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心願成就について

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仏教の入り口に立ちなにやら分からなくなってしまったので教えて頂きたいのですが

仏教の到達点は苦しみから救われることだとの解釈をしていますが、どのお寺でも心願成就のご祈祷やお守りがあります。
望むこと自体が欲なはずなのに心願成就をお祈りして叶うのでしょうか。それともその心願自体が苦しみであるからその捉われから解き放つという意味なのでしょうか。
例えば、守るべき人の為に出世したいとか、好きな相手を幸せにすることが己の幸せ《救い》とか願ってはいけないことなのでしょうか。それすらも捉われであって身を任せなければならないのでしょうか。
で、あれば仏様に祈る心願成就とは何を祈るべきなのでしょうか。

現代社会の中では、祈ることも預けることも逃避と断ぜられることも多々あると思います。逃避とはいえ、仏の修行は果てしなく苦しい逃避なのではないかと。
人でなくても輪廻の中に生きる生物として
その枠を越えて望むことは許されているのに、一人を幸せにすることは憚られることなのか。勿論、今世だけのスパンでないことは素人なりに理解しているつもりですが

失礼なことを書き連ねましたが
何卒、宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

諸願成就は単なる自己願望であってはならない

世俗の願いの究極は、その我欲の先にある、菩提心に目覚める事です。
我欲を乗り越えずんば、何を求めても自我、我愛、我利、我欲の延長線に過ぎない。
いずれは、それを機縁として自己の願望という自利の欲求から、誓願という、自利利他の菩提心に転じてゆくことです。
それまでは、それのための機縁でしかないと私は思っています。
勿論、願えばそれは精神を動かす大きな力にはなるものです。

曹洞宗の名僧と呼ばれた奕堂禅師は次の3つの誓願を立てられています。
・一朝分明にして生死の迅流を超断せずんばすなわち誓って休まず。
・ニ六時中佛祖不傳の行覆にあらずんば誓って践まず。
・従劫至劫違情順境において誓って二念を生ぜず。

簡単に申し上げれば、
・生死苦楽を超えた心を得るまで修行を休まない。
・24時間、悟りを得た人間たちの道にかなわないことはしない。
・良い事であっても悪いことであってもセカンドの思いを起こさない。二の句を継がない。(事実とピッタリ一つであるように過ごす)

質問者さんは、こう言っちゃなんですが、今までのご質問からもうかがえる点として、
物事をストレートに受け止めずに、自分の解釈を差し込んでしまわれるのですわ。
だから、いつまでたっても仏道修行が始まらないのです。

事実は一つ。
言葉は一つ。
そこに無限に解釈が成り立つものなのです。
あなたはそこに使われているからいけない。
ものに使われる前に、自分の知っている知識にこき使われている事に気づいてみるとイイでしょう。

言葉は使うものです。
使われてはいけません。
時間は使うものです。使われてはいけませン。
意味は、正しく添えるものです。
矛盾を起こすように、用いてはいけません。
事実は、たった一つです。
意味を添えて、事実を歪ませたり、捻じ曲げてはいけません。
私の言葉に、悪意はありません。
悪意や、悪く言われた、こいつ俺のこと嫌いなのかも…、などと、自分のセカンドイメージを添えずに、そのまま受け止めてみてください。
あなたの仏道修行の第一歩は、そこにあるかと思います。
・事にのぞんで、誓って我見をかさねて観る事をせず。 
これによって、あなたは仏道を成就する機縁となることでありましょう。

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...

欲は持っていいのです

Mr.無明さん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈と申します。

ペンネームの通り、無明になってしまったのですね。
確かに仏教の到達点は苦しみから救われることです。しかし、自分の欲を叶えようとする心願成就のご祈祷やお守りに疑問を持ったのですね。

欲には2種類あることをご存じでしょうか。

自分の個人的で自己中心的な願い事を叶えようとする欲を小欲(しょうよく)といいます。
その一方で、困っている人を助けたい、震災で親や兄妹を亡くした子どもたちを支援したい、身寄りのない人を助けたい、など社会に役立つようなことをしたいという欲を大欲(たいよく)といいます。

さて、心願成就は何を祈るものでしょうか。
Mr.無明さんが思う、誰かの役に立つような願いが叶うようにと祈るものです。

弘法大師空海は、苦しみから抜け出すためにはどうしたら良いかと聞かれ、「人の役に立つことをするのだ」と答えています。

Mr.無明さんがMr.光明さんになるためには、小さなことでもいいので誰かの役に立つことをしていただければと思います。これが私の「心願成就」です。

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徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の...

