空をつかみたい
空について考えてたら頭がグチャグチャになって何が何だかわからなくなってきました。
全ては同じだとか、無ではなく空だとか、縁起がなんだとか、自然に身を任せるとか、日常生活を大切にしろとか、分別はするなとか…
端的に何が最重要なのか教えて下さい
空を掴むのに最も大切なのは執着を手放すことですか?
でしたらその方法を教えて下さい。
それとも他のことが最も大切なのですか?
何にしろとりあえず何を意識してどうすれば良いか方法を教えて下さい。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
端的に言うなら
まずは宗派について知りましょう。
お医者さんは肥満すぎる人には痩せましょうと言います。
細過ぎる人にはもう少し体重をつけましょうと言います。
痩せましょうという話と体重をつけましょうという話…それは矛盾しているようですが、健康に良い体型を保ちましょうという一本の芯が通っています。
お釈迦さまも同じようにその人その人に応じて、その人に合った方法で仏道を説きました。これを応病与薬や対機説法と言います。そこから派生したのが宗派です。
ほら、すでにご回答なさっている川口師は思想的には密教なので、経論の理解を通じて空に近付くことをお勧めされます。しかし宗像師と邦元師は禅宗なので、頭で考えるとかえって空から離れるとお勧めされます。まったく逆でしょう?
正直なところ、自分のことは一切語りません。でも仏道は教えてください…これではお坊さんもやりにくいということをご理解ください。お坊さんは私の場合はこうです、私の宗派の場合はこうですとしか回答のしようがありません。
端的に何が重要か?理想としては自分に合った師を探すことです。しかし社会生活の中にあってはなかなか難しいでしょう。だからまずはhasunohaを通じて色々な宗派の傾向を観察なさると良いでしょう。
宗派は同じ山のてっぺんを目指す異なる登山道です。すぐに1つに決める必要はありません。まずは浅く広く知り、ご縁あればご縁に任せて1本に絞られてくれば良いのではないかなと思います。
空にしたがえば空に背く
エレキギターで説明するとチョーキングという弦を引っ張り上げる奏法があるのですが、その「心地よさ」をいくら文字で説明しても分からないもんです。実際に生音で体感すると❝問答無用で・有無を言わさず・理屈抜きに❞!(´Д`)とわかるものです。
私もそうでしたが、空を理解するのにアナタ、チョト理屈に頼ろうとし過ぎている。
それは大根を切るのにティッシュで切ろうとするくらいに最初から方法が間違っていると知りましょう。
今回の質問で、アタマの使い方には「思考頭脳」ではなく「事実頭脳」という別分野があることをしりましょう。
はじめに思考・分析ありきではなくマジで思考する5秒前。
はじめに事実ありき頭脳です。
たとえば※今、子供たちのパンがトースターで焼かれ、皿で運ばれています。👦
ですが、これは「後から」分析・説明したものです。
実際は☞パンの香りがそこにあり、それが何パンであるかも知らず、取りついていこうともせず、ただその香りがプーンとしながら、それ以上のことが何も拾い上げられることもなく、余計な想念も起こらないまま、分析・判断もされること無しに只そうなっている。(受)
こういう有り方が、いつも心身の上になされている。その時、安楽でしょう。
それが仏道が成就されている、空の実際の実質なのです。
【それがそれでありながら、この身の上に「それ」が来たって、それが何であるかの認識がなされることがなくても、ただ、それ(もの・出来事)と、この身心(自己)との関係❝だけ❞になっている。】(事実)
それを後から分別・人知で顧みた時、※↑だったとアタマで理解されたということで、分別無しのままで過ごしている時は、何も拾い上げがなされていない様子があるはずです。=不生
その空じられている(不生)側面が苦楽も好き嫌いも、是非善悪も無いあり方をしているという訳です。
私が・自分がという主体的・能動的な精神を止め、事実面だけみれば、実相が空ぜられている生きた空を目の当たりにします。
細胞レベルで起こっている事だって人間の思考とは別活動。
ものを見たり、聞いた時に、前のものがまるで残らずフンジャーされています。
呼吸も香りも味覚も常にフンジャーされていてさっきのものはありません。
あなたがかつて足の小指をぶつけても、その痛みもフンジャーされてどこにもアラジンです。
生きた「空」を感じ取ってください。
「中観派不共の勝法」
何処にか塵埃有らん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
前回にも少し述べさせて頂きましたが、「空」の理解はなかなか容易ではありませんので、焦らずに着実に進めて参りたいものとなります。
そうですね・・「空」に関しましては、拙論ですが下記につきましても少しくご参照を頂けましたらと存じます。
『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392
「端的に何が最重要なのか教えて下さい 」・・
「中観派不共の勝法」という考え方が帰謬論証派にございまして、「空」と「縁起」の意味についての、例えばそれぞれの円があると考えますと、その円がピタリと重なっている、同じとして重なっているということにならないといけないと考えます。
少しでもその円の外延がズレていると、何か実体的なものを想起して議論しているものとして帰謬派からは退けられることになります。
端的に何が最重要かと申しますと、「存在は、確かに存在していますが、それは実体として成り立っているものではなく、縁起により成り立っている」ということになりますでしょうかね。
実体としての成立とはどういうことか、実体とはどのような事態を言うのかを逆に考えていくことも必要かもしれません。
是非、ナーガールジュナ(龍樹)大師の「中論」からも学ばれて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
掴む私がいない
拝読させていただきました。
お気持ちはわかりますが、空は掴めません。空は概念ではないですし、そもそも掴む主体となる私が本当はいないわけですから…。
何かがほしいと執着したり、何かが嫌だと抵抗したりするのは、その何かが「ある」と錯覚してますし、その嫌だほしいという思いから「私がいる」という錯覚も生まれてくるように思います。
目的とその方法、と二つに分けると思考の世界に入っていってしまいます。
~のために、~する。これだと必ず主体となる「私」が介入することになります。そうなるとやはり「私」の仕業になってしまって、私の思考でどうこうするという話しになってしまいます。
ですので、それこそ執着を手放すというか、
「いま、ここ、私」に安心している、ということでしょうか。どこかに探しにいかない。ここから逃げない。すると、いまの全体性、ここの全体性、私の全体性が見えてきます。これが空が見えてくるということなのかなと思います。
わかりにくいかもしれませんが、これが仏教というか宗教のおもしろいところだとおもいます。いままでの世界観ではわからないよと。あなたの思い通りにはいかないよ、…という感じですね。
そうした理解をすることではない
空、無、縁起、言葉に惑わされてはなりません。仏道は頭で理解するのではないのです。事実そのようになっていることに、心底納得できる教えです。
時の流れを考えてもつかんだと思った瞬間、それは1秒前の過去の記憶であることはわかるでしょう。昨日食べた、どら焼きの味はもうどこにもない。そうした当たり前のことの中に、真理があるのでしょう。
本を読んだり頭で理解しようとすればするほど、程遠いものになります。ですから、自分の体を使って、ただその様子に生きる今の自分の様子に生きるのです。目、耳、鼻、舌、身体、を窓口にまずは点検してみて、納得できたら、後は、自分から何かをしようとしなくても、そのように変化し続けているだけで生きられると思いますよ。
質問者からのお礼
皆さんありがとうございます。