする。
だから釈尊も道元禅師も思考を捨て、事実を見てゆくこと禅定・非思量によって、悟りを得られたわけです。悟り・涅槃という脳の状態は、思考の状態ではないのです。
もし仏教を学ぶにしても、哲学を学ぶかのように、自分の真相にまるで目を向けず、外の事・学問のようなものと錯誤して知識をためていくような仏教の学び方をしていれば、僧侶でも悟りには至れません。
よって、思考を離れる事で、はじめて人間は事実をみることができて、救われるのです。
思考を離れるとは、考えの世界に生きることを止め、思考以前の事実を生きることです。この所を道元禅師は、非思量と示されました。

道元禅師が中国で経典を学んでいたところ、中国の禅僧が問いかけました。
僧侶「二ポンの若い僧ヨ、オマエはナンの為にブッキョーの本読んでばかりいるアルカ?」
道元「国に帰って人を救いたいのです」
僧「ソレ何の為アルカ?」
道元「…多くの人が救われればいいかと…」
僧「…ソレ何の為アルカ?」
道「…う。」
僧「畢竟じて、何の用ぞ?(結局、何の為アルカね?)」
道「…」
この答えは「何の為に?」にカッコいい理屈を持ってこいよという事ではありません。
理由付けをやめて真実に目覚めよという事です。
➡道元 畢竟じて何の用 でご検索。

思考・理屈を超越・離れて、事実を生きれば誰でも、考え以前の世界=悟りに到達するのです。この理屈を知っても、それでも人の多くは、知を愛すことを選択するから迷いつづける、という事を忘れないでください。
また、突っ込んで質問してみてください。

2年9ヶ月前

祈りを楽しむ。

むかしのおぼうさんに「南天棒」というひとがいます。
小生、掛軸が好きですが、この南天棒さんの軸のひとつに
「積み積みし ゆきのだるまも 日かぞえて
  いずく行くらむ あとかたもなく」
というものがあります。可愛い雪だるまの絵入りの軸です。

小生も経験があります。冬の日、雪がほんのわずかに
積もった日でも、雪を丸めて、すこしづつ大きくして、
汗だくになって、おまけに風邪まで引いて、それでも、
雪だるまを懸命になってつくった事を、いまも鮮明に
思い出します。

近所の子供達がうちのお寺の駐車場で、ゆきだるまを
つくっている姿を見るに、「おんなじだなあ」と
つくづく思います。

でもはっきりいって「無駄事」です。
南天棒さんも言ってます。いづれは消える。
ではなぜ、懸命になって、無駄事をするのでしょう?
汗だくになって、風邪までひいて、
そのうち雪だるまをつくったことすらも、忘れて遊んで。
でもまたゆきがふったら丸めて丸めて。

小生は思います。楽しむためなんだろうなあと。
今という瞬間を楽しむ。無駄事を楽しむ。
苦しいを楽しむ。

今のわたしに与えられているすべてをもって、
楽しむ。出来うる限りにおいて。

そして思うのです。「またあしたも遊びたい!」
この「明日を思う祈り」こそが、あなたが仰る
「みんなの幸せ」とも繋がるのです。
「みんなに幸せな明日がくるように」
たとえ来なかったとしても、そのときはまた祈る。
だって、みんな明日のことはわからないんだから。
分からないから「どうかみんなさちあれ、さちあれ」
と祈るのです。さちとはよろこび、楽しみとも
言えるでしょう。みんなに喜びが、みんなに楽しみが
ありますように。
わたしは、あなたのそのいのりひとつがなによりの
「いのちの意味」だと思います。
そうやって、誰かが思いやってくれるから、
一寸先わからない不安な世界にも
「明日」がやってくる、と思うのです。
あなたの祈りがだれかの楽しみになるかもしれない。
無駄事になるかもしれない。
それでも、やらなければなにも起きない。
あなたのご不安が少しでも軽くなりますよう、
小生もまた祈ります。安らかであれ。幸あれ。合掌

