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自殺未遂

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最近、読んだ仏教の本の中で悪徳政治家や悪徳業者、犯罪者(特に殺人犯)は地獄ヘ落ちると書いてありました。 本には書いてなかったのですが、よく自殺者も地獄へ落ちると聞きます。

そこで質問なのですが、自殺未遂をした事がある人は、どういう位置づけになっているのですか?
自殺未遂者の死後はどうなるのですか。未遂者はたまたま運良く死に至らなかっただけだと思いますが、自殺を決行した罪はたとえ自然死しても消えることはないのですか?

やはり殺人未遂と同じくらい罪な事になって地獄行きや生まれ代わる時に何らかの支障が出るのでしょうか?

2度もやってしまいました
※あくまで天国や地獄が存在する前提での話です。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A7dP5XLVuAtWHAoAiLOV_PN7?page=2&qid=1367098398&pos=1&ccode=ofv


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご安心ください

お釈迦様の教えにおいて、輪廻転生は教えの前提になっていますので地獄というものはあることになります。

しかし、自殺した人、それを企てたことがある人が地獄に落ちるとはおっしゃっていません。お弟子さんたちのなかで、自殺した人、しようとした人に対してお釈迦さまは何も特別なことをおっしゃっていないそうです。唯一といってよい例外は、一般の信者さんを自殺させようとした仏弟子がいたため、以後、そうしたことを禁止されたということだけです。これは例外とさえいえない話なので、要は仏教は自殺を特別視していないということです。

自殺なさるのは、死にたいからでなく、死んでしまいたいほど生きるのが辛いということなのでしょう。それほど苦しまれたのはその人の責任ではないからでしょうか。繰り返しますが、お釈迦さまは、自殺した人は地獄に落ちるなどとおっしゃってはいませえん。

仏教は因果応報や自業自得を説きます。だから地獄に行くというのでしたら、誰もが罪を犯しているのだから、救われる人などいなくなってしまいます。仏教は仏さまが説かれた仏になる教えです。罪があっても間違いを犯しても、心を翻して正しく考え正しく行動すれば誰もが救われる教えです。

言い換えると、過去が問題なのではなく、いま現在とこれからの生き方を問い、そしてどう生きたらよいかを教えるのが仏教です。どうか過去のことは気になさらず、これからの人生を大切に生きてください。

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私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

今あなたの心がどこにあるか

そういうことを考えて苦しむ心をこそ地獄というのです。
仏教は「精神の明晰性」を極限までに追求するものですから救いになるのです。
故に死後の世界そのものを否定します。
未だかつて「ある」と立証した人がいないからです。
死後の世界をあると想定してしまうこと自体が「確証の無いことを想定させる」「ファンタジーの世界に導く」「妄想の世界に導く」ことですから、死後の世界があると思うこと自体が「迷い」を生じさせるのです。
現にあなたも迷って苦しんでい居られるのが、死後の世界をあると想定しているからです。
これは道元禅師も「学道用心集」の中でも明確に否定しています。
「人をして心外の正覚を求めしめ、あるいは人をして他土の往生を願わしむ。惑乱ここに起り、邪念これをもととす。」
思いに思いを積み重ね、自らを魔道、邪念、惑乱状態に導く。
自殺未遂もまさにそうだと思いませんか。
頂いた自らの命を自ら死に導いてしまいたくなるほどになる。人間は思いの動かし方一つで地獄のように苦しい処に導かれてしまうのです。
私はあなたにはもうそういう生き方をして欲しくない。
あなたが目覚めるべきは死後の世界の地獄の有無ではない。
生きながらに、心をそういう地獄(そういう心の状態、境地を地獄界といいます)に向かわせないようにすることです。
自分を愛せるようになることです。
その為には、家族との関わりを再構築して、思いの雲から抜け出して晴れやかになることです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

仏教の本なんてピンキリですよ。丸っきりド素人が専門家ヅラして書いてることもしょっちゅうですし、出版社の編集部が確信犯的に売れる内容の本を書いているだけのこともあります。出版する自由(言論の自由)がありますから、まぁみんな言いたい放題ですよ。私も他人のことは言えませんが(笑)

