お釈迦さまが自殺をとめられた話について
インターネットをみていたら、以下のような
お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。
とても分かりやすいのですが、
これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。
ある時お釈迦さまは托鉢中、
大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、
しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。
自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、
早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、
相手がお釈迦さまと分かった娘は、
心を開いてこう打ち明けました。
「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、
今は捨てられてしまいました。
世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、
死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。
どうかこのまま死なせてくださいませ」
と娘は、よよと泣き崩れました。
その時お釈迦さまは哀れに思われ、
こう諭されています。
「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。
ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、
朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。
つくづくその牛は思った。
なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、
自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。
そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、
牛は車を壊すことを決意した。
ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、
木っ端微塵に壊してしまったのだ。
ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、
頑丈な車でなければまた壊されると、
やがて鋼鉄製の車を造ってきた。
それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。
その車で重荷を同じように毎日引かせられ、
以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、
深く後悔したが後の祭りであった。
牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと
思ったのと同じように、
そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。
そなたには分からないだろうが、
死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。
その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こんにちは
このお話、ネット上では見覚えがありますが、お経や仏教書などでは読んだ覚えがないんですよねぇ、、、今日一日かけていろいろ当たってみましたが見つけることができませんでした。ごめんなさい。
断定はできませんが、このお話は、お釈迦さまのお話ではないかもしれません。
まず、出だしの「大きな橋の上で一人の娘がしきりと袂(たもと)へ石を」の部分ですが、なんか江戸時代っぽくないですか?
古代インド人が、日本人の着物のような「たもと」がついているような服を着ていたとは考えにくいですよね?インドの民族衣装などを想像しても、「たもと」はなさそうです。
また「大きな橋の上で」とありますが、どこの国が攻めてくるか分からない時代に、大きな橋がかかっていたとも考えづらいです。橋が架かっていては容易に敵が攻め入ってきてしまいます。
次に、締めくくりに「死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ」というセリフが出てきますが、
確かに、お釈迦さまは、死は苦のひとつだとしていますが、仏教でいう「苦」は、肉体的精神的な苦痛をいうのではなく、「思い通りにならない事」を意味します。すなわち人は、死に方、死ぬ時期、死ぬ場所などを選べません。生・老・病と同様に、死は思い通りにならないのです。ですので「苦」の解釈が仏教の本来の解釈と異なります。
真ん中の牛の話はなるほどおもしろいですね。
イソップ童話に「塩を運ぶロバ」というお話があります。字数の関係で載せられないので検索して探してみてください。よく似ています。
というわけで、質問のお話は、他のお坊さまが、もしかしたら出典を探してきてくれるかもしれませんが、私は仏教のお話じゃないかもしれないなぁ、と考えています。
ところであなたは、なぜこの質問をされたのでしょうか?「死にたい」と思ってネットを当たったらこのお話に出会い、思いとどまったのでしょうか?もしそうだとしたら、このお話は、あなたにとっては、あなたの命を救った大切なお話です。お釈迦さまの言葉だと思って大事にしましょう。
(編集部より。回答の一部を編集しています。)
光禪師のご回答を拝見してなるほど確かに落語っぽいと思いググってみましたが、この逸話を紹介しているサイトやブログは全てある新興宗教がらみでした。
対機説法
お礼を拝見しまして・・
制限字数の関係上、ここではもうあまり詳しくには申せませんが、その代わりとして、参考までに、下記の論考を挙げさせて頂いておきたいと存じますので、宜しくお願い致します。
仏教は自殺を本当に禁じているのか?
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html
はると様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
ご質問のお話の出典について、拙生なりに少し調べられる範囲で調べたのですが、見つけることができませんでした・・
また、もしも、他の回答僧侶様から、出典について知っておられましたら、ご回答を頂けるのではないだろうかと存じます。すみません。
いずれにせよ、ご質問のお話が仏典にあったとしましても、釈尊は、迷い・苦しみの輪廻から脱するために、悟りへ向けて修行に取り組むための絶好の機会を得ている有暇具足としてのこの身体を安易に捨ててしまおうとせずに、まだまだこの有暇具足を活かして、なすべきことをなすために、自死・自殺を止められる方便として、その者に対してお説き示しになられている可能性がございます。
また、実は、自死・自殺に関して、釈尊は、一律に判断されたわけではなく、その者の機根や心相続の流れの状態に応じた方便(対機説法)として対応なさられておられたことが、仏典からも分かります。
中には、自死・自殺を止められなかった例さえもございます。
とにかく、悟り・涅槃を目指す仏教においては、悟り・涅槃へと至れるための因縁(原因と条件)に、しっかりと努めていくことが大切となります。
できる限り、この有暇具足を仏道修行にも役立てて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
自殺でも他殺でも事故死でも病死でも老衰でも
死後の行き先を決めるものは、生きているときの心です。
死に方は関係ありません。
全てを諦めて心穏やかに死ぬならば、心は悪くありませんので自殺でも問題ありません。
誰かを恨んだり憎んだり自分に絶望して自殺するのは、心が汚れているのでやめたほうが良いでしょう。
お尋ねのお話は、お釈迦様のお経ではなさそうです。作り話でしょう。
質問者からのお礼
川口さま、親切なご回答をありがとうございます。
自死・自殺に関して、釈尊は、一律に判断されたわけではなく、
その者の機根や心相続の流れの状態に応じた方便(対機説法)として
対応なさられておられたとのことで、
自死・自殺を止められなかった例まであると教えていただき、
驚きました。
釈尊が自死・自殺を止められなかった例というのは、
どのようなことなのか、話の概要と出典が分かられましたら
教えて頂けないでしょうか。
またその場合、自殺した人は、
殺生の罪を犯すことにはならないのでしょうか。
何とぞよろしくお願いいたします。
どうもありがとうございました。
おかげさまで出典が見つかりそうです。
お世話になりました。