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葬式のお経

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何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。

せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。
ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。

ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。
木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。
ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。
ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。

自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。

悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。

攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。


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お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

理性的理解と瞑想的理解

zenshu様

ふと目に止まりましたので、久しぶりに回答させて頂きます。

私は、お葬式は悲しむための場ではなく、悲しみを超える大切な機会と理解しております。
「死」について、私たちはふだん考えることを避けているのが通常ではないでしょうか。何故なら明確な答えを導き出すことができないからです。

そのことを覚悟して頂くため、私は読経の前に法話をさせて頂いています。すなわち、私たちもいずれ同じく死を迎えるのだという覚悟を促し、読経の意味と心得をお伝えしてから読経いたします。

「理解」ということに関してですが、仏教では左脳による理解「分別智」に対し、右脳による理解「無分別智」を立てますが、「無分別智」を優位に置きます。何故なら「分別智」は理性による判断のため、理性が知っていることでしか物事を理解できないという大前提があるためと思われます。
すなわち、まだ経験したことのない「死」を、理性では理解できないのです。

同様に、お経の理解の仕方にも二通りあり、ひとつは理性的な理解、いまひとつは瞑想的理解と申せばよろしいでしょうか。
お経の理性的理解は、仏教用語の基礎知識から専門用語のテクニカルタームまでを学んでも、なお理解に至るには道が長いといえましょう。それを考えますと、30分や1時間で理解できるわけはございません。

そのようなことから、私は磬子(けいす=おりん)と読経の声が織り成す独特の響きに集中していただき、瞑想的意識領域へと導く瞑想的理解を促しております。

直覚的に生死を覚悟し、瞑想的領域でそれを理解する。一生の中でも、そのような領域に触れる瞬間は幾許でしょうか。そこにこそ救いがあるのだということは、その領域に触れてごらんくださればご理解頂けるものと確信しております。

以上、雑駁ではございますが、返答とさせていただきます。

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おきもち

・浄土宗僧侶(元浄土宗寺院副住職:実家大阪市浄土宗天龍院千代田別院普請中)...
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あなたが問題にしているだけ

ご指摘頂き有り難うございます。
お気持ちはわかりますが、zenshuさんは、お葬式をお経を理解する場にしておられるのでしょうか…。まず、お葬式はお経を❝理解❞する場ではないのです。

そこで起こっている事実に罪はありません。
「事実」にあなたが意味をつけて「悪く捉える」と事実が捻じ曲がる、とだけ申し上げておきます。後はご自身で、よく見極めてください。
葬儀にやってきた坊さんが事務的で誠意が感じられなかったのなら直接本人に伝えてあげてください。

あなたは以前の数回のご質問では「悟りを得たい」はずだったでしょう。
ところが実質、今やっておられる事をご自身で振りかえってよくご覧ください。
もう一度、ご質問の本文を読み返されて、ご自身がここでも含め日常で主軸にやっておられる事の本質をこの場でこそ知るべきです。
いつもご質問を頂いていますが、正直、質問の為の質問でしかありません。悩んでもいませんね。回答を❝うけて❞の後…、が何もないことが寂しく感じられていました。
ですがzenshuさん自身の問題点が、このご質問の中でようやく浮き彫りになってきたと言えましょう。
以下を参考に、本当にこんなことをやっていて、良いのかと、自らに質問をしてみてください。

・自分の気に入らない事を持っている。…自分のルールが強い それに反すると許せなくなる
→結果 怒りが生じ 悟りが遠のく

・物事を一面的にしかとらえていない…多角的に、他の面をみていない 観不自在→固定見 

・他の価値を理解しようとしない…白黒、裏表、善悪の二見に陥りやすい
→悪意が生じ 慈悲から遠のく

・怒りに燃えている…自分のルールの押しつけ
→安心より遠のく

・どこかしら批判めいている…それは悩みを解決したいのでもなく、悟りを求めたいのでもなく、自分の意見が正しいということを確信したいだけで、ご自分をやっておられる姿。その自我の活動が強い故に、考えの世界に溺れるのです。

この点を、踏まえてられたうえで、何処に進むべきであるか、感じられるものがありましたら、ご返信を期待しております。

追記:私どもは一問に対して1000字以内でしかお答えができません。
お礼欄へ質問されましたも返信できませんので、悪しからず。
非思量で、車にぶつかるようなら、こん日、曹洞宗はありません。

