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宗教・宗派は、何を基準に選ぶものですか?

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仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、宗教は対立し得ないと思っています。現実に起こっている戦争は、宗教を大義名分にした、個人的な諍いに過ぎないと思います。

さて、宗教に関心はあるのですが、法華経を読んでも、聖書を読んでも、古事記を読んでも、自分が特定の立場をとる根拠が分かりません。
どのような基準で特定の宗教に入るのでしょうか?

「親が○○教だったから自分も」というのは、宗教性と何ら関係がないことだと思います。

みなさまは、なぜ仏教を選び、その宗派を選んだのでしょうか?
また、他の宗教についてどう思いますか?


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お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

目的地までの地図を持っているのか、実際に歩けるのか

同感です。宗教が真理を説くものであるならば、本来はは対立し得ないものでしょう。宗教に問題があるのでなく、宗教を利用する人間の問題でしょう。

さて、どんな宗教でも真理を説くなら結局同じじゃね?

という疑問は分かります。そしておっしゃる通りです。しかしそれはある意味では未熟な質問ともなり得ます。

なぜなら

たどり着く先は一緒でもたどりつく道は別々だから

です。

結局どれも同じなんでしょ?というのは道を一歩も歩んだことのない人がふもとから頂上を見上げて言うセリフであって、実際に道を歩み始めた人ならば、

「私にはこの道だった」
「この道は私には険しかった」

などという感想が出るものです。

では、どの道を選ぶかという問題ですが、やはりこれはご縁によるところが大きいでしょう。自らにいただいたご縁の中から「これかな~?」と感じた道からとりあえず歩いてみるしかないのでしょう。歩かない事にはその道が自分に合うかどうかわかりません。

「親が○○教だったから自分も」

という在り方は一見頼りない様に見えますが、実際に親に続いて自分も歩いてみて、その道が自分に合ったのなら何の問題もありません。他にもっと合う道もあったのかもしれませんが、その人がその道で救われているという事実があるのならそれでもう十分なのです。

私が歩けたのなら他の人も歩けるだろう

が事実です。

他の人が歩けたのだから自分も歩けるだろう

は想像に過ぎません。自分が歩けたという事実から万人の救いがここにあるという安心が得られるものです。

そういう意味では他の宗教について、私はその人が本当に救われているのならそれで全く問題ないのでそれを尊重するものであります。同時に私のそれも否定されるものではありません。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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こんにちは。

 私はお寺に生まれたので、生まれた時から仏教で曹洞宗だったので、選べませんでしたが、結果として仏教の曹洞宗で良かったなぁと思っています。

 もし、まだどの宗教のどの宗派がいいのか?と迷っているのでしたら、その宗教・宗派の宗教者たちが何をしているのか、信仰している人たちはどんな生き方をしているのか、というのをよく見てみてはいかがでしょう。戦争という側面からではなく、信仰という側面から。その中から、「こういう生き方、良いなぁ」という宗教を選ぶのも良いと思います。

 尚、仏教をよく知るには、まずお釈迦さまの伝記を読むと良いと思います。お釈迦さまの伝記を読むと、仏教がどのような教えかわかると思います。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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きわめて個人的な基準ー「私がどう生きていくか」

