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「蜘蛛の糸」について

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私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品が、昔からいろいろに解釈できて、ずっと不思議に思っていました。

最初に読んだとき(子どものとき)は、
①カンダタは莫迦だなあ、自分ならきっと、みんなと力を合わせて、みんなで極楽にたどり着くのに と思った

ちょっと時間がたって(思春期)
②どうせ私もカンダタと同じだろう、きっと誰でもエゴが勝ってチャンスをだめにしてしまうに違いない と思った

またしばらくして(反抗期)
③お釈迦様って何様なんだ!(お釈迦様だけど。)教養もなく悪人として生きてきたカンダタを、カンダタが成功しそうにない極限状況で試すなんて。助ける気なんかもともとないじゃないか、この話に正解も救いもないじゃないか と思った

また少しして(青年期)
④カンダタが蜘蛛の糸を見ても登ろうと思わないくらい達観していたら、もしくは落語の江戸っ子のように、「一度地獄に落ちた身分の自分が、いまさら蜘蛛の糸などにすがってたまるか」と居直っていたら、お釈迦様は確実にカンダタを助けていたのかも と思った

そして今(中年期)
⑤芥川が絵本として子供向けに書いた以上、一周回って、①の子どもらしい慢心(カンダタを通した戒め)が作者の意図した一番素直な読ませ方なのでは とも思う

そこで質問です。

カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすればよかったのでしょう。
回答者陣のお坊様方は、自分の仏教に関するすべての見識や体験をふまえたならば、助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか?
それともこれは、カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか?
その他、この作品に対してどう解釈しますか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

狸田さんの考察はなかなか深いですね。
この話は狸田さんの言う通り様々な解釈ができますね。
私もお坊さんになる前は、自分さえ助かればいい、自分だけでも助かりたい、そう思った為に再び地獄に落ちてしまった。つまり、自分の事ばかり考えてはいけないという戒め、と思っていました。

しかし今は少し違います。

カンダタは私達と同じ普通の人間なのです。そして、ただただ怖かったのです。細い糸が今にも切れそうで。再び地獄に落ちたら苦しまなければならない。次にチャンスがあるのは何百年後になるか、何千年後になるか分からない。
ただ怖くて怖くて思わず足元の糸を切ってしまったのです。
仕方のないことなのです。
私達が同じ状況にさらされたら、おそらく同じことをしてしまうと思います。

ではどうすればいいのでしょうか?

教えてあげればいいのです。
その糸は特別な蜘蛛の糸だから何百何千人掴まっても切れないよ。だから心配しないで。その糸を信じてゆっくり登っていきなさい。と。
教えてあげたらカンダタの行動は違ったでしょう。下にいる人達に、頑張れー!と励ましたでしょう。

この教えるという事が、仏教の布教や説法に当たるのです。怖がる人や苦しむ人、悲しむ人に仏様の教えを教える。それがお坊さんならびに仏教徒の役目なのです。
その役目をしっかり果たしなさいと、この話は伝えているのです。
お坊さんになった今では、このように解釈しています。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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心の闇が末期ガンのようになる前にお寺に来て欲しい

あれって児童文学なのですね。それならやはり①なのでしょう。ただ、どうもこのお釈迦さまは仏教っぽくないのですよ。ググったらやはりウィキペディアに「類似の物語」として面白いことが書いてありました。

まぁ、それはそれ。以下は原作の解釈ではなく、私なりのアンソロジーならどうなるかという話です。

お釈迦さまは救い主ではありません。カンダタの心の中の良心の象徴です。地獄も死後の世界ではなく、彼の心の闇の象徴です。

罪を重ねてきた人生…人を傷付けた分だけ、自分自身も傷付けてしまいました。罪悪感に苛まれる毎日。まるで地獄の日々です。その現状を払いのけるかのように振りかざした手は、また罪を重ねていました。

