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葬式のお経

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何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。

せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。
ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。

ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。
木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。
ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。
ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。

自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。

悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。

攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。


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お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

理性的理解と瞑想的理解

zenshu様

ふと目に止まりましたので、久しぶりに回答させて頂きます。

私は、お葬式は悲しむための場ではなく、悲しみを超える大切な機会と理解しております。
「死」について、私たちはふだん考えることを避けているのが通常ではないでしょうか。何故なら明確な答えを導き出すことができないからです。

そのことを覚悟して頂くため、私は読経の前に法話をさせて頂いています。すなわち、私たちもいずれ同じく死を迎えるのだという覚悟を促し、読経の意味と心得をお伝えしてから読経いたします。

「理解」ということに関してですが、仏教では左脳による理解「分別智」に対し、右脳による理解「無分別智」を立てますが、「無分別智」を優位に置きます。何故なら「分別智」は理性による判断のため、理性が知っていることでしか物事を理解できないという大前提があるためと思われます。
すなわち、まだ経験したことのない「死」を、理性では理解できないのです。

同様に、お経の理解の仕方にも二通りあり、ひとつは理性的な理解、いまひとつは瞑想的理解と申せばよろしいでしょうか。
お経の理性的理解は、仏教用語の基礎知識から専門用語のテクニカルタームまでを学んでも、なお理解に至るには道が長いといえましょう。それを考えますと、30分や1時間で理解できるわけはございません。

そのようなことから、私は磬子(けいす=おりん)と読経の声が織り成す独特の響きに集中していただき、瞑想的意識領域へと導く瞑想的理解を促しております。

直覚的に生死を覚悟し、瞑想的領域でそれを理解する。一生の中でも、そのような領域に触れる瞬間は幾許でしょうか。そこにこそ救いがあるのだということは、その領域に触れてごらんくださればご理解頂けるものと確信しております。

以上、雑駁ではございますが、返答とさせていただきます。

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おきもち

・浄土宗僧侶(元浄土宗寺院副住職:実家大阪市浄土宗天龍院千代田別院普請中)...
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あなたが問題にしているだけ

ご指摘頂き有り難うございます。
お気持ちはわかりますが、zenshuさんは、お葬式をお経を理解する場にしておられるのでしょうか…。まず、お葬式はお経を❝理解❞する場ではないのです。

そこで起こっている事実に罪はありません。
「事実」にあなたが意味をつけて「悪く捉える」と事実が捻じ曲がる、とだけ申し上げておきます。後はご自身で、よく見極めてください。
葬儀にやってきた坊さんが事務的で誠意が感じられなかったのなら直接本人に伝えてあげてください。

あなたは以前の数回のご質問では「悟りを得たい」はずだったでしょう。
ところが実質、今やっておられる事をご自身で振りかえってよくご覧ください。
もう一度、ご質問の本文を読み返されて、ご自身がここでも含め日常で主軸にやっておられる事の本質をこの場でこそ知るべきです。
いつもご質問を頂いていますが、正直、質問の為の質問でしかありません。悩んでもいませんね。回答を❝うけて❞の後…、が何もないことが寂しく感じられていました。
ですがzenshuさん自身の問題点が、このご質問の中でようやく浮き彫りになってきたと言えましょう。
以下を参考に、本当にこんなことをやっていて、良いのかと、自らに質問をしてみてください。

・自分の気に入らない事を持っている。…自分のルールが強い それに反すると許せなくなる
→結果 怒りが生じ 悟りが遠のく

・物事を一面的にしかとらえていない…多角的に、他の面をみていない 観不自在→固定見 

・他の価値を理解しようとしない…白黒、裏表、善悪の二見に陥りやすい
→悪意が生じ 慈悲から遠のく

・怒りに燃えている…自分のルールの押しつけ
→安心より遠のく

・どこかしら批判めいている…それは悩みを解決したいのでもなく、悟りを求めたいのでもなく、自分の意見が正しいということを確信したいだけで、ご自分をやっておられる姿。その自我の活動が強い故に、考えの世界に溺れるのです。

