心願成就について
仏教の入り口に立ちなにやら分からなくなってしまったので教えて頂きたいのですが
仏教の到達点は苦しみから救われることだとの解釈をしていますが、どのお寺でも心願成就のご祈祷やお守りがあります。
望むこと自体が欲なはずなのに心願成就をお祈りして叶うのでしょうか。それともその心願自体が苦しみであるからその捉われから解き放つという意味なのでしょうか。
例えば、守るべき人の為に出世したいとか、好きな相手を幸せにすることが己の幸せ《救い》とか願ってはいけないことなのでしょうか。それすらも捉われであって身を任せなければならないのでしょうか。
で、あれば仏様に祈る心願成就とは何を祈るべきなのでしょうか。
現代社会の中では、祈ることも預けることも逃避と断ぜられることも多々あると思います。逃避とはいえ、仏の修行は果てしなく苦しい逃避なのではないかと。
人でなくても輪廻の中に生きる生物として
その枠を越えて望むことは許されているのに、一人を幸せにすることは憚られることなのか。勿論、今世だけのスパンでないことは素人なりに理解しているつもりですが
失礼なことを書き連ねましたが
何卒、宜しくお願い致します。
30代後半の会社員です。 性格は信念を貫くタイプでコレと決めたことに対してのみ欲が深く成し遂げるまで諦めない。(諦めれない) 今まではアレもコレもと欲しがってきましたが、近年にわか知識で学んだ仏教や禅の教えに感化されて今後は多くを望むわけではなく、一握りの自分と大切な人の幸せを感じていけたらいいと思います。
コレと決めたことは絶対に曲げなく全ての労力とお金も厭わなく思う。 極狭い範囲の欲と執着が強い。 他人に振り回されることを嫌う 独占欲が強い
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
諸願成就は単なる自己願望であってはならない
世俗の願いの究極は、その我欲の先にある、菩提心に目覚める事です。
我欲を乗り越えずんば、何を求めても自我、我愛、我利、我欲の延長線に過ぎない。
いずれは、それを機縁として自己の願望という自利の欲求から、誓願という、自利利他の菩提心に転じてゆくことです。
それまでは、それのための機縁でしかないと私は思っています。
勿論、願えばそれは精神を動かす大きな力にはなるものです。
曹洞宗の名僧と呼ばれた奕堂禅師は次の3つの誓願を立てられています。
・一朝分明にして生死の迅流を超断せずんばすなわち誓って休まず。
・ニ六時中佛祖不傳の行覆にあらずんば誓って践まず。
・従劫至劫違情順境において誓って二念を生ぜず。
簡単に申し上げれば、
・生死苦楽を超えた心を得るまで修行を休まない。
・24時間、悟りを得た人間たちの道にかなわないことはしない。
・良い事であっても悪いことであってもセカンドの思いを起こさない。二の句を継がない。(事実とピッタリ一つであるように過ごす)
質問者さんは、こう言っちゃなんですが、今までのご質問からもうかがえる点として、
物事をストレートに受け止めずに、自分の解釈を差し込んでしまわれるのですわ。
だから、いつまでたっても仏道修行が始まらないのです。
事実は一つ。
言葉は一つ。
そこに無限に解釈が成り立つものなのです。
あなたはそこに使われているからいけない。
ものに使われる前に、自分の知っている知識にこき使われている事に気づいてみるとイイでしょう。
言葉は使うものです。
使われてはいけません。
時間は使うものです。使われてはいけませン。
意味は、正しく添えるものです。
矛盾を起こすように、用いてはいけません。
事実は、たった一つです。
意味を添えて、事実を歪ませたり、捻じ曲げてはいけません。
私の言葉に、悪意はありません。
悪意や、悪く言われた、こいつ俺のこと嫌いなのかも…、などと、自分のセカンドイメージを添えずに、そのまま受け止めてみてください。
あなたの仏道修行の第一歩は、そこにあるかと思います。
・事にのぞんで、誓って我見をかさねて観る事をせず。
これによって、あなたは仏道を成就する機縁となることでありましょう。
欲は持っていいのです
Mr.無明さん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈と申します。
ペンネームの通り、無明になってしまったのですね。
確かに仏教の到達点は苦しみから救われることです。しかし、自分の欲を叶えようとする心願成就のご祈祷やお守りに疑問を持ったのですね。
欲には2種類あることをご存じでしょうか。
自分の個人的で自己中心的な願い事を叶えようとする欲を小欲(しょうよく)といいます。
その一方で、困っている人を助けたい、震災で親や兄妹を亡くした子どもたちを支援したい、身寄りのない人を助けたい、など社会に役立つようなことをしたいという欲を大欲(たいよく)といいます。
さて、心願成就は何を祈るものでしょうか。
Mr.無明さんが思う、誰かの役に立つような願いが叶うようにと祈るものです。
弘法大師空海は、苦しみから抜け出すためにはどうしたら良いかと聞かれ、「人の役に立つことをするのだ」と答えています。
Mr.無明さんがMr.光明さんになるためには、小さなことでもいいので誰かの役に立つことをしていただければと思います。これが私の「心願成就」です。
大きな欲は持ってもいいんです
お守りや御札が無く、仏の力にすべてお任せする宗派、修行などで自分の力を研ぐ宗派、などもございますが、真言宗に限って書かせていただきます。真言密教では願い事は三力加持と言って、仏の力、我の力、周囲の力の3つが合わさらないといけませんので、Mr.無明さんの心配されているような欲望は、周囲の力を得ることができず叶いません。
>心願成就とは何を祈れば
自身の身体、言葉、心をひたすら清浄にして、実力が十分に発揮されることを、一心に祈願なされば結構です。
また真言宗では、欲の中でも、悟りを開きたい、みんなを幸せにしたい、といった「私」を超えた大きな欲を明確に肯定しています。
質問者からのお礼
増田 俊康様
早速のご教示ありがとうございます。
私自体は曹洞宗ですが、真言密教にも関心があり、高野山にて阿闍梨様に御加護を頂いたこともあります。
三力加持。以前学んだことはありましたが情けなくも頭の片隅にもありませんでした。
己を高める。万物に共通して言えて、確かなものはこれを求道するしかないということですかね。
感謝いたします
中村太釈 様
ご教示ありがとうございます。
近頃、いろいろと見つめ直す機会があり自分よりも幸せにしたい人だということに気付きお力をお借りすることで、より良い結果になればと考えていて、疑問を抱いてしまいました。
真に人を想うと不思議に心があったかくなる気持ちです。
想い過ぎて自分の願望に転化させないよう気をつけます。
丹下様
ありがとうございます。
まずは、何事も常に心落ち着け自分をみつめてから思考、行動するようにしてみます