阿弥陀様の救いと自死について
阿弥陀様のお力でどんな悪人も浄土へ生まれ仏になれるという教えは、現在うつ病で死にたい人の背中を押してしまうものではないでしょうか?
私は救いのお力が決まっていることの安心感で今をより力強く生きていけると思うのですが、それは私が健康で、頑張れる心身の状態だからだと思います。
うつ病の人は今の状況がつらすぎて、ただでさえ消えたい、死にたいのに、死んだら悟りを開く仏にさせていただけるとわかったら、その言葉は非常に魅力的で、喜んで死んでしまうと思うのです。
私にはそういううつ病の人に、阿弥陀如来の誓願に包まれて強く生きてほしいのです。
どう考え、お話すればいいですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
(訂正しました)
もし一時的な錯覚などではなく、心から喜んで死ぬことができるなら、それはそれで尊いことかもしれません。しかし、うつ病の時に死にたくなるのは一時的な病の症状ですから、うつ病での自死はなんとか避けたいものです。
しかし、信仰は人それぞれ。たくさんの宗教があり、たくさんの宗派があり、人それぞれの思想があります。阿弥陀仏の救いを説くことは良いことですが、時期相応つまりタイミングというものがあります。あなたが救われたからといって、その人が今すぐに救われるかどうかは分からないのです。ですから強要してはいけまけん。
詳しい状況は分かりませんが、先ずは医師の指示に従って適切な治療をして、仕事などの鬱になった原因となるストレスを無くして、少し外の自然に触れながら、少しずつ回復していってもらうのがいいと思います。
その人が回復してから、機会があれば改めて阿弥陀仏の救いについて教えてあげてはどうかと思います。
ただ、もしうつの状態もひどく回復の見込みも難しいほどでしたら、もはや阿弥陀仏に頼る他ないかもしれません。南無阿弥陀仏と声に出してお唱えしてもらってください。なにも考えなくてもいいし、考えながらでもいいので、1時間でも2時間でも何時間でも、毎日心ゆくまでお唱えしてもらってください。どうにもならない時は、私達にはもはや阿弥陀仏のお力におすがりするしか無いのです。
うつの人が回復することを願っています。
南無阿弥陀仏
阿弥陀さまの無量・無限の方便をもって救う
阿弥陀様は「こうなのではないだろうか」という思いは誰がやっているかというと人間個人の独自の考えだったりしませんか?
本当の阿弥陀様はそういう人間の「わたくし濃度の濃ゆい」個人的な考え・見解を超えたところにこそ現れる真実・真如実際です。
禅宗でも「歎仏会(たんぶつえ)」阿弥陀様を念じたたえます。
禅宗風な阿弥陀さまの説き方ですので、人によっては抵抗があるやもしれませんが、私どもは阿弥陀仏とは「いま・ここ・この事」に出会っています。
この世、今世、今日の一日、いま、ここ、おのれの目前を重宝せず、どうして他方仏を描いてしまうのでしょう。どうして、今、こうして呼吸をしている、たった今のそこに命、息吹のアドレス@を見出さずして、どうして彼の地、他の地、他の世界に浄土や極楽を見出そうとしてしまうのでしょうか。道元禅師もここに疑問を持たれて、学道用心集で「心の外に他の地の往生を願わせることはあってはならない」と痛烈に批判をされています。お寺焼かれましたが。
私が個人的に思うことは、坐禅、悟り、阿弥陀様という言葉を聞くと普通の人は大体「そこから自分流に特殊に考えてしまう」という不思議なことが起こるのです。
あなたは救いのお力が決まっていることの安心感で今をより力強く生きていけると思われるのでしょうから、それでよいのです。
私はこの世、この人生、この自分自身の命で、この世界でこそ成仏、浄土を感じたかったのでそういう教えを求めて、決着がつきました。
たとえ話ですが、阿弥陀様をお月様にたとえますと、見る場所が、国、宇宙から眺めることによって見え方が大きく異なるものです。
満月に美を覚える方はそれがその人の月の姿。三日月に美を感じる方もそれでよいのでしょう。その光のおおもとに太陽があることを感じられる人はそれもよいでしょう。水面に映る月の光に照らされて救われる人もいるのです。
死後の世界のお浄土がお好きな方は、そちらへ。