2年9ヶ月前
回答僧

円通寺

邦元

人に心はありません

人が生きる意味、それは、生きている人が勝手に意味を考えているだけだと思います。命を与えられこの世に存在したものは、命の最後まで全うする。そして命を継承していくのです。

日本人はよく、人には心があると考える ときいたことがあります。どこにあるの?胸のあたり。それは心臓。
人が思うことは、すべて脳の働き。妄想です。
脳で考えることは自由自在。過去未来好き勝手に旅に出かけます。不幸にも幸せにもなれます。不安は未来を頭で考えている状態。いま、現在、困っていることはないのに、脳が旅を始めるのです。
幸せな生活は、「今」から、脳が離れることなく。その中で生かされ呼吸し、存在していることに、感謝することではないでしょうか。

追記

私自身体得しているわけではなく、頭でっかちでおりますので、的確にお応えできず、申し訳なく思います。
しかし、世界中の人が坐禅に出会い実践できたら、戦争なんかなくなるのではないかと考えています。
私は実践でしか分からないこと、人に語れないことがあるのだと思っています。日々精進してまいります。

2年9ヶ月前

命とは、生かそうとする因縁の総称

命という字は命令の命です。誰かが誰かに何かをさせること。
宇宙全体のバランス調整の都合により、あなたに生きてもらう必要があるのでしょう。
宇宙が、あなたを死なせないようにしているのです。
命を、寿とも言いますね。
死が成立するのは、寿と煖と識が離れたときだと昔の仏教書にありました。
たとえば人が死ぬときに、足先から寿と煖と識が離れたら、足先の死が成立します。
で、私は、寿(命)とは、宇宙が足先を生かそうというあらゆる因縁・外的要因だと思います。
で、煖とはぬくもり、つまり、足の細胞自身が持っているエネルギー。
識とは、認識・心ですね。
足先を、あなた自身に置き換えてみましょう。
あなたを生かそうとするあなた以外の存在があります。(寿命)
あなた自身の肉体にエネルギーがまだあります。(煖)
肉体のすみずみにあなたの認識ソフトがインストールされ動いています。(識)
困ったことに、まだ、死の条件がそろっていないのです。
特に寿命がやっかいで、宇宙にとって、まだあなたに生きてもらったほうが都合いいのかもしれませんね。

2年9ヶ月前

「命」のありようについて

だみや様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「命」・・本当に不思議ですよね・・

一つ言えるのは、命がある、生きているということは、色々なモノ・コトに支えられて、助けられているということでもあります。

私たちはとても自分自身だけで命を存続させること、紡いでいくことができません。他者の存在があり、無数の関係性の中において支えられ、助けられて、生かされることによって私たちはそれぞれ何とか成り立っています。

それは、また、あなたも、誰かの支えになり、助けにもなれるということでもあります。

他者の存在無しでは存在、存続し得ないこの世界のありようを仏教では「縁起」によって成り立っていると説明致します。

また、だみや様は、悲惨な事故や天災、戦争、貧困等により苦しみ、つらい立場にある方々のことをご心配なされておられて、憐れみて、「皆が最低限幸せに生きられたら」ということまでお考え頂いておりますこと、仏教における大切とする「慈悲」のお心でございまして、誠に有り難いことでございます。

そして、その慈悲心により、何とか苦しみにある者たちが救われていくように、何らかのできることで支え、助けになって頂けましたら尚更に有り難く尊いこととなります。

「命」の意味は、もちろん、人それぞれの価値観によっても違うものになるでしょうが、ただ言えるのは、支え、助けというご縁が調わないと命を存続させることなど到底できないものであり、それを知ることによる謙虚さや感謝報恩の気持ちを養うことで、全ての「命」のありようについても思いをめぐらしつつ、困っている者や苦しんでいる者がいれば、何かできることで支え、助けとなり、また己も困っている時や苦しい時には支えられ、助けられて生きていけることになる。まずこのことに気づくことから、またその深い意味については、是非仏教について色々と学び修習されていかれる内において改めて少しずつ共に考えて参りましょう。