大きな欲は持ってもいいんです

お守りや御札が無く、仏の力にすべてお任せする宗派、修行などで自分の力を研ぐ宗派、などもございますが、真言宗に限って書かせていただきます。真言密教では願い事は三力加持と言って、仏の力、我の力、周囲の力の3つが合わさらないといけませんので、Mr.無明さんの心配されているような欲望は、周囲の力を得ることができず叶いません。

>心願成就とは何を祈れば
自身の身体、言葉、心をひたすら清浄にして、実力が十分に発揮されることを、一心に祈願なされば結構です。

また真言宗では、欲の中でも、悟りを開きたい、みんなを幸せにしたい、といった「私」を超えた大きな欲を明確に肯定しています。

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住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...

質問者からのお礼

増田 俊康様

早速のご教示ありがとうございます。

私自体は曹洞宗ですが、真言密教にも関心があり、高野山にて阿闍梨様に御加護を頂いたこともあります。

三力加持。以前学んだことはありましたが情けなくも頭の片隅にもありませんでした。
己を高める。万物に共通して言えて、確かなものはこれを求道するしかないということですかね。

感謝いたします

中村太釈 様

ご教示ありがとうございます。
近頃、いろいろと見つめ直す機会があり自分よりも幸せにしたい人だということに気付きお力をお借りすることで、より良い結果になればと考えていて、疑問を抱いてしまいました。
真に人を想うと不思議に心があったかくなる気持ちです。
想い過ぎて自分の願望に転化させないよう気をつけます。

丹下様

ありがとうございます。
まずは、何事も常に心落ち着け自分をみつめてから思考、行動するようにしてみます

「仏教全般」問答一覧

仏教とは?

こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。

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最後の言葉「ありがとう、また会おう」

長文で失礼致します。 急ぎの相談ではありませんので、お時間のある際にお話いただければ幸いです。 もう1点、伺いたいことがあるのですが、お坊さま方もお忙しいと思い、別の機会にさせていただきます。 父親のいなかった私たちを、親代わりになって育ててくれた祖父が先日他界しました。 母や叔父と叔母にとっては、優しくも厳しい一面もある父親だったそうですが、孫全員には優しく頼もしく接してくれて、「いい思い出」しか残っていません。 ここ数年は持病が悪化し、コロナ禍ということもあり、楽しみにしていた大勢で食事を楽しむ機会を設けれなかったことだけは心残りです。 入院先の配慮で、最後にお話をする機会があり、駆けつけた祖母・母と叔父・叔母、孫全員と話をすることができたのが幸いです。 「遅くまでいると迷惑がかかる」と祖父に促され、亡くなる前日の別れの際にかけられた言葉が印象的でした。 「じーちゃんが死んだ後、コロナが収まったらな、ばーちゃんに会いに行ってやってくれ」 最後まで祖母を思う優しさ、そして。 「ありがとう……また、会おう」 この言葉は、もしかすると生きて会えるのは最後とわかっていて、「来世」でまた会おうという意味だと私は受け取りました。 葬儀をお願いした元々ご縁のあるお寺のご住職も、「今の別れは、ゆくゆくは浄土で再会するまでの一時的なもの」とお説法をされていたので、受け取り方は違ってなかったのかなと思うのですが、いかがでしょうか?

有り難し有り難し 14
回答数回答 1

初めて知った事に対して、怖いです

三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。 日本では平安時代に貴族の間で始まり[1]、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。 道教では人間に欲望を起こさせたり寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている ウィキペディアからコピーさせていただきました。 こちらの文章を読んだ上でご質問させていただきます。 質問ですが・・、本当に3匹の虫が体の中に入っているのでしょうか? とある小説でこのような事を知りました。 正直、今までこんな事知らなかったので、怖いです。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられと wikiに書かれていますが・・・、 寝ないで1日越した方がよいでしょうか?あまりいい気分がしないので教えていただけると嬉しいです・・。 お坊さんの方々もこの日は何か特別な事はやってらっしゃるのでしょうか?

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