この点を、踏まえてられたうえで、何処に進むべきであるか、感じられるものがありましたら、ご返信を期待しております。

追記:私どもは一問に対して1000字以内でしかお答えができません。
お礼欄へ質問されましたも返信できませんので、悪しからず。
非思量で、車にぶつかるようなら、こん日、曹洞宗はありません。

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おきもち

誰にとって?

zenshuさん、こんにちは。

雑音に聞こえましたか…
お叱りはしっかりと読ませていただき真摯に受け止めさせていただきます。

この世のことは全て、受け取る側の気持ちで左右されます。

同じものを見ても、同じ言葉を聞いても、見る目、聴く耳が違えば全く別のものになります。

同じ仏像を見ても、ありがたいと思う人もいる。美術品として見る人もいる。気持ち悪いと見る人もいる。

同じお経を聞いても、ありがたいと感じる人もいれば、雑音にしか聞こえない人もいるということです。

クラシック音楽が好きな人には、ロックは雑音にしか聞こえないでしょうし、逆にロックでないと音楽でないという人もいるようなものです。

zenshuさんが、お葬式のお経を雑音に聞いたのならば、それは紛れもなく雑音です。
苦しめるだけと感じたなら、zenshuさんにとっては苦しめるという感覚でしか捉えられなかったのでしょう。
これも紛れもない事実です。

ただし、そこにいる全員がzenshuさんと同じ気持ちではなかったはずです。
全員が同じ気持ちならば、遠慮なさらずに宗教を換えていただければ良いと思います。
しかし、必ずしもそうでないからそこにあるのです。

先におことわりしておかなければなりませんが、お経の内容がお知りになりたいなら、お葬式はお経を学ぶ場所ではありません。

更にいうならば、お葬式は故人に戒を授け送り出す場所であり、日本古来の風習から言うなら、故人に感謝し称え、来世に向けての指針を示す場所であり、決して悲しむためだけの場所ではありません。

わかりやすい言葉でお経を唱えたら良いのでしょうか?
その通りですが、日本語にしてしまうと意味が違ってくる場所が多々あります。
そのために、お葬式には「引導」と呼ばれる、個人に向けた言葉を要約した文を読みます。
後ろに座る方々には、どういう心持ちでいて欲しいかを「説法」「説教」といった形で示すのです。

ちなみにウチのお寺では、お経本を配ってみんなで一緒にお経を唱えています。

修行をしたいとおっしゃっていたzenshuさんのお言葉ですから悪意はないと思います。

ただ、お金儲けがしたいなら、私は僧侶なんて頼まれても選びませんね。

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おきもち

読経を聞かなくて済む葬儀もありますよ。

zenshu様 こんばんは。
長年の人生経験から見たお坊さんとお金の鋭いご指摘、ごもっともです。有難うございます。
うちの寺は檀家が少ないため年間の葬儀も少なく儲ける側の立場でお答えできず申し訳ないです。

都会の相場はさておき、福井ではお坊さんの布施よりも親戚の食事代、葬儀の祭壇代にお金をかけることも多いです。
なので、人生で今まで何にお金をかけてきたのか、これからの葬式ではどこにお金をかけかを日々のお参りの中で話せる関係を持ちたいなと思っております。
その上で坊主丸儲け路線でも承知できるのか、ローコスト路線で行くかを各御門徒さんに決めて欲しいと思っております。
昔と違い、誰もがシャネルのスーツより高い衣で看送って欲しいとは私も思っていません。
自分は儲けたつもりでも、死んだ後、息子や孫に愚痴を言われても経験上辛いので、
今まで先人が大事にしてきたことと、個人の思いの折り合いがついた方法で葬儀を行えるのが理想ですね。

また、読経が耳障りとのこと。
同じ思いをされた先人がいたようで、読経前に焼香して帰っても良い廻り焼香というシステムがあります。
福井では読経に悩む必要はないです。