はじめまして。亀山純史と申します。
宗教を決める際の基準があるとすれば、それはきわめて個人的な基準となるでしょう。そのことについて、私なりの「宗教と科学の違い」からお話させて頂きます。
宗教で説かれる事柄は、「教え」と言われます。それに対して、科学で明らかにされた法則や理論は「教え」とは言われません。たとえば、お釈迦様がお説きになった「縁起の法則」はお釈迦様の「教え」と言っても、ニュートンが発見した「万有引力の法則」はニュートンの「教え」とは言いません。
それは、宗教とは「私がどう生きていくか」という問いに関わるものであるからだと、私は考えています。「どう生きていくか」という問いへの答えは、「人生の価値」を規定するものです。それは、私たち一人ひとりに問われる問いです。誰かによって一方的に「あなたはこう生きなさい。」と示されるものではありません。なぜなら、「価値」とは一人ひとりが見つけていくものだからです。つまり、「教え」とは、「私」を抜きにしては成立しない問いへの答えなのです。
それに対して、科学は、「私がどう生きていくか」を示すものにはなりません。それは、科学とは人生の価値まで規定できるものではないからです。科学はただ、そこに何が客観的にあるのか、を究明するものなのです。
したがって、「私がどう生きていくか」という自己への問いが、宗教を選ぶ際の「基準」になると私は考えています。そして、宗教を選ぶ際の基準が、「私がどう生きていくか」という、きわめて個人的な基準であれば、他の宗派や宗教を信仰する人も尊重していかなければならない立場が生まれるでしょう。
以上が私からの回答です。宗教を考える際の一助になってくれれば幸いです。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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そんなあなたにはこの本をお勧めします。
お釈迦様の言葉が書かれてあります。
「ブッダの真理の言葉/感興の言葉」
岩波文庫、中村元訳
これを読むと人間お釈迦様の考え方や性格が感じられると思います。
お釈迦様は弟子に言いました。
「自分を頼りに生きなさい。
法(真理、理)を頼りに生きなさい。」
私達自らで自らを整えること、そして、整えられた自分の考えに従って生きること、それがお釈迦様の教え、仏様の教え、つまり仏教です。
決して盲目的に何かを信仰するのではないのです。
かといって、他の宗教や宗派の人を馬鹿にすることなく、敬う気持ちも大切にする、それも仏教なのです。お釈迦様は決してバラモン教などを馬鹿にしたりしませんでした。むしろ敬いつつ、バラモン教の信者にも自らの法を説いたのです。
ところでなぜ私が仏教なのか、浄土宗なのか、それは縁によるものだと思います。浄土宗の教義を学ぶ機会があったことだと思います。
また、浄土宗の教義に、なるほど確かにその通りだ、と思えるものがあったからだと思います。
あなたはあなたの考えに従って生きるのがよいでしょう。仏教などはあなたの考えや生き方の参考にしたらいいです。盲目的に信仰する必要はありませんよ。
もし何か仏教的な意見を参考に聞きたくなったらハスノハに何でも質問してくださいね。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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ご縁をいただく。

頭で解釈して理解し、
そして選択しようとすると、
もはや遠く離れてしまうように、
思います。
そんなことは、
考えないで、
只管、念仏を唱える、
只管、お題目を唱える、
只管、御尊号を唱える、
只管、坐る、
これに尽きます。

妄想しない、
妄動しない、
あるがまま、
そんな野辺のタンポポは、
愛らしいですよね。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

お念仏は選んだのではなく、
阿弥陀さまから
賜りたる信心と、
心得ているいます。
それは、
太陽の光の如し。

ご苦労さま

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おきもち

浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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良い御質問ですねぇ。

 御質問頂き有難うございます。自分は浄土真宗本願寺派の住職ですが、小さい頃から「正信偈」をお勤めさせて頂いておりましたし、小学校から「仏説阿弥陀経」を拝読させて頂いておりましたので、素直に受け止めさせて頂いてお坊さんにさせて頂きましたが、御承知かと思いますが浄土真宗は日々生活させて頂く事が修行だという事ですし、阿弥陀如来さまのお救いにより
私たちが亡くなる事=浄土に生まれる という教えでございます。他の宗派さんは聴くことよりも自力修行する事ですが、私たちは仏さまの教えを聴かせて頂く事こそが大切だという事です。
近くのお寺や教会、神社に運ばれると良いかと思います。  合掌

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おきもち

山寺の住職です。他の仕事と兼務してます。
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宗教もご縁なるもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

とにかく仏教も膨大な教えがございますから、共通した基本的な教え(四法印・四聖諦・空・縁起など)と共に、できる限り、まずは広く浅くあたっていくことも必要であるかと存じます。

そのうちに、ここを掘り下げていきたい、ここを更に深く修行したいとなっていくことで、批判的・合理的な検証もしつつに、得心しながら進めていくことが大切であるかと拙経験からも思うところでございます。

宗教もご縁なるもの。仏教も「縁なき衆生は度し難し」とございますように、「縁」が大切となります。

貴方様にも宗教の善き縁がございますように。

下記拙論は参考までに。

『葬儀と供養の意義について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/d2c3793b56451efdff407f7090851dc1

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「宗教について」問答一覧

伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?

