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三昧について教えてください

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みなさまには基本的かと思われる質問ですが、お許しください。

仏教で言われる三昧とはなんでしょうか?詳しく教えてください。

その定義はあるのでしょうか?条件とか?

また、それに至るための修行がありますか?
修行があるならばそれはどういったことをするのですか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

禅定に入ること

如是我聞 かくのごとく我聞けり

三昧とは、インドの言葉でSamādhi( サマーディ)と言います。

一般に、禅定に入ることを言います。現代風の言葉に言い換えれば、concentration(集中)と御理解いただければ宜しいかと思います。心が静かに統一されて、安らかになっている状態のことであると言えます。

  禅宗では、御釈迦様は尼蓮禅河で沐浴し菩提樹の下で深く禅定に入り、明けの明星が空に現れる時、お悟りを開かれたと受け止めております。坐禅こそが悟りへの道であり、三昧そのものであると言えます。

 他の宗派でも、その宗派なりの修行、その宗派なりの三昧を定めていると思いますが、他宗派でいう三昧については勉強してませんので、他の方からの回答から学んでください。

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「三昧」について

有未様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「仏教で言われる三昧とはなんでしょうか?詳しく教えてください。その定義はあるのでしょうか?条件とか?」・・

仏教における三昧とは、サーマディを語源とする音写で、要は禅定、瞑想における精神集中、精神統一などと言われるものとなります。一般的にその禅定の段階に九つ(四禅、四無色定、滅尽定)あると定義されています。

「また、それに至るための修行がありますか? 修行があるならばそれはどういったことをするのですか?」・・

代表的には坐禅や瞑想になります。更には一心に一つの行に集中する修行も三昧行と言われているものがあります。

さて、以上のことは「三昧」ウィキペディアの解説にも書いてあることですが、拙考においては、三昧とは、空性の了解(りょうげ)の一つの状態にあるものと考えております。

それは、現量、つまり直観認識、直接知における空性の理解、了解というものとなりますが、但し、まだまだ修行未熟なる凡夫の場合では、ある程度修行が進み、無顕現における三昧の状態に入れることができたとしても、その三昧から離れて、顕現している世界へと戻ると、また、無明や煩悩によって惑わされて、輪廻、迷い苦しむ要因となる悪業を作ってしまいかねないことになってしまいます。

そこで、最終的には、顕現している世界に戻っても、もはや空性を現量で了解しているという状態を目指すことが必要となり、そのためにおいて、三昧行も大切な修行の一つの段階的実践になるものであるかと存じております。

川口英俊  合掌

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体感としては、、、

一口に三昧と言っても、座禅三昧、華厳三昧、法華三昧、念仏三昧などいろいろありますね。僕がやって来たのは念仏三昧なので、実は他の三昧がどういう体験なのかはわからないのですが、、。一応、自分が感じる基本的な体感としては、自己の身体感覚の喪失でしょうか。自分の存在が透明になって、自他の境界がなくなるような感じです。さらに、温かいものに包まれたような感じ。それは、実在の仏様に霊的に触れられ、その大愛に溶けいってしまったような感覚でしょうか。とてもとても快く、霊的な快楽(けらく)感があります。しかしこれは、通常の五感や日常の意識で認識する、相対的な場(フィールド)における認識とは異なります。ああもう、何をどう書いても、実際それとはズレて来ますね。

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遠藤喨及
僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、...
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精神集中状態が三昧

「仏教的に正しい禅定の作り方」と検索してでてくる、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに、詳しい説明がありますが、難しいかもしれません。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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おのれ意識を完全に放棄する 