あと、仏式で看送った人がいるなら分かるのですが、葬儀の手順の中で読経がない事も多いですよ。
人が集まる通夜と告別式が一連の流れでは目立ちますが、個人的に悲しみがとても深いと感じる以下の三つの場面。
納棺(着替えと棺に入るとき)、告別式後の式壇の花を棺に入れるとき、斎場でスイッチを押すとき、
などは読経してないです。
(本当はその時に綺麗な声で賛美歌のような読経をするといいんでしょうが、葬儀は悲しみを煽る場ではないのでそこを勘違いされても困りますね。)

お経の内容を知りたいと思ってくださるのはとても有り難いです。
ですが、意味が分からなきゃ救われないのか、理解力や判断力が劣る人は救われないのかと言われると、葉っぱの擦れる音でさえも音楽として浄土を思い浮かべるキッカケになるといいねという経典をよりどころにしている立場なので、、、
法律は理解しなきゃ使えないと言われるのもごもっともなのですが、賢い人が都合よく改正される法律に振り回され、落ちこぼれる人たちも私はたくさん見てるので法律の例えはカバーしきれない部分があると思います。

若輩者が生意気言ってすいませんでした。

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自分のことはあまり好きじゃない。 でも、だから、せめて自分だけは 自分...
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6月24日追記

私も以前は同じ疑問を持っていました。
実際に日本語訳のお経を読むことは可能ですし、個人的にはやってみたいと思っています。
ただ、セレモニー、儀式としては、全部日本語訳で読んでしまうと間延びしてしまうのです。そういう意味では、「ありがたみ」を演出しているのかも。
また、お経を読むのは修行の一つであり、セレモニーでは、普段やっている読経の修行を行い、その功徳を捧げているという面があります。
功徳とは、修行によって心に善い癖が貯まること、またその善い癖のことです。仏を敬い仏教の教えを念じる読経は、功徳がありましす。意味がわからなくても信心を養うだけでも。
お経は、翻訳すると原文の意味とニュアンスが変わる可能性があるので、後世に伝えるのには、原文のままで皆で声を合わせて暗唱する方法がよいのです。
仏教ができた同時のインドは暗記暗唱の文化があり、そのような習慣が活字のできた今日の日本にも残っているのでしょうね。
また、漢文の音読みはリズムを合わせやすいのです。
理想は、ふだんからお坊さんの説法を聞いてお経の意味を知ったうえで、唱えやすい漢文を声を合わせて一緒に唱えることです。
大勢の人がリズムを合わせて読む場合に、木魚などを叩いてリズムをとるのです。
そのような読経の修行が、セレモニーにおいてもそのまま使われているのでしょう。
ただ、引導など、要所要所では、現代人にもわかりやすい言葉を使うようにしているお坊さんが多いです。

なお、私はお坊さんの収入を生活のあてにしておらず、別の仕事をしています。

6月24日追記

悲しみは怒りの煩悩なので、葬式で悲しむことは良いことではありません。
葬式で行っているのは、死者に対して仏教的な導きをすることと、念仏・読経などの功徳を死者に回向して修行の援護射撃をすることです。また、その際に生きている人々にも仏教を知ってもらう機会になります。
昔、日本では死のケガレを嫌って死体に近づきたがらなかったのを、仏教の僧侶が弔ったことが、葬式のルーツと聞いたことがあります。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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ご仏縁、ご法縁をあずかり頂くための大切な儀式

zenshu様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙寺は檀家制度を今のところ廃止しているため、お葬儀をお勤めさせて頂くことはほとんどございませんが、それでも年にほんの数件ながら強いご希望によるご依頼、ご指名がございまして、誠にこの拙生も、浅学非才の未熟者にて申し訳ない限りではございますが、導師をお勤めさせて頂くことがございます。

実はzenshu様と同様にお葬式のあり方に対して疑問に思うところは長年ございました。そこで、拙生なりにお葬式に関することにつきましては、昨年に下記拙論にまとめさせて頂いておりますので、まずご参照賜れましたらと存じます。

