罪を告白すべきか悩んでいます
医療系の専門学校に通っております。
一年前にカンニングをしました。
専門学校ではよくあることで、先輩方から過去問というものが流れていました。その問題と同じ問題が一問目に出ました。その問題の答えは全部覚えていて、クラスの他のみんなもそうでした。しかし、私は過去問の問題文を読んでおらず、答えだけ覚えていたので、その答えを全部書けばいいのか、一部分だけ書けばいいのかで迷いました。
他の人と差がつきたくない一心で周囲の席の人の解答を見てしまいました。すると、全部書いていたので、全部書きました。
そのときに、このまま終わるか、やっぱり書き換えるか、迷いました。
でも、そのままにしました。
すごく後悔してます。
そのときもすごく後悔したけど、他のテストで手を抜くことで自分を納得させ、二度としないと誓いました。
でも、カンニングは見つかったら、一年の単位を全部なくす処罰があります。
自分はその処罰を受けていません。今、先生に告白して罰を受けるべきでしょうか。
そのことでとても悩んでいます。家族の信頼、先生の信頼、彼女の親の信頼全てを裏切ることになり、これまで奨学金で学費を払っていたので、莫大な借金が残ることになります。
でも、ずるをした自分がこの資格を得てもいいのか?
もし、その一部分の成績だけで、差が出て、他の人が就職したかったところに自分が受かったりしたら、その人の人生は?
彼女に愛想をつかされるのでは?
彼女と結婚するつもりだったけど、彼女の親にも認めてもらえなくなり、別れるしかなくなるのでは?
このまま人生を生きて、自分は楽しく、自分に自信を持って生きれるのか?
様々なことを考え、どうすればいいのか分からなくなってます。助けてください。死んだ方が楽なんじゃないかって思うけど、周囲の人を悲しませるのも嫌です。
読みにくいとは思いますが、お願いします。
嫉妬深い。プライドが高いけどそれを捨てられない。周りの評価ばかり気にしてしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
《過ちて改めざる。これを過ちという》―『論語』より―
〈他の人が就職したかったところに自分が受かったりしたら、その人の人生は?〉あなたは何て優しいのでしょう。しかし現実社会は「競争」原理で動いています。あなたが受かったので誰かが落ちるでしょう。逆に誰かが受かったら(カンニングしたかどうかは別として…)あなたが落ちるかもしれません。従って、そんなに深刻に考える必要はありません。誰でも「切羽詰まった時」悪いと思っていても、つい「魔が差して」間違いを起こすものです。
確かにカンニングはよくありません。
〈すごく後悔してます。 そのときもすごく後悔したけど、他のテストで手を抜くことで自分を納得させ、二度としないと誓いました〉・・・あなたは十分反省しています。この気持ちをいつまでも持ち続けて下さい。仏様も「一回くらい」お許し下さるでしょう・・・(笑)。但し二度としないように!。なお、「他のテストで手を抜くこと」では❝罪滅ぼし❞にはなりません。むしろ全力を出し「カンニングする必要」のないよう頑張る事こそ❝真の罪滅ぼし❞です。
仏教では❝慚愧心(ざんきしん)=天に恥じ地に恥じる心❞が大切です。くれぐれも、もう二度とカンニングはしないように・・・。
早期発見早期治療
ゆー様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
ゆー様の正直さ、真面目さ、誠に有り難いことでございます。
慚愧、懺悔はもう十分にこのご質問にてなさられました。
大塚芳明様のおっしゃられていますように、二度としないこと、不正をせずとも実力で進めていけるように頑張ることが大切となります。
「死んだ方が・・」まで思われるほどに苦しまれて、不正・過ちの恐ろしさもお分かりになられたことでしょう。
弱い心が出てきたら、またこの問答を思い返して下さい。
医療系の専門学校に通われているのでしたら、これから人を救われる道へと入られることになるのかと存じます。
怪我は何より早い処置、病気も早期発見早期治療が大切となります。
この度は、早期発見早期治療で事なきを得ました。
同じく、できる限り素早い的確な措置にて多くの患者さんを救って頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
その判断は御自身でなさって下さい…
『今回のカンニングの件は許されることではないが、仏様にお手を合わせてお許しを請いなさい。反省して生きていきなさい。そうすれば…』
勝手ながら、そういった回答を期待されているのかと思いました。
坊さんが、いや仏様が許して下さった…そういう思いを得たいのでしょうか。
もう、十分反省したから、御自身がラクになりたいんですよね。その苦悩から、後悔から解放されたいんですよね。
仏様は事実は事実として御覧になるお方です。あなたのカンニングも見抜いておられます。
許すって、仏様にも、他の誰にも出来ないことではないでしょうか。
厳しい表現ですが、御自身で判断されるしかありません。
「仏様は見ているよ」…子供だましの脅かしじゃありません。
行為が自分自身を規定していくということです。
他の誰も見ていない、知らない…でも自分だけは知っている。
行動が自分自身をを作り上げていきます。
今後どういう行動をするかで、あなた自身が変わっていくのです。
厳しいですが、それが人生です。
ただ、今後あなたがどのような行動をし、人生を歩もうが、仏様だけはあなたを見捨てることはありません。それだけは申し上げます。
許しを他者に請うたなら、あなたはその他者の僕(しもべ)となってしまいます。それはしてはなりません。
そして御自身を許すのなら、それは御自身の判断でなさることだと思います。
辛いことを申しましたが、どうか御自身で今一度考え、決断なさって下さい。
いずれにしても仏様はご一緒下さいますよ…。
厳しいことを申したかも知れません。今一度回答をさせて頂きたいと思うのですが、文字数の制限がありますので、出来れば再度ご質問を起こして頂けませんでしょうか。
ご質問をお待ちしております。
自分の行いは自分で引き受ける
ゆー さんのご質問を読ませていただきました。深く慚愧しておられる様子がわかります。でも今、告白したとしてもこの一年間のことが全て元に戻るわけではありませんね。世の中は関係し合って動いていますので、試験の点数もカンニングした結果がそのまま残っています。自分の履歴として自分の中に一生残ると思います。
私も小さいころ、あることでウソをついた記憶があります。何度も告白しようと思いましたが、評価が怖くてそのままにしてしまいました。今から60年前の話しです。そのことで、他の方が被害を受けるようなことはなかったのですが、なぜ言わなかったのだろうと今でも後悔しています。当時の方は全員すでに亡くなっておられますので、対面して謝ることも出来ません。
多分この時、告白して謝っていれば、このことは私の記憶から消えていたでしょう。
でもそのせいで、ウソをつくことや不正を働くことは、ずっと記憶に残り、つらい思いをするのは自分なんだということがわかりました。ですからその後は出来る限りウソをつかないように心がけています。
ゆー さんもこのカンニングの事は、一生忘れないのだろうと思います。自分の行いは全て自分で引き受けなければならないのです。でも、ご安心ください。仏様はそういう私たちを、あるがままの姿で引き受けて下さいます。最後は仏様の慈悲におすがりすればいいのです。
私もいずれお浄土へ往く時が来ます。その時には、対面して謝りたいと思っています。それまでは、自分の経験を生かして少しでも皆様のお役に立てばと思っています。
ゆー さんの今後のご活躍をお念じ申し上げます。合掌