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命の意味

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有り難し有り難し 49

教えてください。

私は二年ほど前から不安障害を患っています。

何かと挑戦はしてきたのですが、中々良くなりません。

そして色々考えます。命に意味はあるのでしょうか。

不安障害が良くなったとしても、老いてまた他の病気、事故などで、苦しみ死んでゆく。

スピリチュアルな考えでは、人は自ら望んで生まれ、望んだ人生を歩んでいるとか。

幼くして、天災、人災、病気などで、悲惨極まりない運命を辿る人間が実在します。

悲惨極まりないと捉え、運命に抗おうとする心がエゴで諦めるというのが仏教なのですか?

僕は馬鹿で我が儘でどうしようもない人間です。

良い年をして皆が最低限幸せに生きられたらなんて幻想を抱いています。

こんな考えを抱くのも恵まれた環境で育ったからだとおもいますが。

宇宙は何故人に心を持たせたのでしょう。

偶然の産物なのですか?

何故と問うことにすらもう意味はないのですか?

気にしすぎだと言われます。不安障害だからかもしれません。しかし、この問題を乗り越えないと私は心から笑えません。目を背けても何れ死は訪れる。

2015年5月23日 10:53

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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

畢竟じて 何の用ぞ? 

大変、立派な結論です。
考え・思考で答えを出そうとする姿勢自体が間違った解決方法であるということをあなたは悟りつつあるという事です。
偉大な哲学者であっても、悟りを得られないのは、その者が知を愛することにとどまって脳の状態が❝思考❞をしている状態だからなのです。
だから、まずあなたは、その思考のペダルをいくらこいでも救われなかったのだから、求め方を変え、意味づけ、思考に生きる事を止めさえすればよいのです。
私もかつて思想、哲学の限界を感じ、知のペダルをこぐことを止めました。
いくら、ご立派な哲学、理論でも、それが思考・思量のペダルをこいでいる以上、救われは無いのです。だから禅僧は思考ではなく坐禅をする。
だから釈尊も道元禅師も思考を捨て、事実を見てゆくこと禅定・非思量によって、悟りを得られたわけです。悟り・涅槃という脳の状態は、思考の状態ではないのです。
もし仏教を学ぶにしても、哲学を学ぶかのように、自分の真相にまるで目を向けず、外の事・学問のようなものと錯誤して知識をためていくような仏教の学び方をしていれば、僧侶でも悟りには至れません。
よって、思考を離れる事で、はじめて人間は事実をみることができて、救われるのです。
思考を離れるとは、考えの世界に生きることを止め、思考以前の事実を生きることです。この所を道元禅師は、非思量と示されました。

道元禅師が中国で経典を学んでいたところ、中国の禅僧が問いかけました。
僧侶「二ポンの若い僧ヨ、オマエはナンの為にブッキョーの本読んでばかりいるアルカ?」
道元「国に帰って人を救いたいのです」
僧「ソレ何の為アルカ?」
道元「…多くの人が救われればいいかと…」
僧「…ソレ何の為アルカ?」
道「…う。」
僧「畢竟じて、何の用ぞ?(結局、何の為アルカね?)」
道「…」
この答えは「何の為に?」にカッコいい理屈を持ってこいよという事ではありません。
理由付けをやめて真実に目覚めよという事です。
➡道元 畢竟じて何の用 でご検索。

思考・理屈を超越・離れて、事実を生きれば誰でも、考え以前の世界=悟りに到達するのです。この理屈を知っても、それでも人の多くは、知を愛すことを選択するから迷いつづける、という事を忘れないでください。
また、突っ込んで質問してみてください。

2015年5月24日 0:08
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

祈りを楽しむ。

むかしのおぼうさんに「南天棒」というひとがいます。
小生、掛軸が好きですが、この南天棒さんの軸のひとつに
「積み積みし ゆきのだるまも 日かぞえて
  いずく行くらむ あとかたもなく」
というものがあります。可愛い雪だるまの絵入りの軸です。

小生も経験があります。冬の日、雪がほんのわずかに
積もった日でも、雪を丸めて、すこしづつ大きくして、
汗だくになって、おまけに風邪まで引いて、それでも、
雪だるまを懸命になってつくった事を、いまも鮮明に
思い出します。