お葬式について
http://goo.gl/fBwp0Q

ここで少し述べさせて頂いておりますように、一つは、亡くなられた方に確かなるご仏縁、ご法縁をお結び頂けることにより、悟り・涅槃へと向かうための流れに確かにお乗り賜れるように調えさせて頂くこと、そして、もう一つは、お葬式におけるご仏縁、ご法縁において、ご遺族、参列者の皆様にも悟り・涅槃へと向けた仏道を進めるための一助となるように調えさせて頂くことが大切になるのではないかと存じております。

そのため、参列者の方にもお経本や冊子をお配りして、共に読経したり、御詠歌を共に唱えたりすることもございますし、やはり、お経の内容、授戒、引導の作法などの内容もしっかりとお伝えしておきたいものでございます。

あまり長くなってもいけませんが、お通夜での法話において、必ず葬儀の意義、授戒、引導の内容、お経の簡単な説明をさせて頂いておりますし、事前にお通夜・お葬儀の式次第は喪主の方にお渡しするように致しております。

そして、仏教とは何かということについても、基本的な四法印・四聖諦の内容をできるだけかみ砕いての法話に努めさせて頂いております。

亡き方も遺族も参列者も、このご仏縁、ご法縁が、皆のより善き赴き、仏道の歩みの糧に少しなりともなるように僭越ながらにもお勤めができればと存じております。

そのお布施は、金儲け・ビジネスなどではなくて、ご仏縁・ご法縁を皆があずかり頂くための仏法興隆、仏法護持、一切衆生の済度へと向けて取り組む浄財としてしっかりと役立てていかなければならないものであるかと存じております。

皆共に仏道を成ぜんことを。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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わたしにとって読経は、おしゃかさまと結ばれる尊い時間であります。
葬列に御参列頂いている皆様がどう思われようが関係ありません。
おしゃかさまとわずかでもむすばれたこころを供える。
ほとけの世界へと向かわれる方への私自身の精一杯です。
当山にあっては、葬儀は
縁あって当山が仰せつかっておりますので、当山なりの
精一杯のおしゃかさまへの祈りを務め、おしゃかさまと
おなじ世界へ向かわれる故人様へのはなむけを読経にこめ務めるものです。

読経はたしかに道具でもありましょう。

ならば、それに「祈り」を込めて一心に務める。
わたしにはそれが精一杯です。

あなたさまのおこころが安らかになりますよう、これもまた
わたしなりの「お経」です。
さちあれ。さちあれ。合掌。

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おきもち

質問者からのお礼

お坊さんがた回答ありがとうございます。

ですが勘違いしていることがあるので、訂正しておきます。
まず、私はお葬式はお経を❝理解❞する場とは思っていません。葬式は葬式です。

みなさん、お葬式はお経を❝理解❞する場ではないと口を揃えて言います。そのとおりでしょう、ですが葬式はお経を読む場でもないはずです。
私は何故お坊さんがそんなことをしなければならないのか、その行為に実質的な救いはあるのかと聞いています。

同じお経を聞いても、ありがたいと感じる人もいれば、雑音にしか聞こえない人もいるということです。
これはおかしい。意味がわからなければただの音です。お経を音楽に例えるのはおかしい、お経は音を楽しむものではなく内容に意味があるものだからです。
法律の条文は歌うものではないのと一緒です。法律の内容は理解しないと使えないのと同じです。内容を理解しなくてもいい音楽で例えるのは間違いです。

人によって受け止め方が違うといいますが、
インチキ医者が手術が必要な病人に手術をしてもいないのに手術をしたと言って治療費をもらい。
病気が治ってもないのに、インチキ医者が「自分の治療には意味がある何故なら自分が手術をしたと言ったおかげで患者の気分が良くなったんだからそれでいい」と言うようなものです。こんなものは詐欺です。

