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私は韓国の判決が許せません。

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仏教に、盗まれた相手の許可なく、泥棒のを横取りしても良いという教えがあるのでしょうか?
報道を視て、韓国の仏教には、道徳や理性がないのかと思うと悲しいです。

長崎県対馬市の観音寺の前住職が怒っていましたが、お坊様が怒っておられる姿を初めてみました。
このままでは、仏様も悲しまれていると思われますし、とても悲しいです。

対馬だけではなく長崎や他でも韓国人の盗難事件があり、東北では仏様やお稲荷様が韓国人に多数、破壊される事件も起きています。
これでは、下手すればの宗教戦争です。

どう思われますでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏を“盗んで”祀ってもその人たちに仏心が宿ることはない。

まず、お坊さんが怒っているのは私憤ではなく公憤でしょう。
あの方でなくても、泥棒行為を「是」とすること自体おかしなこと。このご時世において泥棒行為を良しとするならばピコ太郎さんのPPAP権利問題だって俺のだと主張するあの欲張りな人のものになってしまうというトンデモ事態を容認することになり、世界中がむちゃくちゃになります。
その仏像を巡って何百年という歴史の背景があった・に・せ・よ!ここ百年以上にわたって代々管理をされてきた仏像を「無許可に」「勝手に」「承諾なく」「話し合いなく」持って行ってしまうという行為はどこの国の誰が行うにしても、仏心からほど遠い強奪行為、泥棒行為にほかなりません。
ましてや仏像という泥棒行為をしてはならないと説いているお方の像を泥棒行為で持ってっちゃうっていうその感覚自体が宗教心でも仏教心でもないということを彼らは気づかないといけません。
自分たちさえ良ければいいんだという関係性を無視した泥棒行為によって手に入れた仏像を祀り上げてもその行為が本質的に仏教ではありません。世間も認めてはくれないでしょうし、俺のだ俺のだと言っている心自体がすでに仏心からほど遠いと感じます。
ここからは私的な意見ですが、そういう仏像は与えてしまってよいと考えます。
お釈迦さまは奪い合いを是とされないことでしょう。
日本と韓国の関係が悪くなるようでしたらむしろ差し上げればよいのです。
人には本来、誰にも奪えない仏心があります。
そこに気づかずに物質の中に仏心があると思っている人たちは厳密には仏教が始まっていないともいえるのです。
子供を取り合っている母親双方にその子供の手を引っ張り合いをさせた結果、その子供が「痛い!」といった時に、手を放した方が本当の母親であったという仏教説話が示すように「仏の心が損なわれないよう」に扱う人たちこそが真の仏教者なのです。
だから、私どもは手放せばよいのです。
仏は仏や仏心を敬う人たちの心に宿るものです。
物質と自我を愛する人たちの心には宿りません。
彼らがやっていることは、自分や我欲を満たすことを愛する行為であって仏の心を愛する行為ではありません。自分たちの仏教心がズレていたということに気づける日が来るまでの勉強機関として提供すればよいと思います。
私のお寺の仏像でよければ差し上げても良いです。
互いに真の仏心に目覚めてまいりましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

他人のふり見て我がふり直せ、という諺があるように、私達はただ正しい行いを心掛けるのみです。

仏教の実践に仏像は必要ではありません。

ただ、仏教の実践とは感情をコントロールして理性で考えることです。
それができていない泥棒や関係者達が、彼らの為にも、早く仏教を学び実践して欲しいと願います。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

仏教徒として信仰を持って

拝読させて頂きました。判決内容については詳細を確認しておりません。
が、しかし盗みは罪であることは共通認識したいと思います。
対馬のご住職様がお怒りなさるのももっともかと思います。自分のお寺で起きたら大変なことですからね。
双方の主張があるでしょうから冷静になり、しっかりと経緯を調べてみて、共に仏様を信仰する者として、仏様を敬いながら今後を考えて頂きたいと思います。
仏像は仏様本体ではないでしょうが、私達にわかりやすく仏様のあり様を見せてくださいますからね。
仏像は有難い存在ですから。
仏教徒として良心に従って対応して頂きます様にと切に仏様にお祈りしております。

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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

法律という名のゲームの話。怒りは不要。

仏教では、怒りの煩悩は悩み苦しみの原因だと考えます。
ですから、どんな理由があろうと、自分が正しかろうと、怒りは手放した方がよいのです。

韓国の裁判での判決は、日本人の感覚から言うとおかしな気がします。
しかし、裁判というのは、法律というルール上のゲームの試合なのです。
勝っても負けても、スポーツ感覚でよいのです。
負けた場合にリベンジ(控訴)するのも、スポーツで負けた選手がリベンジする感覚でいきましょう。
選手同士は戦いますが、べつに恨みはなく、ルール上で対戦しているだけ、という感覚でいきましょう。
俗世間の裁判は、総てそんな感じいいと思います。
不服申し立てや批判はすればよいですが、そのときに、憎しみや怒りは不要です。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

ありがとうございますm(__)m

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