近所の子供達がうちのお寺の駐車場で、ゆきだるまを
つくっている姿を見るに、「おんなじだなあ」と
つくづく思います。

でもはっきりいって「無駄事」です。
南天棒さんも言ってます。いづれは消える。
ではなぜ、懸命になって、無駄事をするのでしょう?
汗だくになって、風邪までひいて、
そのうち雪だるまをつくったことすらも、忘れて遊んで。
でもまたゆきがふったら丸めて丸めて。

小生は思います。楽しむためなんだろうなあと。
今という瞬間を楽しむ。無駄事を楽しむ。
苦しいを楽しむ。

今のわたしに与えられているすべてをもって、
楽しむ。出来うる限りにおいて。

そして思うのです。「またあしたも遊びたい!」
この「明日を思う祈り」こそが、あなたが仰る
「みんなの幸せ」とも繋がるのです。
「みんなに幸せな明日がくるように」
たとえ来なかったとしても、そのときはまた祈る。
だって、みんな明日のことはわからないんだから。
分からないから「どうかみんなさちあれ、さちあれ」
と祈るのです。さちとはよろこび、楽しみとも
言えるでしょう。みんなに喜びが、みんなに楽しみが
ありますように。
わたしは、あなたのそのいのりひとつがなによりの
「いのちの意味」だと思います。
そうやって、誰かが思いやってくれるから、
一寸先わからない不安な世界にも
「明日」がやってくる、と思うのです。
あなたの祈りがだれかの楽しみになるかもしれない。
無駄事になるかもしれない。
それでも、やらなければなにも起きない。
あなたのご不安が少しでも軽くなりますよう、
小生もまた祈ります。安らかであれ。幸あれ。合掌

2015年5月23日 23:31
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有り難し
おきもち

人に心はありません

人が生きる意味、それは、生きている人が勝手に意味を考えているだけだと思います。命を与えられこの世に存在したものは、命の最後まで全うする。そして命を継承していくのです。

日本人はよく、人には心があると考える ときいたことがあります。どこにあるの?胸のあたり。それは心臓。
人が思うことは、すべて脳の働き。妄想です。
脳で考えることは自由自在。過去未来好き勝手に旅に出かけます。不幸にも幸せにもなれます。不安は未来を頭で考えている状態。いま、現在、困っていることはないのに、脳が旅を始めるのです。
幸せな生活は、「今」から、脳が離れることなく。その中で生かされ呼吸し、存在していることに、感謝することではないでしょうか。

追記

私自身体得しているわけではなく、頭でっかちでおりますので、的確にお応えできず、申し訳なく思います。
しかし、世界中の人が坐禅に出会い実践できたら、戦争なんかなくなるのではないかと考えています。
私は実践でしか分からないこと、人に語れないことがあるのだと思っています。日々精進してまいります。

2015年5月23日 20:46
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有り難し
おきもち

お釈迦様は「無我」と説かれます。

「私」「心」「魂」など自分を証明するものをアートマンといいます。
お釈迦様は「私たちにはアートマンは無い」と説かれます。
それを「無我」と言います。
本来は無我であるけども、アートマンがあると勘違いをして生きているのが私のようです。

命の意味ですが、これは道徳や一般常識では答えはでません。
しかし仏教はお釈迦様が悟られた真理ですから明確に命の有り様を説いています。
仏教は輪廻を説きますから、私の命は輪廻をしてきた命だと教えられます。
虫だったり、天人だったり、地獄の住民だったり、過去世はさまざまです。
ずっと輪廻を繰り返してたまたま今人間に生まれているのです。
だから今の命だけを見ても意味は分かりません。
朝の連ドラを一話だけ見ても意味が分からないのと同じで、過去世や来世を無視して、現世だけで答えを出そうとしてもそれは無理なのです。

仏様は全て見通して「一切皆苦」だとおっしゃいます。
輪廻を繰り返しているのは苦しいですから、早く解脱して仏になりなさいとお説き下さいます。

「私の命の意味が分からない!」と悩み苦しむのが私たちの在り様です。
本来ない「アートマン」を持っていると勘違いし、その意味をひたすらに突き詰めようとして挫折して死んでいきます。
それでは人生は勿体ないのです。
「無我」と聞いて「輪廻」していると聞いて、そこから解脱する道を聞きましょう。
仏になる道を聞けば必ず慶びが生まれます。