「諸仏如来ともに妙法を単伝して、阿耨菩提(悟り)を証(スイッチON)するに、最上無為の妙術あり。これ、ただほとけ、仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり。」
道元禅師『弁道話』より
弁道とは、仏道を弁える ということです。仏道とは自己の道。
道とは、最上無為の心のありよう。
最上無為とは人間の最高の精神状態、悟りの状態です。
三昧とは、そこに住すること。
そこに至るためのプロセスと言ってもいいでしょうし、そこにライドオンしている状態と言ってもいいでしょう。
その実質はわたくしという自我意識なき心。
道元禅師は「仏道をならうというは自己をならふなり、自己をわするるなり、万法に証せらるるなり」と説かれています。
オノレ意識、自己意識を忘じて、放ち忘れている時、人間は自他の隔てのボーダーラインである自己意識、自我意識がこの身心から忘れ去られるのです。
わたくし意識無き心は、そのものと密接になっている状態です。
さらには「自己の身心および佗己(自分の中の他人意識)の身心をして脱落せしむるなり」と説かれています。
自他の隔て、こちらと、あちらとの隔ての無い様子。ピッタリ一枚、完全同期。目前の事実とのシンクロ率100%。これは自分自身の身心の働きのすべて無我であることに気づけば誰でもその状態になれます。具体的なのは坐禅(指導者次第ですが)。
思考のフィルターを交える以前、思考マインドが入り込む余地なきほど、間断なく意識が事実に注がれている状態であり、それは感受のままの状態です。
五感の感受のまま、色、音声、香り、味、体の感覚を感じているだけに住している状態です。
さらにそこには❝わたくし❞がない。この身がありながら私意識がないから、全てと溶け合ったような感覚になり、仏典などにもそのような表記が為されるのです。
禅語の掛け軸などは、みな景色のことばかり言っているでしょう。
自分と、目前が一体なのです。
ちなみにサンマは三枚におろします。
口にした時は、この身が全身を挙げてサンマそのものですから、三昧です。座布団、三枚。

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...
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質問者からのお礼

願誉浄史さま
ご回答いただきありがとうございました。
ご案内いただいたページを拝読いたしました!とても興味深い内容で、わかりやすかったです。

川口さま
いつもご回答いただきありがとうございます。
だいぶ理解が深まってまいりました!瞑想経験ほぼゼロで恐縮ですが、たぶん瞑想経験がなくとも、瞑想状態が大切なのかな?という気もしました。

吉田さま
坐禅こそが悟りへの道であり、ということですが逆を返せば坐禅をしないと悟れない。になるのでしょうか。。
禅定に入る、というんですね。勉強になりました。大変ありがとうございました。

丹下さま
いつもご回答をありがとうございます。
お礼が遅くて申し訳ないです。
道元禅師『弁道話』を載せていただきありがとうございました。難しい言葉でしたが、解説のおかげで理解できそうです。坐禅をしたことがほとんどありませんので、とても興味が湧きました。
そうですね、思考との同一化から離れたことは、ある意味でびっくりでした。
でもそれはとても自然な状態ですね。
思考を信じ、そこに感情がひっつくと苦しいですからね。幻想の上に幻想が重なり、、。
禅語の掛け軸などは、みな景色のことばかり言っているんですか?知らなかったです。勉強になりました!

遠藤さま
ご回答をありがとうございました。
そうですね、言葉にしたとたん違うものになるのが難しいところです。笑
とても理解できました。
ですがこの体感を、この経験を、持ち運んでいるのは誰なんでしょう。。
するとまた探究が始まってしまうところなんですが。。

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できる範囲での仏教でいいのか

短期間に多くの質問をして申し訳ありません。 hasunohaに出会って、自分の心と 向き合うための知恵や方法を少しずつですが知ることができました。 特に死生観や生きる意味については お経にしめされている教えや、hasunohaでの問答で 少しずつ道が見えてきたような気がして、 仏教の教えや考え方を取り入れて生活したいと 考えるようになりました。 そこで自分は、書籍などで仏教の作法やお経を調べて 実践しやすいものを生活に取り入れてみたのですが 家が檀家ではないし、近所にお寺が少ないので 自分がしていることが仏教的によいのかがわからなくて、 自分が読んだ本についても、今までの学の範囲内で 意味を考えているかもしれないので もしかしたら解釈が違ってしまっているかも、と不安です。 生兵法は大怪我のもと、のように 檀家でない人、制式に入信していない中途半端な人 が仏教の教えや作法などを生活の中に取り入れても 効果はないのでしょうか? 信仰はどこから有効なものなのでしょうか? また、今後自分がどうしていくべきか (どのように仏教と付き合い 生活の中に生かしていくべきか) を教えてください。 この質問が、今の仏教に対する冒涜のようになってしまっていたら 申し訳ありません。 乱文失礼しました。 追伸 今自分がしていること 寝る前に念仏を唱えて、阿弥陀さまにその日のことや 次の日のことについてご報告させていただくこと。 同じように空いた時間に念仏を唱えること。 お経や教えを心に留めて日常生活をすること。

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