…救われたい。。。こんな俺でも、あの時クモを殺さなかったじゃないか。俺だってなぁ、あんな心が有るんだぜ。あんな生き方をしようと思えば出来るんだぜ………変わりたい。。。
救われたいけど、こんな俺が救われて良いわけがない。変わりたいけど、俺はもっと苦しまないといけない。そんな救いを求めつつも自分を嫌悪し、卑下する思いを蜘蛛の糸の繊細さが象徴します。

一方、清く正しく生きる自分を想像した時、鳥肌が立つような悪寒が走ったかもしれません。変わりたい…でもあんな風に生きてたまるか…矛盾する思いが矛盾なく共存するドロドロとした思いを、身体にまとわり付いて離れない蜘蛛の糸の鬱陶しさが象徴します。

愚図愚図いわず、悪を止めてしまえばかえって楽なんです。でも、1人で止められないのが人の性(さが)。だから出来るだけ悪循環が軽いうちからお寺に通って欲しい…

悶々とする日々の中で他人の人生に触れ、彼は気付きます。周りの人たちも悩み苦しみ、後悔しても繰り返し、惨めな自分に無理にでも価値を見出そうとしながら生きている。
自分だけが苦しんでいるわけではないと気付いた時、彼は他人と自分を比べ、蜘蛛の糸のようにか細い自分の変わろうとする姿勢が、価値の無いものに思えます。
そして彼は心の平衡を保つため、周りへの評価を堕とします。人々の姿に自分への嫌悪感を重ね合わせます。…じゃあ、俺が人並みに真っ当になる意味って、何?みんな闇を抱えて生きているなら、俺が変わった先が同じように闇であるなら、変わる意味って何?救いって何?真っ当って何?罪って何?
その瞬間、彼の心の中で何かがプツリと切れました。そして彼は………

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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私を地獄には落とさない仏様がいらっしゃいます。

 「蜘蛛の糸」は小説であって、仏教童話ではないように思います。
 記憶は曖昧ですが、カンダタが他の罪人と一緒に再び地獄に落ちていく姿をご覧になったお釈迦様は「少し悲しそうな表情をされましたが、また朝のお散歩をお続けになりました」…小説はこんな一節で終わっていたと思います。
 このお話にすくいはありません。
 浄土真宗での受け止め方にはなりますが、「地獄に落ちた者をカゴに乗せてワイヤーで安全に引き上げて下さる」のが仏様…ではなく、「端から地獄に落とさない、落とせない」のが仏様と頂いております。
 普段 私のやっていることは地獄行きの行ですが、この私がみすみす地獄に落ちていく姿を見ていられないのが仏様。だから地獄に行くしかない私は、浄土の仏と生まれさせて頂くのです。
 これ以上の不思議はありません。
 又これ以上有り難いことはないと頂いております。
 尚、これはあくまでも、浄土真宗での受け止め方ですので…念の為。

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「この蜘蛛の糸はオレのものだぞ」で失格

こんばんは。

 私は国語のテストで「作者は何を言いたかったのでしょう」という問題が嫌いでした。分かるわけないじゃん。実際、文章を書いた作者が「作者は何を言いたかったのでしょう」という問題やってみたら、答えられなかった、という事もあったそうです(笑)

 ですので、書かれたものをどのように解釈しても自由です。①~⑤、どれもごもっとも!だと思いました。

 さて、私の解釈ですが、蜘蛛の糸が切れたのは、カンダタが「この蜘蛛の糸はオレのものだぞ」と叫んだ瞬間でした。お話の流れで読者は、お釈迦様がカンダタのために垂らした事をわかっていますが、実際のカンダタは、たまたま目の前に蜘蛛の糸があるのを発見しただけです。それなのに「オレの糸だ!みんな下りろ降りろ」と言ったのです。
 地獄は、欲深く、人に与える事をしない人が行くところです。せっかくお釈迦さまが助けようとしたのに、カンダタは「オレのものだ」という欲を捨てることができなかった。だから地獄に戻されたのだと思います。

