仏教徒に対する疑問パート7
前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです
実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ
瞑想やってて気づいたんです
瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて
そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって
我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです
その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間
瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです
この繰り返し
まるで息を吸って吐くように
煩悩と悟りが交互でくるように
蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら
なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ
誰がそんなルール先に作ったんだってなりません?
そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ
でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは?
こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る
因のわからない果の法則じゃないですか
そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです
この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか?
それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか?
とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです
この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか?
実という原因あっての結果の空なんですから
その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね
それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような
因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです
だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと
お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら
そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して
ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?
全ての煩悩の塊 100文字以内には収まらない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まずはあなたの因を明らかにしましょうか
こんにちは。はじめまして。
「仏教徒に対する疑問」シリーズもいよいよパート7ですか。ずいぶん進みましたね。
で、いかがですか?何か救われた所はありましたか?
ものごとのはじまりのはじまりについてあなたは気になるようですが、まあビッグバンでしょうね。またそのビッグバンも何かきっかけがあって発生したもののようで、これからも科学の進歩による解明を待つしかないですね。
地動説がわかった時も、サルのような生物が人間に進化した(現在のサルは進化しても人間にはなりません。それぞれ違う方向に進化しますので、未来にはますます類似点が減少するとされています)と分かったときも、ビッグバンで宇宙がはじまったと分かったときも、仏教界は「それは困ったぞ。教義に矛盾が生じる」って事にはならなかったんです。もとよりそのような事は仏教には関係なかった(無記)からです。
仏教ってそういう事を明らかにする事じゃなくて、私たちはどうやって生きていけばいいのか、っていう宗教だからです。悟りも何か光のようなものが見えたりするような事じゃないよ。あなたのその瞑想体験は一度捨てましょう。
さて、因果の話に戻りますが、あなたがここに何度も質問を書いてしまう「因」はどこにありますか?
おうちでうまくいっていない事があるのかな?会社かな学校かな人間関係で困っていることがあるのかな?
是非そのお話をきかせてください。
月指のたとえ
阿防羅刹夜叉様
こんなたとえ話があります。
月指のたとえ。
げっしのたとえ。といいます。
つきゆびではありません笑
ある人が
『あそこにお月さまがあるよ』と隣の人に教えるために
お月さまを指さしました。
しかしその人は、
肝心のお月さまを見ずに、
指さす手ばかりを見ては
『ほほう、この手はどうなってるんかな。なんで五本の指がついとるんかな?』
なんて考えて、肝心の月が一向に見れない笑
というようなおかしなたとえ話です。
お月さまを教えるために指さして教えてくださっているのがお釈迦さまです。
お釈迦さまの教えの一つ一つが月を指さす手なんです。
その手がなんであるのか。
そんなことはどうでもよいのです。
いや、その手にとらわれては肝心のお月さまが拝めないのです。
閑話休題
はじめまして。わたしも、あなたと同じような経験があります。
瞑想中の、心地よい状態と日常生活の落差。自分の中に落としどころが無くて、日常生活に戻ってくるたびに、つらかったです。いわゆる禅病ってやつですね。自分って特別かもしれないという期待と日常生活でそれを理解してもらえない気持ちが錯綜していました。思えば、悪いことでも愚かなことでもないし、今よりもさらに未熟だっただけなのですが、日々ゆるーく反省しています。
え?一緒にするな?もちろん、当時の私も、そう思いましたともー!
さて、「仏界入り易く、魔界入り難し」という言葉があります。これをどう解釈するかは、自由です。そして、その解釈こそ自身を映し出す鏡です。また、いずれの世界もそこに入っている自身を自覚しないと、そこから自由にはなれません。
仏界も魔界も等しく受け入れ、真摯に応じること、それがあなたが求めてやまない「因果」の答えを明らかにする、最も近道だと思います。
根拠?自分がそうだったし、有名無名問わず、無数の先人たちも、そうだったからです。以上。
完全なる○(円)を思い浮かべてみて下さい。この円の始まりはどこで、終わりはどこでしょう?
要は、こういうことなのです。つまり、因果は”真理”のひとつの側面でしかないのです。そこに、気がついた瞬間、因果という概念は消滅します。
さて、もうひとつ。真理とは、何でしょうか?少なくとも、他人に答えを教えてもらうものではありません。ましてや、無料のネットサービスで拾えるものでもありません。
もうこの事実を、薄々ご存知なのかもしれません。というかむしろ、そんな確証をもってあえてここで質問しているなら、何と勿体ない!将来を担う素晴らしい才能の無駄遣いじゃないでしょうか?(←割と本気で言っている)
世の真理の体現者たちは、そんな葛藤を上手に自分の人生に活かした人々だったのだと思います。
不毛な体力を使ってインターネット界の闇にどっぷりとはまってしまう前に、そのありあまるエネルギーを、現実社会で活かしてみませんか?
