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心を許せる親友がいません。

回答数回答 3
有り難し有り難し 57

私は、常に一人ぼっちです。親友ができた、と思っても、他の人にとられてしまったり、離れてしまいます。周りは、心を許せる友達同士で、羨ましいな…と思ってしまいます。
これまで人間関係がゴタゴタしていくのを経験しているので、一人ぼっちでも、楽は楽ですが…。やはり寂しいです。
気にせず、過ごして行くためにどうすればいいですか?
教えて下さい。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

隣の芝は青く見えるものです

のぼうさん、はじめまして。

徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

のぼうさんは、常に一人ぼっちと感じ、親友ができたと思っても他の人にとられてしまったり、離れてしまい悲しい思いをしているのですね。周りは心を許せる友達同士で羨ましいと思っているのですね。

のぼうさんは、本当にひとりぼっちでしょうか。
確かに、親友を他人にとられてしまったり、周りは心許せる友だち同士で羨ましいと感じたりします。
しかし、本当の親友は離れていてもつながっているものです。
仏教では縁(えん)といいます。少しだけ言葉を交わしたことがある人、スーパーでレジを打ってくれた人、家電店で商品の説明をしてくれた人、すべての人がご縁のある人なのです。

友人に友だちがたくさんいることが「羨ましい」と感じていることが、のぼうさんが「私はひとりぼっちだ」と思わせているのです。

羨ましいを捨ててみると、見える世界ががらりと変わります。

のぼうさんに、たくさんの御縁がありますように。

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有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

ダルマ・フレンド(法友)

心の向上の無い友達は、最終的に友達になりません。
人間、心の向上(菩提心)を起こさない間柄は、どこまでいっても優劣勝敗などが付き従います。
よって、心の向上心を持った人を友とすることです。
もしくは、お寺の集いに参加するとそういう人たちが集まっています。
こういうことへの気づきは年齢ではありません。
仏法僧の僧とは、なにも坊さんの事ではありません。
正しくはサンガ・僧伽といって、悟り・仏の心を求めて修行する集いのことを言います。
菩提心(心を向上させようとおもう心)を起こせば、誰もが僧なのです。
そして、その関係は和合を重んじます。
我々僧侶の世界でも、法友は得難いものです。
ですが互いにみな菩提心を持っています。
それが共通のきずなになります。
仏はこれ大いなる師なるがゆえに帰依す。
法はこれ苦を除く良薬なるが故に帰依す。
僧はこれ勝友なるがゆえにこれに帰依す。
わたしどもも、質問者様の法友です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

友達は思い通りにはなりません

人は一人では生きていけません。
常に誰かのお世話になっている訳ですから、一人だなんて思う必要はありません。

お友達をとられてしまう というお話ですが、お友達はあなたのものではありません。常に一緒にいなければならない訳でもなく、価値観も違えば、性格も違う。違っていいのです。他の人と仲良くしても、自分とも仲良くしている。それが自然であると思います。
親友と言える友達なんて、そうできるものではないと思いますよ。

一人で寂しく感じているなら、共通の趣味を持つ人の集まるようなところに行ってみることです。自然とお話も弾むことでしょう。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

アドバイスをありがとうございました。分かっていたつもりでいたのですが、今回はっきりしました。厳しくも、温かいお言葉ありがとうございました!ゆっくりでも、一日一日進んで行けたらな…と思います^^

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