 カンダタが上まで上るには、欲を捨てる必要がありました。カンダタにアドバイスするとしたら、『欲を捨てなさい、施しの気持ちを持ちなさい』ですかね。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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狸田さま

わたしはこのお話は、自分だけが・・・という
自己中心的な思い、行為は、結果自分を苦しめること
になるということがテーマかと思います。

「カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすれば
よかったのでしょう。」

自分も他の人も別のものでありながら、一つのもの
でもあると気づくこと、このお話で言えば、
自分の糸だと言って、他の人を排除しようとしなければ
良かったのだと思います。
もちろんそれは私たちにとっては難しいことだとは
思うのですが。

「助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか?」

天国とか地獄とか、善と悪、上と下・・そうゆう相対的な
考えで世界を見るのを止めるといいと思います。
そうゆう見方をしてしまう眼鏡をかけているのに、
掛けていることを忘れた状態に私たちは在ります。
この世界にもともと天国も地獄もありません。
人の意識が言葉と意味を使って作り上げています。
言葉と意味の世界以前に、一歩手前に本当の世界が
広がっています。そこに気づいてください。
それを感じてください。そうすれば、地獄は消えます。
天国も消えます。

「カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか?」

どうやっても助からないという話ではないと思います。
助かる、助からないという以前に私たちは救われた世界にいる
ということで、それに気づけないでいるということだと思います。
このお話で、最後お釈迦様が悲しいお顔をされ、ぶらぶら
歩いて行かれた、とあまり気にも留めなさそうなのは、
基本的には救われている・・・そうゆうところから来ている
ように思います。なんとなくですが。

「この作品に対してどう解釈しますか?」

天国も地獄もお釈迦様の垂らした一本の糸で繋がっています。
カンダタも下にいる沢山の人も一本の糸で繋がっています。
天国と地獄、カンダタと下の人、自分と排除される人、
対になっていますけど繋がったものとして表現されています。
「対立、分離という相対的なものの見方は、苦しみをもたらす
ということ、救いはそうした見方を離れ、みんなひとつ
ということに気づいていくところにある」と解釈しています。
カンダタが悪いことを沢山したのは、カンダタ自身が悪い人
ということではなく、対立、分離するものの見方を
していたことが原因ということでもあると思います。

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おきもち

地方の小さい町の小さいお寺の住職をしていました。
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質問者からのお礼

質問に回答していただくご縁があって、大変ありがたく思っております。若いころは、この作品について、国語の先生ならまだしも、お坊様(しかも複数の)にお伺いできるなど夢にも思わなかったので、本当に感動しました。

聖章 様

カンダタが恵まれていなかったのは、仏教も含めた「教養」でもあるのだなあと思いました。列に並んで順番を守る(そうしたからと言って損はしないということ)、シェアする(みんなが確実に得する保証をしあう)、信じる(自分の野生の勘だけでは正しくなく、教えられたことを信じる)ということなど、野生の状態でなく一つずつ学んでいくという人生に恵まれていなかったのだなと思いました。だから、幸せになるために、教えようよ、学ぼうよ、とこの作品は言っているのかなと私も思えてきました。
ただ、野生の状態でも、蜘蛛を助けることくらいはしていた。
だからお釈迦様は、「カンダタは次にチャンスを与えられてもやはり『助ける』ことを直感的に選ぶのでは」と思って糸を垂れ、「もしかして何人も助けて上がってきたりして…そしたら嬉しいなぁ」なんて思っていたのかもと思ったら、今まで考えもしなかった新しいことが見えてきて、わくわくとしました。
ありがとうございます。

小林 覚城  様

私は、最後にお釈迦様が、カンダタを助け損なった(←ここで無意識に、お釈迦様の失敗だと思っている)のに動じていないことに、若いころはブーイングの気持ちでした。ちょっと悲しんで、散歩もふつうに続けてるし!と。
でも、このサイトが「蓮の葉」と名付けられ、たくさんのお坊様が質問者に、蓮の葉の世界からつつ~、つつ~と、救いの有難いお言葉を銀色の糸のように投げかけているのを目の当たりにしていると、「助け損なった」などという表現がいかに非道いか自然にわかってくるのです。糸=お言葉を受けてその後の行動を決めた者に責任があるに決まっているじゃないかと。
救う側にミッションがあるわけでは決してないと言うか…。
新しい考え方に、本当にわくわくとしました。
ありがとうございます。