この世で生きている間において阿弥陀様、お浄土を実感したければ、そちらへ。
どれもみな阿弥陀様の方便であり、生きている私たちに提供されている無限の選択肢なのです。「私の阿弥陀様はこうだ」という押し付けや考えは「私のキリスト様はこうだ」「いや、俺のキリスト様はこうだ」と争っているようなものです。生きているこの世界でお互いに支えあって仏・阿弥陀様の慈悲を伝えてまいりましょう。
受けがたき人身を受けて
拝読させて頂きました。
あなたがおっしゃるようにそうとられる方もいらっしゃるでしょうね。
あなたのおっしゃることよくわかります。
阿弥陀様はお念仏おとなえするものを全てお救いなさりお導きなさって下さいます。
ですから私達は何も迷うことなく阿弥陀様にお任せなさればよいのです。
死は私達人間によって決められるものではないです。
とはいえ己の生命を絶つつまり自殺することによって決められるかもしれません。ですがやはりどうしようもない、やむを得ないにしても私達は自ら与えられた命を自らの手で断つことは極力避けるべきかとは思います。
あまたのご縁様々なめぐり合わせの中でやっと頂いた大切な私の生命です。まして人の身に生まれてご佛縁を頂く事は本当に得難き有難き事ですからね。
法然上人のお言葉に「受けがたき人身を受けて‥」とあるように人の身に生まれることは本当に大変な事です。その確率は何億分の一以上かもしれません。
その中で仏法に巡り合えるこ事はその又何億分の一かもしれません。
そして又この世で多くの方々との有難きご縁に恵まれてこの生を生きているのです。
本当の生きる価値や生きる目的を私達は見つめなくてはならないと思います。
私達には多くの支援があり様々な生命を頂いて今存在できています。そしてそれは人の為になる事や自分自身を確立していく為でもあるのです。
又この世で生きることができる時間は限られております。
私も百年生きることはできません。仮に百年生きたとしてもあっと言う間のことです。
どんなに科学が進んで文明の利器が発展しても仏様の慈悲と智慧に比べれば塵のようなものです。
であればこそ限られた己の生命を有効に活用して精進していく事、何よりお念仏おとなえし全て阿弥陀様にお任せして今生を生き抜いていく事が私達に与えられた生き方ではないかと思います。
答えはいくつかあるとは思います。
どうか様々なご意見を頂いてその中であなたにとって正しいと思う答えや生き方を選択なさって頂きます様お願い申し上げます。
あなたや皆様がこれからも正しい信仰をもたれ、み仏の慈悲と智慧に導かれ健やかに今生を生き抜いていかれます様にそして生命を全うする時仏様に導かれて正しく極楽浄土に往生なさって頂きます様と心からお念仏おとなえさせて頂きます。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
今、この念仏は、臨終の念仏のつもりで
私は、うつ病で自死する人は病死みたいなものだと考えております。
うつ病に限らず、病気で残る寿命が長くない、あるいは、いつ寿命がつきるか予測がしにくい患者さんというのはいらっしゃるでしょう。
さらには、健康診断でひっかかるような病気はなくとも、私達は、いつ死ぬかわかりません。
だとしたら、だからこそ、念仏を説かないといけないのかもしれません。
いつ自殺してもおかしくない相手にこそ、今すぐ阿弥陀仏の救いをお知らせしなければならないのではないでしょうか。
健康な人でも、若い人でも、南無阿弥陀仏と念仏するときは、この念仏を最後臨終の念仏のつもりで称(とな)えるのです。
この瞬間に人生が終わったら極楽浄土に往生できるから大丈夫だというつもりで。
そして、結果的に命長らえたなら、その念仏は臨終の念仏ではなく平生の念仏(普段の念仏)になるのです。
もし、阿弥陀仏の救いを説くチャンスがあったのに説かずに、次の日にでもその人が亡くなってしまったらと思うと、むしろ、自殺しそうな人にこそ、
南無阿弥陀仏で必ず極楽に往生できると
お伝えした方が良いのかも。
決定往生
きた様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