みなさん論点ばかりずらしてきちんと自分の質問にきちんと答えていません。

丹下覚元さん、自分の問題点を発見していただいてありがとうございます。

ですが見誤っていることがあるので、訂正しておきます。
<言いたいことがあってもずっとこらえて我慢してきた…自分に嘘をついている
これは憶測からくる勘違いです。
我慢などはしていません、何故なら我慢などする理由がないからです。葬式は馬鹿馬鹿しいと思って行くのは大昔にやめたので我慢などはしていません。
最近外国人のカソリックの知人が死んだので、ふと気になったので聞いてみただけです。
自分に嘘???などはついていません。

<どこかしら批判めいたところがある
悩みは解決したいです。なぜなら幸せになりたいからです。ただ今回の質問は悟りとは別の質問です。

丹下 覚元さん、自分が思考中毒な理由は知っています。
思考もしないと困ったことになると思っているからです。
常に全方位に警戒して、先の先まで読んで行動しないと抜きさしならない状態になると思っているからです。色々あれこれ知りたがるのも、正しい判断を下すために必要だと思っているからです。
適当に、何も考えずにやっていたら、幸せも不幸も運任せになってしまうと思っているからです。
以前非思慮になったら事故にあってすぐ死んだりしませんか?と聞いた時返事をいただけませんでした。

「葬儀」問答一覧

海外からの祖父の葬儀参加について

先週に私の祖父が逝去したと妹より一報がありました。 今週末に予定されている祖父の葬儀への参加に悩んでいます。 きちんと見送ってあげたい気持ちがあるのですが、正直なところ複数の理由から、参加を見送ろうかと悩んでいます。 私は初孫だったので特に可愛がってもらったと思います。今でも小さかった時の祖父との思い出が記憶にあり涙が出ます。大人になってからは頻繁に会いに行ってあげられていなかったので、薄情な孫であったことが申し訳ないです。 悩む理由の一つとして、私が今現在海外在住(日本へのフライト時間が半日以上かかる場所)であることです。帰ろうと思えば帰れなくはないのですが、既に一ヶ月後に一時帰国を予定しておりその予定はキャンセルできないため、葬儀の2日間のためにフライトチケットを手配して行くことになります。 帰るなら早急にチケット手配や荷造り等をしなければいけないので、迷う時間も限られています。 また、参加できたとしても直後に家族での遠方への旅行を予定しているために、また帰ってすぐに長距離移動をすることになり精神的・体力的に厳しそうだなと憂慮しています。 もう一つの理由として、私が毒親である両親との縁を一方的に断っているため、もし葬儀に参加できたとしても精神的に受けつけない両親と顔を合わせ言葉を交わすことになることが恐怖に感じています。 (体調が悪くなる可能性があります。) きちんと祖父を送ってあげることに集中したいのですが、夫は仕事の都合で帰国しての参加が難しく、妹も仕事の都合で欠席予定となり、孤立してしまうので、精神的安全がなく、親戚への気遣いも必要な場ではかなりしんどいのではと危惧しています。 こういったときの常識がないため、色々調べ、花が好きだった祖父へ、せめてもの供花を妹夫婦と私夫婦で贈ろうかと考えています。 香典は海外からは送れないため、後日の一時帰国の際に連絡の取れそうな叔母に手渡ししようかと思っています。 (おそらく喪主は長子の父親かと思いますが、一番祖父母のケアをしているのは近くに住む叔母で、話の分かる優しい方です。) 今更ですが、きっと気落ちしている祖母にも声をかけに会いに行ってあげたいです。 帰れるのに帰らないのは、卑怯でしょうか。 欠席の場合、供花を贈るだけでは祖父に失礼にあたるでしょうか。 最後まで言い訳がましい孫で祖父には申し訳ない限りです。

