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何故私はこのような無慈悲な親の元に生まれ落ちたのでしょうか

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現在はとりあえず人並みの生活を手に入れて生活できていますが、子供の時は地獄でした。
父はサラ金から金を借り、母の他に女を作って蒸発。その後、母子家庭で大変な思いをしました。母も弱いだらしのない人で、子供の面倒を見れず、見かねた親族が父を探し出し、ごたごたの上、離婚。私は父と再婚た女の家に引き取られました。実母と暮らしていたらネグレクトで殺されると親族が心配したからです。母の不注意で怪我を負ったり、酷いものでした。父方にいっても、貧困とイライラした劣悪な環境でした。学校でも貧乏だと馬鹿にされました。でもイジメにはけして負けませんでした。

10年前、父親は長患いでガンや多臓器不全に12年苦しみ死んでいきました。何かの罰と因縁で苦しんで死んだのだと思います。実母とは私は縁は切れています。
親と同じ年齢になって思うのが、何故あんな家に生まれたのだろうと。そう思うと理不尽な思いで一杯になり怒りがこみあげてきます。
今は結婚し、私も仕事があり、念願も家も持つことができました。

過去の悲しかった思いで、心がいっぱいいっぱいになって苦しいことも毎日あります。小さい子供に言うように「そうだね。大変だったね。うん」と自分につぶやいてあげているのです。少し楽になります。でもなんであんなダメ親の元に生まれてきたのでしょうか。因果でしょうか。

父の供養はしていません。継母から葬式も教えてもらえませんでした。なので、特段供養する義務はないと思っています。父の命日になるとふと悲しい気分になるのですが、これは死んだ父の気持ちなのでしょうか。命日すぎるとすっきりした気分になり、別に気にかかりません。

普通の家庭に生まれていれば、あんな辛いことも悲しいこともなかったのにと少女時代の自分が憐れでなりません。生き延びてくれてありがとうと薄幸だった少女の私に対する供養の気持ちで、今を大切に生きています。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生苦 なかったものを呪うより 今手にしていることを感受・感謝

誰のもとに生まれてくるか。
どんな顔で生まれてくるか。
どんな境遇で生まれてくるか。
生まれを選べない。
それを生老病死の「生苦」と言います。
思い通りにならないことを「苦」というだけです。
苦と言いましても、苦しみではありません。
思い通りにならんという事です。
そこに反発すると苦しみになる。
私はイケメンではありませんし、こういう顔で生まれたかったわけでも、生まれたくなかった訳でもありません。知らないのです。どっちでもないのです。
気が付いたら「こんな顔」だったのです。(ノД`)オイオイ・゜・
そういう「生まれ」を選べないのが生老病死の「生」苦です。

僧侶だったので僧を生き切っています。
もし私があなたの境遇だったら、その中で思いっきり咲く。
人のことをどうこう言わなくていいのです。
あなたがどう生きたいか。
今日をどれほど楽しく親しんで生きるか。
植物は、周りがどうであれ「伸び」ます。
大いに成長します。
仮に人の手が加わりすぎた盆栽でも、その中で精一杯伸びます。
ジャングルは人の手が加わらないから、もっとぐんぐん伸びます。
あなたは今まで、ぐんぐん伸びることを阻害されてきた環境であったと思いますが、
そこで、そこに、❝阻害されてはいけない❞のです。
「その中に居てそれを忘れること」です。
そうすれば、それに染まりはしません。
今日からは、疎外されないことです。
強い心を以ってください。奮起心です。
今まで阻害されていたにせよ、阻害されていたことに陥っていた自分とサヨナラすること。
そうすると、支配下、阻害されている状況下であっても、心が支配されない。阻害されなくなるのです。
もう、あなたを縛るものは何もありません。
あんたは最初から自由だった。
自分で自分をしっかり生きましょう。
気持がどうしても晴れなければ、坐禅会にお越しください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

常に意味を考えても理由がないこともたくさんあります

大変な子供時代でしたね。
今は、安心して生活できる環境とのことで何よりです。
過去の出来事に何か理由や因縁を考えておられるようですが、そこに理由はありません。
ただ、そうした家庭に生まれたということだけです。
人と比べると辛くなるでしょう。
物に恵まれて一見裕福な家に生まれ育ったとしても、人と比べると辛く悲しくなります。
自分に足りないモノは多かれ少なかれ誰にでもあります。
若菜さんの場合は、それにしても辛い環境だったのでしょう。

その辛かった経験はこれからに生かすべきです。その分人の痛みが分かるはず、人にやさしく接することができるでしょう。多くの愛を様々な人に届けてあげてください。
ご自分が辛かったという過去を引きずっていると、きっと人にやさしくできず時に嫉妬のような気持ちで八つ当たりのようなことをしてしまいます。イライラを関係の無い人に向けてしまうことにもなります。

辛かった経験をここでスットプさせ、これからは若菜さんがたくさんの無償の愛を届けてあげてください。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

不条理ということは確かにありますが

世の中には不条理ということは確かにあります。以前もほかの方に向けて書いたことですが、三年の闘病生活を経て二十八歳で命を終えた有為の青年がいました。想像を絶するほど周囲の人々から愛されていたので、通夜も葬儀も友達と会社の人たちで満員かそれ以上の参拝者でした。こんなに有為で愛され将来を嘱望されいた青年がどうして苦しんだ末に、若くして命を終えなければならなかったのでしょう。あれから数年を経た今も人生は不条理なものだと思います。

話は変わりますが、ナチのユダヤ人収容所から奇跡的に生還した精神科医、V・フランクル博士は、ときとして不条理な人生のなかで自分がどう考え、どう生きるのか、それが自分に与えられた人生の課題であるというようなことをおっしゃっています。青年は与えられた課題に対し、立派な解答を提出して短い人生を終えたようにも思います。

話があちこちして恐縮です。交通事故による四肢麻痺をきっかけに仏教に出会い、絶望の淵から仏教により立ち直り、ネパールにお寺を建てて命を終えた向坊弘道さんという方がおいでになりました。私は子の方たいへんを尊敬しています。不条理な人生をどう生きるかという課題に対し、仏教はよい参考書であると思います。よかったら向坊さんのお話を聴いていただけませんか。もちろん特定の宗教宗派の勧誘を意図したものではありません。あくまで参考になればと思うばかりです。向坊さんのご法話はyoutube上に三部アップされています。よろしければ下記の順にご覧ください。

1.
https://www.youtube.com/watch?v=tT4tfgu-D5M

2.
https://www.youtube.com/watch?v=wsxwnXGYhSk

3.
https://www.youtube.com/watch?v=SH_skqdY3us

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個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

質問者からのお礼

たまたまそのような家庭に生まれただけだったのですね。子供のころはその環境では、どうすることもできませんでしたが、今はどうにか普通に生活できています。字の書き方や常識のなさで多々恥をかくこともありますが、その都度学んでいます。人と比べると、むなしくなりますが。なるべく比較しないよう努力します。動画も見ました。衝撃を受けました。

不条理はいたしかたないことなのですね。どうすることもできないことはあるとこの度、住職様がたのお言葉で気が付きました。地獄のような家庭や貧困の中にて、不条理で生きている子供たちは今の世の中いっぱいいますものね。

心無い人々や親との戦いはもう終わったので、今を大切に生きていきます。

この度は本当にありがとうございました。

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