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おきもち

誰にとって?

zenshuさん、こんにちは。

雑音に聞こえましたか…
お叱りはしっかりと読ませていただき真摯に受け止めさせていただきます。

この世のことは全て、受け取る側の気持ちで左右されます。

同じものを見ても、同じ言葉を聞いても、見る目、聴く耳が違えば全く別のものになります。

同じ仏像を見ても、ありがたいと思う人もいる。美術品として見る人もいる。気持ち悪いと見る人もいる。

同じお経を聞いても、ありがたいと感じる人もいれば、雑音にしか聞こえない人もいるということです。

クラシック音楽が好きな人には、ロックは雑音にしか聞こえないでしょうし、逆にロックでないと音楽でないという人もいるようなものです。

zenshuさんが、お葬式のお経を雑音に聞いたのならば、それは紛れもなく雑音です。
苦しめるだけと感じたなら、zenshuさんにとっては苦しめるという感覚でしか捉えられなかったのでしょう。
これも紛れもない事実です。

ただし、そこにいる全員がzenshuさんと同じ気持ちではなかったはずです。
全員が同じ気持ちならば、遠慮なさらずに宗教を換えていただければ良いと思います。
しかし、必ずしもそうでないからそこにあるのです。

先におことわりしておかなければなりませんが、お経の内容がお知りになりたいなら、お葬式はお経を学ぶ場所ではありません。

更にいうならば、お葬式は故人に戒を授け送り出す場所であり、日本古来の風習から言うなら、故人に感謝し称え、来世に向けての指針を示す場所であり、決して悲しむためだけの場所ではありません。

わかりやすい言葉でお経を唱えたら良いのでしょうか?
その通りですが、日本語にしてしまうと意味が違ってくる場所が多々あります。
そのために、お葬式には「引導」と呼ばれる、個人に向けた言葉を要約した文を読みます。
後ろに座る方々には、どういう心持ちでいて欲しいかを「説法」「説教」といった形で示すのです。

ちなみにウチのお寺では、お経本を配ってみんなで一緒にお経を唱えています。

修行をしたいとおっしゃっていたzenshuさんのお言葉ですから悪意はないと思います。

ただ、お金儲けがしたいなら、私は僧侶なんて頼まれても選びませんね。

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おきもち

読経を聞かなくて済む葬儀もありますよ。

zenshu様 こんばんは。
長年の人生経験から見たお坊さんとお金の鋭いご指摘、ごもっともです。有難うございます。
うちの寺は檀家が少ないため年間の葬儀も少なく儲ける側の立場でお答えできず申し訳ないです。

都会の相場はさておき、福井ではお坊さんの布施よりも親戚の食事代、葬儀の祭壇代にお金をかけることも多いです。
なので、人生で今まで何にお金をかけてきたのか、これからの葬式ではどこにお金をかけかを日々のお参りの中で話せる関係を持ちたいなと思っております。
その上で坊主丸儲け路線でも承知できるのか、ローコスト路線で行くかを各御門徒さんに決めて欲しいと思っております。
昔と違い、誰もがシャネルのスーツより高い衣で看送って欲しいとは私も思っていません。
自分は儲けたつもりでも、死んだ後、息子や孫に愚痴を言われても経験上辛いので、
今まで先人が大事にしてきたことと、個人の思いの折り合いがついた方法で葬儀を行えるのが理想ですね。

また、読経が耳障りとのこと。
同じ思いをされた先人がいたようで、読経前に焼香して帰っても良い廻り焼香というシステムがあります。
福井では読経に悩む必要はないです。

あと、仏式で看送った人がいるなら分かるのですが、葬儀の手順の中で読経がない事も多いですよ。
人が集まる通夜と告別式が一連の流れでは目立ちますが、個人的に悲しみがとても深いと感じる以下の三つの場面。
納棺(着替えと棺に入るとき)、告別式後の式壇の花を棺に入れるとき、斎場でスイッチを押すとき、
などは読経してないです。
(本当はその時に綺麗な声で賛美歌のような読経をするといいんでしょうが、葬儀は悲しみを煽る場ではないのでそこを勘違いされても困りますね。)