まぁ、それは置いておくとして、よく自殺すると地獄に堕ちると耳にするのはキリスト教の教えです。永遠の地獄の業火で焼かれ続けるのだそうですが、未遂者は…どうなんでしょうね。死ぬまでに救世主たるイエスに救われることを信じればいいのでしょうからセーフなのではないかと思いますが、まぁいずれにせよ私たち仏教徒には関係ありません。

ちなみに罪の概念もキリスト教です。仏教では集団生活のルールを破る罪はあっても、個人の人生に刻まれる罪はありません。罪というものが無いから過去にとらわれるべきではない→今を前向きに生きることでしか未来はいい感じにならない。仏教はそんな感じです。

天国や地獄がある前提でとおっしゃるなら、私はこの動画をオススメします。
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm6319999?cp_in=wt_mllst
本当にオススメですのでぜひ見てくださいね。

あと、実は天国もキリスト教です。仏教は極楽。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

お釈迦様は前世で自殺したことがある(?)

仏教で、ジャータカ物語というのがあります。
仏教の開祖であるお釈迦さま(ブッダ)も、ブッダに成る(成仏する)まで、はるか昔から何度も何度も生まれ変わり輪廻転生を繰り返してきたのですが、
そのお釈迦様のたくさんの前世のエピソードを描いた物語です。
この物語が事実かどうかはわかりませんが、子供からお年寄りまで、この物語を通して仏教を学ぶきっかけになります。
この物語の中で、お釈迦様がウサギだったときの話があります。
このウサギ(ブッダのはるか昔の前世)は、飢えた人を助けるために、自ら火の中に飛び込んで、自殺して、焼き肉になったのです。
自殺の動機は人助けであり、一般的な自殺と違うかもしれませんが、自殺したウサギは、最終的にはお釈迦様(仏様)に成ったのです。
もちろん、たくさんの善いことをしたり、修行を積んだから、悟って仏様になれたわけですが。
なので、あまり心配なさらないでください。
ただし、仏教は自分と他人の悩み苦しみを減らすための教えです。
あなたが自殺して悲しみ苦しむ人がいるでしょうから、あまり自殺しないでくださいね。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

自殺・自殺企図・自殺未遂につきまして

サクラ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

二度も自殺未遂されてしまわれたとのこと・・誠におつらいことでございます・・

自殺を企図してしまうほどの悩み苦しみ・・どうか和らぎ、癒されますように、三度目の無いことを心から祈念申し上げます。

自殺につきましては、これまでにも下記の各問いに回答させて頂いております。

「自殺・自死について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_319870.html

「・・死後の赴きにおいて、もっとも影響を与えることになるのは、何よりも己自身の行い(業・カルマ)となります。その業が、煩悩や無明(根本的無知)によっての悪業に比重が重くあってしまえば、やはり、その果報(向かう先、輪廻)は厳しいものにならざるを得ないと考えることになります。・・」

「悪徳政治家や悪徳業者、犯罪者(特に殺人犯)は地獄ヘ落ちると書いてありました。」・・世間の道徳的規準と仏教的な因果応報における善悪の基準とでは、一致しないこともございますが、勧善懲悪を勧めるという点では大差がないものであるかと存じております。

ただ、悪い行いをしてしまっても、心から慚愧して懺悔し、しっかりと善い行いに努め励み、善い業・カルマの因縁(原因と条件)次第においては、より良い死後の赴きへと参れることができることとなります。

「よく自殺者も地獄へ落ちると聞きます。」・・自殺したからといってそれが悪い業・カルマとなるかどうかは、ケースバイケースとなるのではないかと存じます。一つ言えますのは、無明(根本的な無知)・煩悩による自殺であるならば、やはり悪い業・カルマとなるため、十分に気を付ける必要があるのではないだろうかと存じております。

次に、自殺企図、未遂の場合についてですが、行為と動機の問題につきましては、下記の問いにて詳しく扱わせて頂いておりますのでご参照下さいませ。

問い「心を込めた行動とは? 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1005257984.html

とにかく、これからの良き因縁次第では、必ず良き結果も望めることとなります。どうか自殺は思い留まって頂きたいと存じております。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

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