光禪 様

他の方の回答からも感じましたが、お釈迦様は、「何人上がってこようが構わない」と思っていたのでしょうね。私は、カンダタの下で糸が切れるならまだしも、カンダタごと落ちるんだ、ということに、がーんとショックを受けた記憶があります。
お釈迦様は、カンダタを見て、「カンダタをきっかけに多くの人が救われるかもしれない」と期待したのかもしれないのですね。
それは、「自分をきっかけに多くの人が救われれば良い」と思って過酷な修行や人生を送られてきた数々のお坊様方、仏教関係者の方々への、お釈迦様のまなざしに通じるところがあるのかもしれないと、今回教えられた思いです。
「興奮した」と書くと、なんとなく仏教の表現としては強いのかなあと思いますが、どの方の答えにも興奮するというか、「わくわく」とします。
ありがとうございます。

大慈 様

スリリングな筆力に引き込まれてしまって、正直蜘蛛の糸とはもう別物というくらい新鮮に、ドキドキしながら読みました。心が猛スピードで荒れている主人公が伝わってきて、山月記を読んだ時の気持ちまで思い出しました。タイトルの「末期がん」という言葉は、心の闇が進行していくイメージや、もはや戻れないところまで進行してしまったら、治るというより苦しみを取り除くしかないという例えなのかなあと、いろいろ考えながら読ませていただきました。
「苦しみ」の中には、例えば生まれたところにお金や教育がなかったとか、そういうものもあれば、「自分は生まれながらに悪いもの、善く生きるなんて考えられない」と決めつけて進行する苦しみもあるのかと、これも今初めて気づかされました。そして、「善い」という状態をおぼろげにでもイメージできるのに自分にその資格がないと思うこと、それはどんなに苦しいかと思うと、大慈様の文章力と相まって、ぐっと胸が詰まる思いがしました。

ありがとうございます。

法演 様

hasunohaを通して私がすごいなあと思っていることと、こちらのご回答はとても似ているように思いました。
私の祖母にはお坊様の茶飲み友達がいて、祖母の足が不自由になって外出できなくなってからも、お坊様が訪ねて下さって気晴らしのお話をたくさんして下さいました。その方とその息子さまが二人でお経を唱えると、同じ声質で音が3度ほど違って常にハモるので、祖母が亡くなったとき、そのハモリお経が本当に感動的で、「讃美歌のようだと思って感動してはまずいのかしら」と思いながら、祖母のために有難くて泣きました。
そして、私は祖母の時代と違って、お坊様の茶飲み友達ができる世代ではないのだろうな(もはや仏教儀式が身近ではない)と思っていました。現に息子の方のお坊様とは同年代でも、私は気さくに話しかけられませんでした。
ところが、私は今、インターネットのおかげで、自分宛であろうとほかのQ&Aの閲覧だろうと、お坊様の言葉と明らかに豊かにつながっています。
これってすごいなあと感動します。
インターネットってもとは軍事、戦争の情報伝達のために作られたものですよね。
でも、もはやお釈迦様はそのツールが蜘蛛の糸替わりに使われているのを微笑んで見守っているような気がします。
このことも、すごいことだなあと思うのです。
「明らかに神々しい側」と、「明らかに悪い側」というものはないということ、何かと対立していると決めつけてはいけないこと、それから普通に日常の場面で、「つらくても一生懸命やってると、見ている人がちゃんといる」というようなことも、この作品に詰まっているのですね。今まで「極限の世界」と思い込んで読んでいたのだなあと気づかせていただきました。
ありがとうございます。

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