2015年5月23日 21:12
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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

命とは、生かそうとする因縁の総称

命という字は命令の命です。誰かが誰かに何かをさせること。
宇宙全体のバランス調整の都合により、あなたに生きてもらう必要があるのでしょう。
宇宙が、あなたを死なせないようにしているのです。
命を、寿とも言いますね。
死が成立するのは、寿と煖と識が離れたときだと昔の仏教書にありました。
たとえば人が死ぬときに、足先から寿と煖と識が離れたら、足先の死が成立します。
で、私は、寿(命)とは、宇宙が足先を生かそうというあらゆる因縁・外的要因だと思います。
で、煖とはぬくもり、つまり、足の細胞自身が持っているエネルギー。
識とは、認識・心ですね。
足先を、あなた自身に置き換えてみましょう。
あなたを生かそうとするあなた以外の存在があります。(寿命)
あなた自身の肉体にエネルギーがまだあります。(煖)
肉体のすみずみにあなたの認識ソフトがインストールされ動いています。(識)
困ったことに、まだ、死の条件がそろっていないのです。
特に寿命がやっかいで、宇宙にとって、まだあなたに生きてもらったほうが都合いいのかもしれませんね。

2015年5月28日 0:02
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有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

「命」のありようについて

だみや様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「命」・・本当に不思議ですよね・・

一つ言えるのは、命がある、生きているということは、色々なモノ・コトに支えられて、助けられているということでもあります。

私たちはとても自分自身だけで命を存続させること、紡いでいくことができません。他者の存在があり、無数の関係性の中において支えられ、助けられて、生かされることによって私たちはそれぞれ何とか成り立っています。

それは、また、あなたも、誰かの支えになり、助けにもなれるということでもあります。

他者の存在無しでは存在、存続し得ないこの世界のありようを仏教では「縁起」によって成り立っていると説明致します。

また、だみや様は、悲惨な事故や天災、戦争、貧困等により苦しみ、つらい立場にある方々のことをご心配なされておられて、憐れみて、「皆が最低限幸せに生きられたら」ということまでお考え頂いておりますこと、仏教における大切とする「慈悲」のお心でございまして、誠に有り難いことでございます。

そして、その慈悲心により、何とか苦しみにある者たちが救われていくように、何らかのできることで支え、助けになって頂けましたら尚更に有り難く尊いこととなります。

「命」の意味は、もちろん、人それぞれの価値観によっても違うものになるでしょうが、ただ言えるのは、支え、助けというご縁が調わないと命を存続させることなど到底できないものであり、それを知ることによる謙虚さや感謝報恩の気持ちを養うことで、全ての「命」のありようについても思いをめぐらしつつ、困っている者や苦しんでいる者がいれば、何かできることで支え、助けとなり、また己も困っている時や苦しい時には支えられ、助けられて生きていけることになる。まずこのことに気づくことから、またその深い意味については、是非仏教について色々と学び修習されていかれる内において改めて少しずつ共に考えて参りましょう。

「不安」につきましては、下記の各問いの拙回答もお時間のある時にまたご参照頂けましたらと存じます。

「不安・恐怖について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_321055.html

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

2015年5月24日 7:52
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

ご返答有難うございます。
なるほど、生きる意味は人間が勝手に作り出したものだということですね。
ではなぜ心のない人間が命を全うし、感謝する必要があるのでしょう?
幸せを希求する存在はなんなのでしょう?
今現在困ったことはないと仰いますが…それは心がないからでしょうか。
それが仏教の教え、苦しみを無くすということでしょうか。