そのほうが、この場で一喜一憂するよりも、100倍以上すっきりしますよ!
合掌
それを作ってるのがマイワールド、マイストーリー。
「煩悩即菩提」という禅語があります。
心に生じたはじめの一念には、煩悩・雑念とかいうラベルなんてないでしょう。
人間が触らなければ菩提に通ずる、というものです。
あなたは最初から煩悩とか雑念とか勝手に決めてかかっていませんか。
図式の上で、これが煩悩とか、これが悟りとか、最初から決めてかからない。
出てきた想念に人の手が介入されることで想念即煩悩に変ずるのです。
出てきたまま何も手を付けないでいれば、その思いそのものに、そもそも害がないので、それがそのまま菩提となるのです。
煩悩というものをちゃんと正しく理解しましょう。
推測でモノを語るのはNG。そうなったらそれを説きましょう。
いくら立派な論を説いても、実際にそうならないでしょう。だから救われない。
沸いてくるその念が煩悩化されていくプロセスを自身の中で見極めるのです。
思いが煩悩化される要因は自身のはからい・人我の見です。
それが因縁となり、戯論という結果になっている。
あなたは悟りを「語る」。悟りは語るものではなく実際に体現するもの。
悟ってない人に悟りって何ですか?聞いたって結局悟れなかったでしょう。
ちゃんと悟った人のもとで「ああ、これで決着がついた!」と納得しなければ、レシピ、楽譜を読んで分った気になっているだけです。
自分の諭を主張したいが為に、人の話も全然聞いてないでしょう。
真意を読み取る気がなければ、あなたは質問と称した悟れない自論を展開をしただけ。それこそ無益なことです。
あなたがここでやっている「思考の世界」と、当方がお伝えしている「事実の世界」とはまるで別世界。
そこを観ずに、そこから逃げて、諭を主張し「諭」という思考ペダルをこいでいることに自覚がない。
そこを「あなたはまだレシピばかりで実物を召し上がっておられない」と言うのです。あなたは食べた気でいますが、想念のなせる錯覚です。本当に、味わえば戯論は出てこなくなる。
その論によって誰かが悟れたならゴ立派ですが、あなた自身でさえ、その論で救われていない事実をみましょう。今回は絶対にそこから逃げないでください。
あなたがやっていることは悟りを論ずる「諭」でしかない。
悟りのという諭は最高のごちそうは、まず自分が作れるようになってから「諭」を説かれると良いでしょう。
考えるな、感じろ。(李小龍)
論ずるな、証すべし。
ツォンカパ大師・中論註「正理の海」(正理大海)
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
因果の法は、どちらかと申しましたら、便宜的・方便的な教えとなり、「縁起」を考える一つの方法論に過ぎないところがございます。
しかし、正理知により考察するならば、因、縁、果というものも実体・自性・自相としては成り立っていない「空」なるものということになります。
一切は「空」であるものの、顕現を認識する主体の側における煩悩障・所知障により、色々と迷乱が生じてしまうところとなっております。
仏教を修習し、煩悩障・所知障を完全に対治、断滅することによって、やがて悟り・涅槃へと至れることとなります。
もし、ご興味がありましたらとなりますが、前回も述べさせて頂きました龍樹大師「根本中頌」(中論)の内容を読解されていかれましたら、色々とご疑問のことについても、有為に学び得られるところがあるのではないだろうかと存じます。
そして、その「根本中頌」に関しましては、色々な注釈書がございますが、その中でも特にお勧めは、ツォンカパ大師・中論註「正理の海」(正理大海)でございます。
また、可能でしたら、チャンドラキールティ大師「入中論」も併せて読解されるのも良いかもしれません。
川口英俊 合掌
煩悩が無くなるのが悟り
煩悩のリストが悟りのリストなのではないでしょうか。
つまり、煩悩が消えることが悟りです。
シャボン玉が割れるのが悟り。
割れたシャボン玉は二度と戻らない。
洗剤を使ってシャボン玉を作った人がいるのかもしれません。
しかし、シャボン玉は、シャボン玉であることが苦しいんです。
シャボン玉であることから解放されたとき、苦しみが消えるのです。
私というシャボン玉が消えたとしても、誰かがまた新しいシャボン玉を作るかもしれません。
しかし、私というシャボン玉にとっては、このシャボン玉を割ることで「完」なのです。
物語にはエンディングが必要なのです。
新しい小説が次々に出版されるから、今ある小説の最終話を書いても意味がないのでしょうか?
いいえ。どんどん出てくる新しい小説には、小説の数だけ最終話(悟り)がありえるのです。
質問者からのお礼
答えてくださったお坊様ありがとうございました