ここのサイトのお坊様方
こんにちは。お世話になってます。
このサイトで色々な悩める人達のご相談に乗っているのをお見かけします。
心優しいお坊様方の親身な助言により明るく前向きに生きていこうとする人も沢山いるでしょう。
ですが世の中どうにもならない事があることが現状かとは思います。
熱意をもって真心をこめた言葉が届かないことは本当に悲しく残念なことだと思います。。
皆さんはこういった事が続いたらどのようにして気持ちを切り替え活動を再開するのでしょうか。
もし私がその立場なら自分には向いていないのか、と考えてしまいしばらくサイトに来なくなってしまうと思いますが…;
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私はそんなに強くない
まぁ、そうなんですけどね。言葉が届かない…そんなことはしょっちゅうです。でも逆に自分には向いていないと受け取ることが出来るから回答できるんです。
お釈迦さまは唯一絶対の聖典の言葉ありきではなく、十人十色の個性ありきで仏教を説きました。聴いてもらう相手を仏教に合わさせるのではなく、相手に合わせて仏教を説いたということです。これを応病与薬とか対機説法と言います。
その延長線上に宗派があり、私たち十人十色の僧侶がいます。
だから自分には向いていないことには『背伸びしない』のです。こちらがどんなに親身に向き合っているつもりでも、ただのつもりであって結果的に傷付けてしまうこともある。それを我々はよくよく心しておかねばなりません。反面、その中でいろいろな宗派のいろいろなお坊さんがいて、誰かがその質問に合うだろうという安心感もあります。それが裾野の広い仏教の長所がネットによって活かされている所ですね。
もちろんそれでも上手くマッチングできない時というのはどうしてもあります。それこそどうにもなりません。そこを少しでも上手くマッチングできるようになるために、より沢山の、より色とりどりの回答僧が必要なのではないかと私は思います。
私は万能の救世主でもなければ唯一絶対の正義でもありません。ただ、菩薩の三十三化身の、そのまた一角に過ぎない…でも全国のお坊さんみんなで1つの菩薩。
私は1人じゃない。会ったこともなく、顔も名前も知らない人であっても、みんな同じ方向を向いたお釈迦さまの兄弟弟子。私が存在も知らないどこかで、今も誰かが精進している。私も頑張らなきゃ。そうしてもらえる勇気がある。大衆の威神力と言いましてね、これが仏教徒の絆です。
共に悩む
そうですねえ…
私が発した言葉が今届かなくても、いつか届くかもしれません。
私の言葉が届かなくても、他の方の言葉が届くかもしれません。
反対に、誰かの言葉は届かなくても、私の言葉が届くこともあるかもしれません。
もし私の言葉が届いたとしても、それは私が救ったわけではありません。私の言葉はきっかけ・縁に過ぎません。
大事なことは仏法に出会うことです。仏法に出会うとは自分に出会うということです。質問者が自分の足で立てるかどうか、問題を本質的に引き受けていけるかどうかが大事です。
ですから表面的な納得や、質問者が望むような回答がよいわけではありません。仏様の教えに照らした時にどうなのか…そういうことを一緒に考えられたらいいなと思っています。
私に人を救う力があるなどと思うと、上手くいかないことに必要以上に落ち込むでしょうが、私も一緒に救われようと道を求めているのですから、一緒に悩めることが有難いなあと感じています。
いや、でも…正直、落ち込む時は落ち込みますよ。でもここには私以外にもたくさんのお坊さんがいます。一人じゃないのです。それが有難し!なのです。
合掌
ただ菩提心の為に
菩提心とは心のやすらいや悟り・涅槃など、人間の究極の幸せを求める心です。
分かりやすく言えば人殿が最高の善玉菌になることです。
お釈迦様が出家をされたのも菩提心。
日本では古来より、求道心、道心、菩提心と言われてきました。
菩提心を起こすことは、簡単に言えば全く関係ない人を手助けしてあげられる人になれます。
私は慈悲という事が人間からどのようにして引き出されるのかがまるで分りませんでした。
尊敬申し上げる井上貫道老師にお尋ねしたところ、
「自身が無我になれば、自分とか相手ということが無くなる。自分とか相手という子tが亡くなるという事は、相手の事も我がことのようになる。だから、相手が困っていれば自然に手助けしてあげられる。」というような内容のことをお話しくださって、長年の疑問が晴れました。
慈悲というと多くの人はボランティアとか、義務、務めとしてそれをしようとされる。だから、続かないのです。私も自費をそういうものだと思っていた時はどうしても無理がたたる。
ところが、自分がゼ禅や念仏めい想によってケロリン🐸(無我)になると、私の身心であっても、そこから「わたしの、おれの」という意識がすっ飛ぶ。
すると自他の航海船問い観念上の図式も取り払われた100%事実・ファーストになる。
アメリカ・ファースト、都民ファースト、自分ファースト、思考ファーストであると、それは人間の思考で生きているからどうしてもご都合主義になる。
「事実ファースト」は無私によって、明らかになる。
簡単に言えばいつまでもいい年コイて、オレがオレが、私が私がとか、ガメツイ生き方してたら人間としてもkimoいじゃないですか。キモいとか言うな。
もっとすがすがしい生き方があることを知れば、そっちを選択するのは当然。
あとチョイで3000回答ですが、これも無理がない。当たり前なのです。
自分の菩提心と無我の実験です。十分結論は出ていますが、周りの人たちへの証明として
「人間は無我になれば、損得もソンタクもなしに人助けができる」ことを自ら証明しているだけです。その実績を作った方々が祖師たちです。
偉くなりたいわけでも認知されたいわけでもない。
あなたも無我を悟って菩提心が湧けばボンボンできる。山をチョップで壊すこともできるくらいに、凄まじい体内善玉菌酵素が湧き出てくる。やってみてください。坐禅会どうぞ。
ご質問ありがとうございます。
どうにもならない事もある...