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祖父の葬儀での出来事

先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。

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母の葬儀を神式でやりたい父を理解出来ない

2月5日に、母がガンで他界しました。まだ60代の若さでした。今、悲しみと喪失感に暮れて居ます。 そんな中でも、葬儀の準備を進めなければなりません。我が家は、代々仏教式での葬儀を行なって来ました。 しかし、何故か父が神道式にしたいと言い出したのです。 ちなみに、父は特別神道を崇拝している訳でも無く知識もほとんどありません。 神式では、代々のお墓に遺骨を入れられません。魂も輪廻転生の輪に入れず、神棚に奉られる状態になると聴きました。 私は、生前散々苦労して来た母を、極楽浄土に送りたかったのです。 生まれ変わって、来世こそは、苦労無く、幸せな人生を送って欲しい。 しかし、神式では嫌な思い出ばかりが残る我が家に、魂を縛りつける事になるのでは無いかと心配しています。 父が私に相談も無しに依頼した葬儀屋さんも、神式葬儀の事例はほとんど無く、儀式なども曖昧に形だけやっている状態です。 母の亡骸は、まだ自宅に安置されています。枕直しの儀に必要な小刀などを担当の方が置いてくれました。 しかし、刀の置く向きが違います。葬儀屋さんのスタッフさん側に、神式の知識が無いのです。 用意出来る祭壇も小さく質素で、どうにも必要な用具が足りていません。これでは、あまりにも可哀想です。 まさか、お葬式の件で父とケンカをするとは思いませんでした。 どうしても神式で葬儀を行いたいのであれば、そこは仕方がありません。 ですが、せめて今の葬儀屋さんをキャンセルして、神式の儀式に詳しい、専門の葬儀屋さんに変えて貰いたいのです。 枕直しの儀を取り行ってしまった後のキャンセルは、失礼に当たるので出来ないのでしょうか…。 逆に、儀式をしたにも関わらず、別の葬儀屋さんで2度目の儀式を取り行う事は、 母の魂が迷ってしまったりなどの影響があるのでしょうか…。 葬儀業者をキャンセルして切り替えた経験のある方。 そして、数多くの魂を送って来られた、お坊様。 もう時間がありません。何卒、救いの手を差し伸べて戴けます様、お願い申し上げます。 大切な母親が人生の最後に、主役になれる日が葬儀だと考えています。 とびきり美しく、良いお式だったと言って戴ける様なものにしたい。私が出来る、最後の親孝行です。

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檀家総代について

先日父方の祖父が亡くなり、週末にかけて葬儀等を済ませたのですが 実は父が檀家総代をしているお寺の住職の母親の四十九日が祖父のお通夜と告別式が終わった次の日にあり 父は間もなくその手伝いに向かいました。 亡くなる1ヶ月前から祖父は施設のベッドから落ちて大腿骨を骨折したのちに入院と手術をしていたのですが その際はちょうど住職の母親が亡くなったあたりのタイミングだったため 本来であれば医師からの説明のためずっと病院に居なければならないはずが 檀家総代であるという理由から葬儀をまとめなければならず あまりそばに居ることができないような状況でした 「なんとかして祖父のそばに居てやれないものか」と言っても 父は「俺が葬儀のまとめをやらなければいけない」と返され聞き入れてもらえませんでした その時でも色々と疑問に思うことはありましたが まだ祖父は生きている状態だったので とりあえずはあまり口を出さずにいました でもなんだか今回は話が違うような気がするのです 昔からお世話になっているお寺なので 色々と感謝することがあるのは間違いなく 手伝う義務のようなものがあるのは十分理解しているつもりなのですが 身内の、しかも自分の親を見送るという時に葬儀から荼毘まで最低限のことだけして それが過ぎたあとは先にひかえている他人の葬儀を優先的にまとめるというのは なんだか祖父をないがしろにしているような感じに見えてしまってわたしは納得できません。 せめて四十九日までは自分の親のために集中できないものなのかと ただでさえ葬儀の前も後も大変だというのに… 檀家総代というのは、大切な家族の時間を犠牲にしてまでこなさなければならないものなのでしょうか? 本人に言っても、まわりに相談しても 「仕方がないことだから」と言われて終わってしまいます。 自分の行いは大なり小なり必ず自分にかえってくるものです もし自分があの世に行くときでも同じようにないがしろにされても良いということなんでしょうか。 あまりに薄情な気がしてなりません。。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