個々人が恣意的に解釈、判断するのではなくて、往生が決定する、あるいは、信心が決定するというのは、いかなる事態であるのかをしっかりと仏典を根拠として吟味する必要はあるかとは存じます。
往生するためには、しかるべき因縁(原因と条件)が必要となります。
もちろん、悟りへと至るためにも、そのための因縁が当然に必要となります。
それらの因縁を確実に調えていくためには、しっかりと仏法を学び修することが大切なこととなります。
とにかく、「縁なき衆生は度し難し」と申しますように、まずは、しかるべきご仏縁が、どなた様にもございますようにとして、私たちも日々努めて参らなければならないと存じております。
どうか、しかるべきにご仏縁を結ばれることと共に、しっかりと今生において、往生、悟りへと向けた因縁に取り組んで頂けますように、少しなりにもお励ましを賜れました有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様、早速のご回答ありがとうございました。
三宅 聖章 様
>阿弥陀仏の救いを説くことは良いことですが、時期相応つまりタイミングというものがあります。その人が回復してから、機会があれば改めて阿弥陀仏の救いについて教えてあげてはどうかと思います。<
はい。何とかよくなってほしいと自分の考えを押し付けすぎてたのかもしれないと反省します。うつ病になってからもう5年が過ぎました。病院へはずっとかかっております。私の娘です。
>どうにもならない時は、私達にはもはや阿弥陀仏のお力におすがりするしか無いのです。
うつの人が回復することを願っています。<
死なないでほしいばかり考えてたけど、生死を超えるのが南無阿弥陀仏だったと三宅様に気付かせていただきました。願いをありがとうございます。
kousyo Kuuyo Azuma 様
>法然上人のお言葉に「受けがたき人身を受けて‥」とあるように人の身に生まれることは本当に大変な事です。<
はい。このように生かされていることはありがたいと心から感じれるようになってほしいです。
>あなたや皆様がこれからも正しい信仰をもたれ、み仏の慈悲と智慧に導かれ健やかに今生を生き抜いていかれます様にそして生命を全うする時仏様に導かれて正しく極楽浄土に往生なさって頂きます様と心からお念仏おとなえさせて頂きます。<
ありがとうございます。誰かがどこかで自分のためにお念仏を唱えてくださることは、本当にありがたいことと思います。
川口 英俊 様
>それらの因縁を確実に調えていくためには、しっかりと仏法を学び修することが大切なこととなります。<
はい。とても難しいことですが、これからも聴聞を続けていきたいと思います。
願誉浄史 様
>私は、うつ病で自死する人は病死みたいなものだと考えております。<
そうですね。体の病は医者に任せて、、と素直に思うのですが、うつ病は気持ちや考え方の病気なのでつい、病気なのに自分がなんとかできると思ってしまいます。
>いつ自殺してもおかしくない相手にこそ、今すぐ阿弥陀仏の救いをお知らせしなければならないのではないでしょうか。<
目からうろこです。ほんとうにそうですね。
>健康な人でも、若い人でも、南無阿弥陀仏と念仏するときは、この念仏を最後臨終の念仏のつもりで称(とな)えるのです。 この瞬間に人生が終わったら極楽浄土に往生できるから大丈夫だというつもりで。 <
これからはこのように努めたいと思います。私がこうすることで、念仏のお救いの意味がうつの娘にも伝わるといいなと思います。
丹下覚元 様
>どれもみな阿弥陀様の方便であり、生きている私たちに提供されている無限の選択肢なのです。<
貴重なお話をありがとうございました。私は生まれた時から浄土真宗の世界しか知らないのです。でも、うつ病の娘に浄土真宗を押し付けているわけではなく、彼女が死んで楽になりたいと思うときに死ねば即仏さまになれる浄土真宗の考え方は誤解されやすく怖いなと愚考したのが質問の理由です。彼女が自死せずに生きていってくれるなら、どの信仰でも、無信仰でもかまいません。
>私どもは阿弥陀仏とは「いま・ここ・この事」に出会っています。 <
尊いことだと思います。禅宗の考え方を教えてくださってありがとうございました。