お経の内容を知りたいと思ってくださるのはとても有り難いです。
ですが、意味が分からなきゃ救われないのか、理解力や判断力が劣る人は救われないのかと言われると、葉っぱの擦れる音でさえも音楽として浄土を思い浮かべるキッカケになるといいねという経典をよりどころにしている立場なので、、、
法律は理解しなきゃ使えないと言われるのもごもっともなのですが、賢い人が都合よく改正される法律に振り回され、落ちこぼれる人たちも私はたくさん見てるので法律の例えはカバーしきれない部分があると思います。

若輩者が生意気言ってすいませんでした。

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泰庵  一法
「変えるべきは自身ではなく歩む方向」「時間とお金の使い方」「向きが変われば...
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6月24日追記

私も以前は同じ疑問を持っていました。
実際に日本語訳のお経を読むことは可能ですし、個人的にはやってみたいと思っています。
ただ、セレモニー、儀式としては、全部日本語訳で読んでしまうと間延びしてしまうのです。そういう意味では、「ありがたみ」を演出しているのかも。
また、お経を読むのは修行の一つであり、セレモニーでは、普段やっている読経の修行を行い、その功徳を捧げているという面があります。
功徳とは、修行によって心に善い癖が貯まること、またその善い癖のことです。仏を敬い仏教の教えを念じる読経は、功徳がありましす。意味がわからなくても信心を養うだけでも。
お経は、翻訳すると原文の意味とニュアンスが変わる可能性があるので、後世に伝えるのには、原文のままで皆で声を合わせて暗唱する方法がよいのです。
仏教ができた同時のインドは暗記暗唱の文化があり、そのような習慣が活字のできた今日の日本にも残っているのでしょうね。
また、漢文の音読みはリズムを合わせやすいのです。
理想は、ふだんからお坊さんの説法を聞いてお経の意味を知ったうえで、唱えやすい漢文を声を合わせて一緒に唱えることです。
大勢の人がリズムを合わせて読む場合に、木魚などを叩いてリズムをとるのです。
そのような読経の修行が、セレモニーにおいてもそのまま使われているのでしょう。
ただ、引導など、要所要所では、現代人にもわかりやすい言葉を使うようにしているお坊さんが多いです。

なお、私はお坊さんの収入を生活のあてにしておらず、別の仕事をしています。

6月24日追記

悲しみは怒りの煩悩なので、葬式で悲しむことは良いことではありません。
葬式で行っているのは、死者に対して仏教的な導きをすることと、念仏・読経などの功徳を死者に回向して修行の援護射撃をすることです。また、その際に生きている人々にも仏教を知ってもらう機会になります。
昔、日本では死のケガレを嫌って死体に近づきたがらなかったのを、仏教の僧侶が弔ったことが、葬式のルーツと聞いたことがあります。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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ご仏縁、ご法縁をあずかり頂くための大切な儀式

zenshu様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙寺は檀家制度を今のところ廃止しているため、お葬儀をお勤めさせて頂くことはほとんどございませんが、それでも年にほんの数件ながら強いご希望によるご依頼、ご指名がございまして、誠にこの拙生も、浅学非才の未熟者にて申し訳ない限りではございますが、導師をお勤めさせて頂くことがございます。

実はzenshu様と同様にお葬式のあり方に対して疑問に思うところは長年ございました。そこで、拙生なりにお葬式に関することにつきましては、昨年に下記拙論にまとめさせて頂いておりますので、まずご参照賜れましたらと存じます。

お葬式について
http://goo.gl/fBwp0Q

ここで少し述べさせて頂いておりますように、一つは、亡くなられた方に確かなるご仏縁、ご法縁をお結び頂けることにより、悟り・涅槃へと向かうための流れに確かにお乗り賜れるように調えさせて頂くこと、そして、もう一つは、お葬式におけるご仏縁、ご法縁において、ご遺族、参列者の皆様にも悟り・涅槃へと向けた仏道を進めるための一助となるように調えさせて頂くことが大切になるのではないかと存じております。

そのため、参列者の方にもお経本や冊子をお配りして、共に読経したり、御詠歌を共に唱えたりすることもございますし、やはり、お経の内容、授戒、引導の作法などの内容もしっかりとお伝えしておきたいものでございます。

