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自分に合う仏教の宗派

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 生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。

 大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。

 キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。

 そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。

 私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。

 伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の解釈フィルターを通して見る癖が感じられますね。

法相宗の『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受ける、とありますが、ハッキリ言っちゃ悪いですが、アナタの解釈が暴力的であると思いますだ。_(._. )_
別に神様が作った、みたく「自分が作り出した」ということを言っている訳ではありません。
「見えている、聞こえている、感じていることが、自分の身の上に❝法の相❞(物事の表れ)として、現われている、作り出されている」=妄想も、感情も、苦しみも、あなたの勘違い解釈もみな自分が作り出している(唯心造)という意味合いです。
落ち着いて、まず、そこを自覚なさってください、ナ。(^<^)
怒ってもいましぇん。責めてもいまちぇん。
あなたも私も含めた9割の人が、皆そうやって
【仏教に対して自分のイメージでくってかかる】という事をしているから、本当の仏教えに出逢えないのです。出会う前にあなたの中で仏教が「思想化」されてしまったからなのです。
別に日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけはないでしょう。
生活密着取材してみましたか?
「そして禅系は座っているだけという印象を持っています。」?
私なんか一週間に10分くらいです。活きた生活の中の坐禅をしています。
そういう座禅は坐禅じゃありません。
アホみたいにお座りコイて隠遁しているわけでもありません。
それも全部あなたのイメージ、唯心造、ですな。
何を観てきて、そういうイメージができていったのでしょう? 
まさしく自分が生み出したのでしょう。←そういうのを迷いというのです。
迷いや思想の起こりを自分で知らない内から、世間に何の救いをもたらそうというのでしょう?人を惑わせるだけです。
悟りを得ないならば何を伝道するのですか?
悟りを得る前から何を伝道するのでしょうか?
それはわたしにはワカランです。
まず、物事を正しく、受け止める、自分の主観
を交えずに見るという事があなたの一番なすべきことでしょう。
(丹下は見込みのありそうな人には厳しいです)
まずは、そこを治さなかったならば何を学ぶにしても、主観、私的解釈なのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「智慧と福徳」の二資糧

しょうき様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

以前にも似たようなご質問がございましたので、そちらから編集して引用させて頂きますので、少しくご参照下さいませ。

仏説は八万四千の法門と言われますように、多くの教えがございます。どうしてそんなに多くの教えが説かれたのかと申しますと、釈尊は、相手の機根(悟りへと向かうための能力・資質)に応じて、巧みに悟りへと導くために説かれた(善巧方便)からでございます。

簡単には、一人一人それぞれに対して説かれた、または八万四千の煩悩の一つ一つの対処法を説かれたと考えることもできるでしょう。まあ、それらの教えのある程度の公約数が、各宗派的なものとしてまとまっていると考えることもできますが、ではいったいどの教えが自分に合うのかと申しますと、やはり、ある程度それぞれあたりを付けていく必要があるのではないかと存じます。

かといって、全ての仏典や論書等を読むには膨大な時間と労力がかかってしまいますから、とにかく仏教思想の全体を概観できるような入門書、参考書からまずは学ばれていかれると良いのではないだろうかと存じます。

そして、やがて本格的に学び修していきたいものに出逢えましたら、その師を求められて、そして指導を仰ぐようになさられると良いのではないかと存じます。

在家のままでも授戒を受けるなどして正式な仏弟子となって、仏道を歩むこともできるかと存じます。僧侶になるのであれば、ある程度専門的なところでの修行は必要となりますが、そうでなければ、在家のままでも修行できないことはありませんので、その点はどうかご安心下さいませ。

とにかく、在家であろうが出家であろうが、仏道を歩む上で大切となるのが「菩提心」(全てのものたちを救うための悟りを求めたいとする心)でございます。まずは、しっかりと「菩提心」を起こして、そして、悟りへと向けての「智慧(空の理解)と福徳(方便・功徳の実践)」の二資糧を確かに積んでいくことが必要となって参ります。

また、無理に出家の修行の形式にこだわる必要もありません。日常の行住坐臥の中でも、心身共に無理のない範囲でバランス良く(中道)に進めることが大切となります。

頑張って共に仏道の歩みに励んで参りましょう。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

それで良いとおもいます

佛教は、学問では、無いと、思っております。

もちろん、僧侶は、生き方であり、職業ではありません。

宗派も、しかり

自然法爾と言う言葉がある様に。

あなたの、捉え方での佛教で良いとおもいます。

お念仏も、お題目も 決して、ただ唱えているだけではありません。

佛様とは、解き解いて下さる方。

頭よりも、受け止めてみるとまた、違ってみえたりしますよ。。。

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ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市 の 大法寺 の住職をしております。 大法寺は、代々尼僧寺院であり、苦しんでいる女性を救い 「 おわりはじまりのてら 」 「 尾張の駆け込み寺 」と、呼ばれておりました。 白龍が住んでいると言われている、樹齢650年の大楠の元に、倶利伽羅不動明王の祠が有ります。 その宝剣で、悪い縁を切って下さると言われ、『 悪縁切り供養 』をしています。 病気、人間関係、依存症、自分の中の悪い想いを 切って下さいます。 縁切りの絵馬に、切りたい縁を書き込み、縁切りのお護りを授与しております。 是非、お参りください。 『 命の相談会 』 を、開催しております。 胸の中にあるもの、だれにも言えない事を、全て吐き出しましょう。 一緒に泣きましょう、一緒に叫びましょう、一緒に笑いましょう。 自坊、ショッピングモール、赤十字血液センター、カフェ、放送局、等で 定期的に行なっております。 日程は、ホームページで、確認してください。 ホームページ www.daihouji.org 『 樹木葬 大法寺 』 『 縁切り 大法寺 』 で検索してください。 緊急の場合 苦しかったら、辛かったら、電話ください、 09066179353

宗派ごとの違いも大きいですが、先生の違いも大きいです。

実際にいろいろなお寺の法座に参られてはいかがでしょうか?

師事できそうな先生に出遇えれば、

その宗派があなたに合う宗派なのでしょう。

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 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

テーラワーダ仏教も

日本の宗派の他に、テーラワーダ仏教(上座部仏教)もおもしろいです。
たとえば、日本テーラワーダ仏教協会のホームページを見てみてください。
そのサイトでは日本の宗派のことは厳しく批判していますが、それは置いといて、仏教の基礎的な知識(あらゆる宗派の基盤)を理解するうえで役立ちます。
私の所属は浄土宗ですが。
昔のお坊さんは、基礎仏教の知識を徹底的に学び、実践したうえで、宗派の教えにたどりついたのです。
四諦八正道や、戒・サマタ冥想・ヴィパッサナー冥想という三つの修行(三学)は、宗派によって違うとはいえ、仏道には必ずあります。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

慌てなくても

20年そこらしか生きていない君に何も言うことはありません。
今以上に、夜のため人の為に働いてください。感謝される人になってください。
仏教はそれからでも遅くないですから。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

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