邦元様、釈心誓様有難うございます。
なぜ人間はアートマンがあると勘違いするように発達したのでしょうね。
なぜなぜ問うても仕方ないのでしょうが。

私は無我という単語に恐怖を覚えてしまいます。
元々ないと仰られても、自分が失われるような感じがしてしまうのです。

輪廻という言葉もよく聞きますが、私のような凡愚では、信じられないというのが正直なところです。

文句ばかりで申し訳ありません。

この自分が幻想に過ぎないものとするのに非常に抵抗を覚えてしまいます。怖くて仕方ありません。

河口様有難うございます。

私は自分勝手です。不幸な目に合っている人間が可哀想というよりも、いつか自分も同じ目に合いかねないという考えです。

不安、恐怖も目を通してみますね。

丹下様有難うございます。

以前も御回答頂いたと思います。

思考のペダルを漕がないで、感じるということが大切なのだろうと思い、瞑想など挑戦しているのですが、中々上手くいかず苦しくなってしまいます。

どんな言葉を並べても無駄だというのは何となく分かっているのですが、中々ネガティブな思考の癖から抜け出せずにいます。

何とか理解しないと、正しくあらないと、という考えが自らを追い込んでいるのはかんじているのですが。

星様有難うございます。

子供の頃の感覚というのは思い出す程に幸福だったと思います。
見えるもの感じるものが新鮮で、無心で何かをしていた。風邪をひいても肉体的に大変であっても、苦しいとはあまり感じなかったように思います。
その状態をもう一度取り戻したいです。

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生きるとは

私は先天性の障害で40年近く生きてきて、それなりに苦労してきました。 会社でパワハラに合い、鬱にもなり会社を退職しました。 そして、この度難病指定を受けることになりました。 笑っちゃいます。 ずっと子どもが欲しいと思っていたけれど、半分の確率で遺伝するそうで、今までの苦労を思うと、とてもではありませんが、私の遺伝子を残す事はできません。 子供の頃からお母さんになるのが夢でした。 今は、再就職に向けて必死で資格取得に励んでいます。 全く楽しいことが無いかと問われれば、それもまた違います。 でも、もう生きていてもただただむなしいのです。 自殺しようとは思いませんが、いつ死んでも全く問題ありません。 輸血も臓器提供も手術経験があるので、できません。 もし、それでも私の臓器を欲しいと言う人がいたら、私は喜んで差し出すでしょう。 生きたくても生きられない人がいるのも十分わかります。 でも、生きていることがただただ辛い人間もいるのです。 命を無駄にしようとは思いませんが、苦しいというよりは、虚無なのです。 自分の子どもを手にかける人には、その人なりの苦しさなんかがあるのだとは思いますが、不公平だなとも思います。 諦めているつもりですが、時々無性に苦しくなる。 誰にもこの気持ちは伝えません。 伝えても悲しませるだけだから。 疲れました。

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おはようございます。 毎日相談してしまい申し訳ございません。 昨日も温かいお言葉ありがとうございます。 肝心な相談というか、私の勝手な解釈なのかもしれませんが、今まで子供の頃からの持病に加えて様々な大病を患い呼吸停止、瞳孔散大した状態など本当に普通助からない状態。助かっても後遺症が残ります、や夜中なのに会えるご親戚を呼んで下さい等などほとんど助からない様な病気を山ほどしてきました。後から母親に聞いたことです。毎回母はもうダメなのかと絶望したそうです… ところが、持病もコントロール出来き、大病もしなくなり医者にかかったさい問診票に病名を書くとビックリされてしまいます… そして、私の唯一存命している母方祖母に(あんたはまだ生きないとダメなんだろうね)と言われました。 お医者様にすら奇跡だ、本当に神仏はいるかもしれないなど言われてビックリしています。 そこで、私にはまだ生きなければいけない何かがあるのでしょうか? 私の勝手な解釈かもしれませんし、神仏、ご先祖さまに守られているのかもしれないかもと思う様になりました。 毎日朝目が覚めると本当にありがたいのです。今日も本当にありがたいことだと思っております。 そして、そう思う様になってから出来る範囲で主人や自分自身の為に料理の勉強(野菜の栄養や、食べ合わせの)をしたり、きちんと仏様、神様、ご先祖さまに手を合わせる日々です。 最初に持病が一生治らないと告げられた時は絶望し、小学校一年生から中学校3年生までイジメにあったり辛い日々を送ったりしたことすら相手を恨んだりしたこともあったりしたのですが今では何とも思わなくなりました。 本当に生きる意味、自分で理由をつけてるだけかもしれませんがまだやらなければいけないことがあるのかな?と思う様になりました。今では義母が初期の認知症ですがいっぱい勉強して自治体での認知症ネットワーク、勉強会など色々やっております。ただ、今現在は胃潰瘍で安静にしています。 お坊様達に聞きたいことは、奇跡的に何度も命を助けられる(偶然かもですが)その他にも良いお医者様にも出会い本当に持病も良くなる、これは神仏様やご先祖さまのおかげもあるのか?という事です。奇跡としか言えないとばかり言われるので。私の生きたいと思う執着なのか…?例え執着であってもまだやりたいことは残っております。どうかよろしくお願いします。

