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災害の意味について

回答数回答 7
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お願いします。

災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。

記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。
もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。

明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。
私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。

何か意味があるならばお考えを教えて下さい。
それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

すべては人間が意味を持たせているのです

亀山純史と申します。
大震災のような災害には何らかの意味があると主張は、そう主張する人がそう意味づけをしているにすぎず、そこに神の意志などは働いていないと見るのが仏教です。仏教ではどのような事柄も、「因縁によって生起する」と説きます。さまざまな因縁によって物事は起こるのです。
しかしながら、その意味付けの全てが無意味であるとは、私自身思っていません。それは、私たちにとって有益な場合、心の慰めに繋がる場合もあるからです。たとえば、平安朝の女流歌人の和泉式部が幼い我が子の死を悼んで詠んだ、「夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり(意味:幼くして逝ってしまった我が子は、この私にこの世の無常なることを教えるために、生まれ、そして死んでいった仏様だったのだ。)」は、震災で幼子を亡くした方にとっては心の慰めになるのではないでしょうか。
なお、ご質問中にあった「私たちは乗り越えられる試験しか与えられない。」という考えは、キリスト教のように神を信仰する人(この世には神の意思が働いているとする人たち)にとっては、有益なことなのかも知れません。

さて、仏教がこの世の未来を願うことは何の意味も持たないのでしょうか。もちろん、未来の平和を願っても、現実社会にその願いが届く保証はどこにもありません。しかし、願いがないところに、意志はなく、意志のないところに行動は起きないと思います。たとえば、仏教には四弘誓願と呼ばれるものがあります。菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願(「衆生無辺誓願度-上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願」「煩悩無量誓願断-煩悩は無量だが、すべて断つという誓願」「法門無尽誓願智-法門は無尽だが、すべて知るという誓願」「仏道無上誓願成-仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願」)のことです。これらの願いに基づき、悟りへの道を歩もうとする意志が生じ、そして行動が生まれるのです。

以上が私からの回答です。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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「わたくし」を中心としたビジョンを離れる 仏見

災害そのものは、災害と呼ぶ以前に、自然現象である側面があります。
今日もどこかで火山が噴火しています。
地震が起きています。
地球が活動しているからです。
そこに住まわせて頂いているのが、我々人間をはじめとする生物です。
宇宙、地球の活動には一切<わたくし>がありません。
私的な動きは何もないのです。
無我にして、無色にして、無私。
人間の願いや望みとは無縁な在り方で活動しているのです。
私は、内臓を患っていますが、内臓も自分の意志とはまるで無関係な動きをしています。
自分が触らずとも動いています。
あなたも、まず、自分の体をはじめ、世界の活動の全てが、自分の意志や、願望、願いとは、ほぼ無縁な在り方として、活動しているということを実感してみてください。
そうすることで第二の人生が始まります。
この<わたくし>を中心とした活動ではなく、わたくしではない、事実、世界が中心となった活動。
わたくしが無我になって、世界と一体になった活動。
この天地にお任せした生き方。
それは、実は大変安楽な生き方なのです。
まかせる、わたくししない、持ち物を持たない。
そういう在り方があるものなのです。
人間はそうすることによって、はじめてあなたのような負の思い方から解放されます。
そうした上での、願いや誓い、誓願は大変尊いものです。
「わたくし」を離れた在り方だからです。
仏教は「わたくし」を離れたビジョンです。
「わたくし」を中心としたビジョンであると苦楽や好き嫌いが生まれるのです。
「わたくし」を離れる所、ただ、その通りの事実が展開します。
人は考え方では救われません。
人間の考え方、思い方を離れた、私的な見解の無いありのままの「事実」に出会った時、あなたは本当の答えを見出します。

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災害に意味はない

確かに災害により身近な方を亡くすということは,悲しいことだと思います。

しかし、その災害自体は、条件がそろったから起きるだけのことであり、そこに意味をつけるのは人間のエゴのように思います。

人は、地球上の頂点に居るような気持ちになっているところがあります。人間の世界しか見ていない。
しかしもっと大きな命の働きの中で生かされているということです。

もっと私たちは、地球を大切にするべきだと思います。夜の街は明るすぎます。もっと電気を使わないように暗くしてもいいでしょう。
そうした身近なところから地球を大切にしていくことが大切なのではないでしょうか。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す...
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この大地は誰のもの?

indigoさん、こんばんは。

私たちが生活している大地はどうやって出来たのでしょう?

