回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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本質的には同じです
仏が我に入り 我仏に入る
我ならざるものも 我と呼ぶものも 人間の見解を離れてみれば同一
自分だ自分じゃと思い込んでいるものを、自分ではない世界に投げ込んでみれば、自分らしいものがなく、ただそのものと元々分断されることなく同化、融和していたということです。
文字でものを眺めるよりも、実際にそうなってみるとよいでしょう。
日常でわたしたちが「我」と呼んでいるものを離れてみれば、説のごとくであるということが理屈抜きにわかります。
元々、自分というものが何を見るにも聞くにもそこに付随していない姿があるはずです。
そこをよく見極めてください。
違うとも、同じともいえないかもです。
色々な答え方があると思いますが。
それこそ宗派によっては、それぞれの語の意味あいが微妙に違ってくることもあるでしょうし、どれが正解なのか私にも分かりません。あえて正解を気にせず一緒に考えてみましょう。
修行を経て、ある種の経験によって宇宙と自分とが一体である至福を味わうことができる。ざっくり言うと梵我一如はそういう悟り(ブッダが説かれた悟りとは別に)の“状態”そのものもしくは“世界観”を表します。
それに対し入我我入という表現は、たとえばそういう境地を目指すために具体的にすべき“手法”そのものをさしているように思います。
例をあげるなら、チームスポーツでいう「心がひとつになる」という漠然とした“状態”をさすのと、チームスポーツで大事なのは「お互いによくコミュニケーションをとること」だよね、というふうに“手法”としてみるのと、違いはあるけれど、同じチームスポーツというものをよく表している場合があります。
仏教においても、修行者が、修行によって経験した内容(悟りなど)を、どう相手に伝えるかで、選ぶ言葉が違ってくるということがあるのではないでしょうか。“状態”として説明するのか、“手法”として説明するのか、伝えたい意図が何であるかによって、同じともいえるし、そうでないともいえるわけです。
結論から言えば、「同じともいえるし、そうではないともいえる。」ということになると思います。
にゃんにさんはいかがですか?
「梵我一如」と「入我我入」
にゃんに様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「梵我一如」はヒンドゥー教における悟りの概念で、真理との一体の境地を表わし、「入我我入」は、仏教における本尊・如来との一体としての境地を表わす概念と言えます。
また、「入我我入」が、本尊・如来の御身体の内の法身との一体となれば、真理との一体ということで、両者は同じような意味合いと捉えることももちろんできますし、吉井浩文様もおっしゃられておりますように、「梵我一如」は「悟りの状態」、つまり、「目的」として、「入我我入」は、その「悟りの状態」を目指すための「手段・方法」と考えることもできるのではないだろうかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様ありがとうございます。
私としましては、梵我我入の「梵」と「仏」を同一と見なすか否かに興味がありました。