あまり長くなってもいけませんが、お通夜での法話において、必ず葬儀の意義、授戒、引導の内容、お経の簡単な説明をさせて頂いておりますし、事前にお通夜・お葬儀の式次第は喪主の方にお渡しするように致しております。

そして、仏教とは何かということについても、基本的な四法印・四聖諦の内容をできるだけかみ砕いての法話に努めさせて頂いております。

亡き方も遺族も参列者も、このご仏縁、ご法縁が、皆のより善き赴き、仏道の歩みの糧に少しなりともなるように僭越ながらにもお勤めができればと存じております。

そのお布施は、金儲け・ビジネスなどではなくて、ご仏縁・ご法縁を皆があずかり頂くための仏法興隆、仏法護持、一切衆生の済度へと向けて取り組む浄財としてしっかりと役立てていかなければならないものであるかと存じております。

皆共に仏道を成ぜんことを。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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わたしにとって読経は、おしゃかさまと結ばれる尊い時間であります。
葬列に御参列頂いている皆様がどう思われようが関係ありません。
おしゃかさまとわずかでもむすばれたこころを供える。
ほとけの世界へと向かわれる方への私自身の精一杯です。
当山にあっては、葬儀は
縁あって当山が仰せつかっておりますので、当山なりの
精一杯のおしゃかさまへの祈りを務め、おしゃかさまと
おなじ世界へ向かわれる故人様へのはなむけを読経にこめ務めるものです。

読経はたしかに道具でもありましょう。

ならば、それに「祈り」を込めて一心に務める。
わたしにはそれが精一杯です。

あなたさまのおこころが安らかになりますよう、これもまた
わたしなりの「お経」です。
さちあれ。さちあれ。合掌。

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おきもち

質問者からのお礼

お坊さんがた回答ありがとうございます。

ですが勘違いしていることがあるので、訂正しておきます。
まず、私はお葬式はお経を❝理解❞する場とは思っていません。葬式は葬式です。

みなさん、お葬式はお経を❝理解❞する場ではないと口を揃えて言います。そのとおりでしょう、ですが葬式はお経を読む場でもないはずです。
私は何故お坊さんがそんなことをしなければならないのか、その行為に実質的な救いはあるのかと聞いています。

同じお経を聞いても、ありがたいと感じる人もいれば、雑音にしか聞こえない人もいるということです。
これはおかしい。意味がわからなければただの音です。お経を音楽に例えるのはおかしい、お経は音を楽しむものではなく内容に意味があるものだからです。
法律の条文は歌うものではないのと一緒です。法律の内容は理解しないと使えないのと同じです。内容を理解しなくてもいい音楽で例えるのは間違いです。

人によって受け止め方が違うといいますが、
インチキ医者が手術が必要な病人に手術をしてもいないのに手術をしたと言って治療費をもらい。
病気が治ってもないのに、インチキ医者が「自分の治療には意味がある何故なら自分が手術をしたと言ったおかげで患者の気分が良くなったんだからそれでいい」と言うようなものです。こんなものは詐欺です。

みなさん論点ばかりずらしてきちんと自分の質問にきちんと答えていません。

丹下覚元さん、自分の問題点を発見していただいてありがとうございます。

ですが見誤っていることがあるので、訂正しておきます。
<言いたいことがあってもずっとこらえて我慢してきた…自分に嘘をついている
これは憶測からくる勘違いです。
我慢などはしていません、何故なら我慢などする理由がないからです。葬式は馬鹿馬鹿しいと思って行くのは大昔にやめたので我慢などはしていません。
最近外国人のカソリックの知人が死んだので、ふと気になったので聞いてみただけです。
自分に嘘???などはついていません。

<どこかしら批判めいたところがある
悩みは解決したいです。なぜなら幸せになりたいからです。ただ今回の質問は悟りとは別の質問です。

丹下 覚元さん、自分が思考中毒な理由は知っています。
思考もしないと困ったことになると思っているからです。
常に全方位に警戒して、先の先まで読んで行動しないと抜きさしならない状態になると思っているからです。色々あれこれ知りたがるのも、正しい判断を下すために必要だと思っているからです。
適当に、何も考えずにやっていたら、幸せも不幸も運任せになってしまうと思っているからです。
以前非思慮になったら事故にあってすぐ死んだりしませんか?と聞いた時返事をいただけませんでした。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