そうかもしれません。
私が思うに....
このサイトには多くのお坊さんがおられ、それぞれの価値観で回答されています。
同様に質問される方も、それぞれの価値観があり、どの回答がその方の心に響くかは分かりません。
私は、情熱をもって僧侶道を歩むことを軸としていますが、確かに的確に回答できなかったのかな?と感じる時はしょんぼりする事もあります。
しかし、その思いを胸に刻み、回答を続けさせていただいております。
また、逆に感謝のお言葉をいただいた時は素直に嬉しく思います。
ご質問と向き合うことで、自分とも向き合う
サオ美様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
確かに、未熟、愚鈍がゆえに、誤解が生じてしまったり、また、なかなか意図が届かずに、あまり良いお礼を頂けずに、これまでも色々とつらいこともございました。
もちろん、逆に、有り難い励ましも頂けることもあり、嬉しいこともたくさんありました。
とにかく、拙生の場合は、反省と定期的な検証を通して、更なるより善い回答へと向けた修行として、取り組ませて頂いております。足りない自分への諫めと共に、修習にも鋭意努めて参りたいものでございます。
気持ちの切り替えは、毎日のお勤めの中において、となりますでしょうかね。。
日々、心を新たに調えて、ご質問と向き合い、自分とも向き合って参りたいと存じます。
川口英俊 合掌
届かなくてもあきらめない
人は対面していても、気持ちが届かないことがあります。ましてや文字制限のある中、少ない情報をもとに無い知恵を絞って回答しているのが現状です。届かなくても当たり前かなと思っていますが、中にはこちらの気持ち以上に深く考えていただき、思いがけないお礼の言葉をいただくことがあります。人々の悩み苦しみに寄り添うのが、お寺本来の役割だと思っています。どなたかの役に立つことが出来れば、僧侶としてこれ以上の喜びはありません。
有難うございます
拝読させて頂きました。
あなたのおっしゃるとおり世の中ではどうにもならないこと救われないことが多々あります。
善の思いで説いたとしてもその声は届かないことも沢山あります。
そう思うと本当に辛く悲しい思いで意気消沈してしまいますね。
それでも私達僧侶や仏教徒は正しい仏様の教えが人々にいつかは届き全ての生きとし生けるものが救われると固く信じています。
お釈迦様がお亡くなりになった後で仏教発祥の地インドでは仏教は姿を消しました。つまりなくなってしまったのです。誰もお釈迦様の教えを信じなくなってしまったのです。
それでも今インド・中国・日本そして沢山の国々では仏教の教えが再び信じられるようになっています。
そして再評価されています。
それは仏様の教えに普遍性があり正しい教えであるからです。
七人の仏様が説かれたお経があります。恐らくは聞いたことがあるでしょうが
「七仏通戒偈」というお経です。ウィキペディアでも出ていますね。
諸悪莫作(しょあくまくさ) もろもろの悪をすることをやめて
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい) 自らそのこころを浄める
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) これがもろもろの仏の教えである
このお経をみてあなたはどうお考えなさるでしょうか。
この教えは今でも私達に必要な教えではないでしょうか。
私はこの教えをもとにこれからも人々に正しい仏様の教えをお伝えしていきたいと思っています。
「仏心とはこれ大慈悲」なりです。
全てのものが余すところなく仏様の大きな慈悲つまり慈しみによって正しく救われていくという意味です。
この教えをもとにこれからも誠心誠意お話しさせて頂きたいと切に存じます。
あなたにも周りの方々にも御仏の慈悲がもたらされて救われていかれます様心より仏様にお祈りさせて頂きます。
ありがとうございます。
自分は人に対して厳しい言葉を言ってしまうことも多いです。
御質問有難うございます。なかなか人間として考えさせられる部分を感じる御縁に気付かさせて頂き有難うございます。私は浄土真宗の僧侶ですが、私たちの教団はまず聴く事が大切でございます。布教を行う事で間違った事を伝えた場合は教団から注意されますので、考えて布教を行っています。ほとんど直ぐに伝わる事はございませんが、聴かせて頂く事で伝わると信じて布教を行っています。私たちが仕事や勉強するのと同じで全体の一部分を理解してゆっくりと伝わるという考えでございます。 合掌
質問者からのお礼
皆さん、様々なご回答ありがとうございます。。
もし私が誰かに助言をする時があった時の参考にしようかと思います。