有り難し有り難し 8
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なぜ生きるのでしょうか?

以前にもここで質問をさせていただいた者です。その節はありがとうございました。 高校一年の女です。最近なぜ生きているのか分からず何もかも虚しく、悲しくて毎日泣いています。 高校に入学してから、最初は辛かった高校も最近になりやっと前よりましになってきました。 しかし数日前、唯一の友達からとてもひどいことを言われました。それから私は気にしてないふりをしていつもと同じようにその子に接しています。 前々から「なんで生きてるんだろう」と思うことはありましたが、それは単なる疑問で悲しくなることもありませんでした。しかし最近になり「なぜ生きているのか」「こんなに辛い思いをしてまで生きる価値はあるのか」と思い、電車の中や布団のなかでそのことを考えては泣くようになりました。考えれば考えるほど自分が価値のない存在、ダメ人間だと思ってしまいなにをしても虚しくて悲しいです。 以前は出掛けることが好きだったのに最近は出掛けることもなくなり、何にも興味が持てなくなり、ただ心にポッカリと穴が開いたように感じて怠惰に毎日を過ごしています。 一体私はどうしたら良いのでしょうか?なぜ私は生きているのでしょうか?しんだほうがいいんじゃないかとまで思います。周りの人は楽しそうにしていて、家族もなぜ生きてるかとか考えたこともないと言っていました。人生が辛いと思ったこともないようです。 生まれ変わったらなにも考えずに揺られるワカメにでもなりたいです。 長文申し訳ありませんでした。どうか回答よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

生きることの意味について

初めまして。 ご回答いただけると幸いです。 またもし可能でしたら、厳しいご意見でも、優しめにご回答いただけると幸いです。 ご相談させていただきたい内容は、 生きることが苦しい時、 心のもちようと、 生きることの意味について、 そして、生死の選択についてです。 私は、数年前離婚し、 結婚前までは健康でしたが、 離婚後より、次々と、 人には話しづらい完治の難しい体調不良や、その他の体調面での不良が起こるようになりました。 そして、今年に入ってからも更に次々と起こり、手術等もちらつき、 心がとても疲弊しており、 数年間その様な状況でおります。 そして、その事もあり、 この年齢で恥ずかしいことですが、 現在は単発のお仕事のみで、 数年間長く勤めることができていません。 今は、家族がいてくれるので、有難く、 就職活動をしながら、 今できる事を無心にしようとしています。 ただその一方で、一人っ子で、頼れる身内もいない為、 先にもし孤独なら、 情けないことかもしれませんが、 一人では寂しさで、生きていても、心が死んだようになってしまう事も経験から知っているので、 治療費の為に生き、もしも自分だけの人生の時、 生きることの意味が見い出せません。 そして、それなら、 信じれる家族と最期を迎えることも、幸せの形の一つなのではないかと感じるようになりました。 そして、どうしても生きることが苦しい時には、 安らかに死を選択できる事ができれば、 今を安心して生きられる事に繋がるようにも感じるようになりました。 人生は苦行と聞き、 それで自分を奮い立たせ、納得させようともしましたが、 人の心を傷つけても幸せに暮らす人がいる事を思うと、 その言葉は信じることが難しくなりました。 まとまりのない文で読みづらい部分があり、申し訳ありませんでしたが、 ご相談したい事は、 人生が苦しい時の心のもちようと、 生きる意味について、 そして、 苦しみから開放される方法が、例えば死以外にあれば、 ご教授いただきたいです。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 6
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