そう、私たちがその上に住んでいるものの立場から言う「災害」によって造られているのです。

地殻変動、雨、風、暑さ、冷さ、森林火災、それらを何億年も繰り返して出来た地球の大地の上に、我々人間が我がもの顔で、それらを「災害」と呼んで「悪」のように扱っているだけのことです。

自然の意思で出来上がった大地の上の、都合の良い所を勝手に選んで、そこに勝手に線を引いて、ここからここまでは俺のものと主張しながら、勝手気ままに使っているのが我々人間です。

どんな善人でも、どんな悪人でも、自然の前では差別はありません。

ただし、自然災害を人間が誘発しているのも事実です。

人間が「便利」という「欲」にとらわれた報いなのかもしれませんが、恐らく、文明を過信しないで自然と共存していても、大なり小なり避けられるものではないと思います。

まして我々は、この大地自体を壊し続けているという現実があります。

我々が「全体で」この大地の上で生活させていただいているという受け身の共存を考えない限り、この自然を壊し続ける人間という存在は、この大地から言えば、十把一絡げに「悪」と言わざるを得ないでしょう。

自然から言えば、人間の方が災害なのかもしれません。

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よかったら聴いてください

仏教の、ことに亀山様と同じ浄土真宗に属する私自身の立場からは亀山様と同じ観点からしかお答えできません。例えば、親鸞聖人は、「生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう」とおっしゃっています。

そこで、東北のキリスト教牧師で震災救援活動を続けておいでになる川上直哉先生のお話しをご紹介したいと思います。この方が出演なさっているラジオ番組Cafe de Monkは牧師様、お坊さん、お医者さんその他、数多くの震災とかかわっているが出演されているよい番組です。youtubeで拝聴でますので、聴いてみて下さい。川上牧師のお話。
https://www.youtube.com/watch?v=FuyigppMa9Q
私は何度も聞き返しています。

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私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な...
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災害は縁起で起こるものであり娑婆世界の自然現象です。

そもそも「災害」と言っているのは人間です。
全てはこの世の自然現象なのですが、私たちにとって害になることを災害と呼んでいます。

この娑婆世界には自然があり、時に自然は命を奪います。
そして私たちは輪廻してきて、前世の行いの結果としてこの世界に生まれて来ました。
生まれて来たからには仕方がありません。
人間であり続ける限りこの自然の摂理から逃れることはできません。

逃れる方法は唯一輪廻から解脱し成仏することです。
だから仏教のどの宗派も常に成仏する方法を説いています。

「この世の未来を願うこと」についてですが、仏教では人間世界は迷いの世界だと言います。
どれだけこの世を良くしようと努力しても迷いの世界であることは変わりません。
当然、政治や道徳ではこの世をよくすることを目的としています。
仏教もその一旦を担っていますが、本質的には少し違います。
この世は娑婆世界であり行き着く所、この世には絶対的な安穏な場所はないとしています。
この世をどれだけ良くしようとしても終わりはありません。
人間が集まれば、右を立てれば左が立たずという現象になりますし、自然の猛威に対してもなすすべがありません。

もちろん、だからと言って何も努力しないのもオカシイと思いますが‥。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」

indigo様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

既に回答も出揃ってはおりますが、以下は一つの参考として頂けましたら幸いに存じます。

実は、かつて「震災天罰論」というとんでもない論がございまして、その批判のために、かなりご質問の内容について考察したことがございます。以下がその内容となりますが、またお手隙の時にでもそれぞれお読み頂けましたらと存じます。

【大震災・空と縁起と】(1-11)
http://goo.gl/IZmwpq

これまでの天罰論に関しましての私見関連考察 【大震災・空と縁起と】(12-47)
http://goo.gl/gPGHG8

天罰論に関しましての私見関連考察、【大震災・空と縁起と】
(48-72)・完結
http://goo.gl/w58ILI

天罰論に関しましての私見関連考察の追記
http://goo.gl/RXoLhO

また、災害に関しましては、下記の拙回答もご参照して頂けましたらと存じます。

問い「自然災害が怖いです」
http://goo.gl/rDTQ7q

『・・自然の脅威には逆らえない・・それを受け入れるのも必要なこと、無常の理趣を認めるべきだと。もちろん、後々に後悔しないためにも防げることであるならば、防ぐことに努力するのは大切なことです。防災・減災にできる限り取り組むべきであります。しかし、どうにもならないことは、本当にどうにもならないのだと受け入れて諦めることも大切なことでございます。・・』

また、災害は、私たちの八苦の一つの「怨憎会苦」にあたると言えるのではないかと思っております。

『・・良寛禅師は、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ」と述べられておられます。災難にあっても、しっかりとそれはそれとして現実を受けとめて、冷静にその時にできることをできる限りに対処していくことが肝要となります。いまだ起こってもいないことにあれこれと思い悩んでも詮無きこと、杞憂なることでしかありません。とにかく目の前の現実の一つ一つと真摯に向き合って、なすべきことをなしていかないといけないという次第でございます。・・』

以上、引用ばかりにて誠に申し訳ございませんが、ご参考までにて失礼致します。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

亀山純史さま
ありがとうございます。人の都合で良い、悪いを勝手に意味つけてしまっているのだと思いました。
今までは災害に意思があるのではと思ったのですが、そうではない視点から考えてみます。

丹下 覚元 さま
ありがとうございます。自分の意志から離れた世界の捉え方、ここまで生きてきてそのような考えを持った事がなかったため、大変難しそうにも思うのですが、そのような意識のもとで考えられるように意識を変えてみたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