「不安」につきましては、下記の各問いの拙回答もお時間のある時にまたご参照頂けましたらと存じます。

「不安・恐怖について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_321055.html

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

2年9ヶ月前
回答僧

崇興寺

釈心誓

お釈迦様は「無我」と説かれます。

「私」「心」「魂」など自分を証明するものをアートマンといいます。
お釈迦様は「私たちにはアートマンは無い」と説かれます。
それを「無我」と言います。
本来は無我であるけども、アートマンがあると勘違いをして生きているのが私のようです。

命の意味ですが、これは道徳や一般常識では答えはでません。
しかし仏教はお釈迦様が悟られた真理ですから明確に命の有り様を説いています。
仏教は輪廻を説きますから、私の命は輪廻をしてきた命だと教えられます。
虫だったり、天人だったり、地獄の住民だったり、過去世はさまざまです。
ずっと輪廻を繰り返してたまたま今人間に生まれているのです。
だから今の命だけを見ても意味は分かりません。
朝の連ドラを一話だけ見ても意味が分からないのと同じで、過去世や来世を無視して、現世だけで答えを出そうとしてもそれは無理なのです。

仏様は全て見通して「一切皆苦」だとおっしゃいます。
輪廻を繰り返しているのは苦しいですから、早く解脱して仏になりなさいとお説き下さいます。

「私の命の意味が分からない!」と悩み苦しむのが私たちの在り様です。
本来ない「アートマン」を持っていると勘違いし、その意味をひたすらに突き詰めようとして挫折して死んでいきます。
それでは人生は勿体ないのです。
「無我」と聞いて「輪廻」していると聞いて、そこから解脱する道を聞きましょう。
仏になる道を聞けば必ず慶びが生まれます。

2年9ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

ご返答有難うございます。
なるほど、生きる意味は人間が勝手に作り出したものだということですね。
ではなぜ心のない人間が命を全うし、感謝する必要があるのでしょう?
幸せを希求する存在はなんなのでしょう?
今現在困ったことはないと仰いますが…それは心がないからでしょうか。
それが仏教の教え、苦しみを無くすということでしょうか。

邦元様、釈心誓様有難うございます。
なぜ人間はアートマンがあると勘違いするように発達したのでしょうね。
なぜなぜ問うても仕方ないのでしょうが。

私は無我という単語に恐怖を覚えてしまいます。
元々ないと仰られても、自分が失われるような感じがしてしまうのです。

輪廻という言葉もよく聞きますが、私のような凡愚では、信じられないというのが正直なところです。

文句ばかりで申し訳ありません。

この自分が幻想に過ぎないものとするのに非常に抵抗を覚えてしまいます。怖くて仕方ありません。

河口様有難うございます。

私は自分勝手です。不幸な目に合っている人間が可哀想というよりも、いつか自分も同じ目に合いかねないという考えです。

不安、恐怖も目を通してみますね。

丹下様有難うございます。

以前も御回答頂いたと思います。

思考のペダルを漕がないで、感じるということが大切なのだろうと思い、瞑想など挑戦しているのですが、中々上手くいかず苦しくなってしまいます。

どんな言葉を並べても無駄だというのは何となく分かっているのですが、中々ネガティブな思考の癖から抜け出せずにいます。

何とか理解しないと、正しくあらないと、という考えが自らを追い込んでいるのはかんじているのですが。

星様有難うございます。

子供の頃の感覚というのは思い出す程に幸福だったと思います。
見えるもの感じるものが新鮮で、無心で何かをしていた。風邪をひいても肉体的に大変であっても、苦しいとはあまり感じなかったように思います。
その状態をもう一度取り戻したいです。

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