 いつもお世話になっております。  私が尊敬する情報科学の先生がXで、 「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。 だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」 とおっしゃっていました。  私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」 と捉えています。  昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、 「仏様神様がお怒りになっている」 と捉えたと聞きます。  しかし、私は、 「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」 と捉えています。  私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、 思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも 繋がると思っています。  私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして いくかを説いてくれているものだという認識です。  「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。 私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと 思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が… お告げが…  お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や 精神疾患が原因と分かっています。  また、ある工学の先生は、 「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると 思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な 自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを 宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」 とおっしゃっていました。  私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、 世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。

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牧師、神父、イエスキリストが信じられない

仏教のサイトでキリストの話をするのは筋違いだと思いますが、お話しします。 イエスキリストを心の底から信じられないのです。 というか、私は私が所属したい教会がわかりません。 宗教ジプシーで、十数個の宗教を渡り歩いてきました。 でも、どこの神様も心から信じられないのです。というか、どこの教会も心から信じられません。 牧師にもそのことを話しました。 どこの教会が真理かと。 で、聖書を読んでいるかと牧師に問われて、新興宗教の教会に通っていることを打ち明けると、とても馬鹿にされました。 すごく悲しかったし、本気でキレてしまいました。 新興宗教というか、キリスト教の教会にも行かなく成りました。 なんだか、「クリスチャン」が信じられないのです。 もちろん私が知り合ってきた人には、良いクリスチャンもいます。でも、ネットでクリスチャンを自称している人は嫌いです。 ガンジーが「クリスチャンはキリストのように生活してねーじゃん」とツッコミを入れているように、私はクリスチャンが善人ばかりではないことを悟りました。 私はどうしたらいいんでしょう。 もう宗教が嫌になっています。 嫌というか、何かすごい心がモヤモヤします。 どうしたらあの嫌な牧師を赦せるのでしょう。汝の敵を許せと聖書にはあります。 でもどれだけ祈っても聖書を読んでも牧師を赦せないのです。 カウンセラーにも牧師を赦せないことを話しました。 でも、心理学や精神医学を使ってもあの牧師を赦すことができないと私は思ってしまいます。 カウンセラーに助けを求めましたが、正直あまり救われたと思えないのです。 どうすれば人を赦せますか。 お坊さんは、こいつ殺してやりたいと思う奴をどう赦すのですか?そもそも人を殺したいほど憎みますか? また、どうすれば、私は私が納得する教会というか、教えに出会えるでしょうか。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

 いつもお世話になっております。  ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。  私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。  「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。  精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。  以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。  しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。  科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。  そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。  こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。  時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。  ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。  実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。  

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宗教について

お付き合いをして3年目、結婚を将来的に考えている20代後半の彼氏がいます。 結婚に向けて話を進めていく中で、 彼氏のお母様が熱心な新興宗教の信者なことが発覚しました。 彼氏は生まれた時から強制加入されているようですが熱心ではなく活動などにも参加していません。幽霊会員のような状態です。 彼氏はお母様の熱心さに嫌気がさして出身地から遠い所で暮らしているので日常生活で相手の親御さんが尋ねてきたり勧誘してきたりはあまりないと思っていますが… 私の父親が宗教関連断固拒否派です。 彼のことはずっと知らせていて近々食事だけでもするという話も出ていました。 私自身は信仰の自由はそれぞれ個人の自由かと思っているので勧誘されても入らないことは頻繁に伝えて固い意思でお断りすれば良いかなと思っていますが… 彼氏のお母様は私の入信を望んでいる様子だそうです。 (彼氏は宗教関連の話を一切私にしないで欲しいとお母様にきつく言ったようですが聞かない様子だそうです) 父親の反応が怖くてその件を言い出せない状態ですが、母親にも相談したところ「考えが甘すぎる」と言われてしまい結婚は愚か食事会すら猛反対されてしまいました。 私の結婚に対する考えは甘いのでしょうか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