神仏が信じられません
私は、神仏の存在が信じられません。
遺伝性の疾患も抱えており、仕事をすることもままならず、結婚・出産と言ったこともすっかり諦めています。
人生のターニングポイントでの決断はことごとく失敗。
ついてないとしか考えられません。
ですので、人生に対して幸せや感謝と言った感情も抱くことができません。
先祖に対しても、素直に受け入れることができないばかりか、ある種の憎しみに近い感情を抱いてしまっています。
親子の仲も良好とは言えない状況です。
本当に神仏が存在しているのであれば、もっと他人と平等な生活を送れるようにしてくれても良いのではないかと思ってしまい、
どうしても受け入れることができません。
他人からは、神仏を信じない、先祖を大切にしないから、不運が続くのだと言われます。
どのように神仏と向き合うべきなのでしょうか。
ご教授いただけましたら、幸いです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
外の神仏を信じたってしょうがない
神仏とは内なる人間の我・都合・エゴを超えた働き。
この世の理法であり、人間の見解・人間のご都合とは無縁なるはたらきです。
先祖や身内を憎む・恨むのは人間のやること。
神仏とはそういう心情から離れたところに見出される天地自然の法理です。
それをアンパンマンのように人格化すると仏サマとか神サマとか「サマ」がつく。
それを映像化すると仏像や曼荼羅や梵字になる。
みなこの一心から見いだされたものです。
宇宙だって自然現象だってめぐり合わせだって人間が作ったわけではないでしょう。
だから人間が人間の自分流の目線で世界を見ると「人間界ビジョン」になる。
カチマケ・優劣・損得・美醜・清濁。
「あー、自分なんてだめだ。なんて恵まれてないんだ。」と思えるもの一種の自分流の味方です。
ドラえもんでもそういう話が出てきますが、過去の人間が現代にやってくるとそのあまりの恵まれた世界に驚愕します。
馬より速く走る乗り物。
手軽に手に入る食糧。
寒さをしのぐ空気の温度を変える機械。
指先一つでこうして遠く離れたあなたと通信できる道具。「なぬ!?早馬や伝書鳩は要らぬと申すか!?」
私は今日、車に乗ってスゲー恵まれていると感じました。
いたるトコに憎しみを抱けばいたるところに魔が宿ります。
自分を中心とするとスマホみながら電信柱にアタマぶつけると柱を蹴っている人なんかいます。
いたるところに感謝を抱けば座っているイスも地面に比べりゃフカフカ。ろうそくよりも明るいライト。暖かい料理を作れる魔法の火おこしマシン。全部神様ですぢゃ。
本当の仏というのは、覚者。
悟りを得ること。
自分が自分の自我やエゴ・我を鎮めて、心が無為無作になった時に見出される真実の自己。
だから仏と言われ有人たちはみな坐禅や瞑想で心の本来性が無我なることを見出したのです。
そういう仏を拝めるようになるとあなたの人生はこれをきっかけに劇的に変わります。保証します。
余談ですが、人は人でないものも人格化する。
お天道様、おひさま、お月さま、おかげさま。
埼玉では七夕にも七夕さまと「さま」をつけます。
愛知に行ったときには「お経さま」とお経にもさまをつけておられたのでびっくらぽんでした。私たちを陰ながら救ってくださる存在に対して日本人は「さま」をつけておまつりするものとして神格化するところがあるようです。おつかれさま。感恩感恵。👋
「信じる」というよりも・・
あっし様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏様に対しては、「信じる」というよりも、自分が、その教えである仏法を学び、理解し、納得した上で、その教えを実践していくというところが大切となります。
お釈迦様は、最期に「自灯明 法灯明」とおっしゃられておられます。
仏法を拠りどころとして、その仏法を実践する己自身を拠りどころとして、修行の完成を目指していくことが求められるところとなります。
信じるのは、まあ、正直なところ後からでも構いません。
それよりも、疑いつつ、検証しつつにも、是非、仏教を学び実践していって頂けましたら有り難くに存じます。
仏教は、世俗的なことにも、あるいは悟りへと向けた勝義的なことにも、善き結果、赴きへと向けた因縁(原因と条件)を実践していくための教えであります。
きっと善い方向へと向かうことになっていくのではないかとは思いますが、それも、「本当かなー」と思いながらで、まずは構わないですので。是非にも。。
川口英俊 合掌
口先で南無阿弥陀仏と言えばよい
口先で 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と いえばよい
心なくして 申せるものか
江戸時代にカリスマ的な人気があったお坊さん徳本上人(とくほんしょうにん)が、上記の言葉をのこしていると聞いたことがあります。
「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏を尊敬します)と念仏をとなえるとき、一般的には、阿弥陀仏を信じてとなえるべきだと教わります。
しかし、信じたいけど信じられない、疑ってしまうのが、私達人間の愚かさです。
それでも、口先だけでもいいから「南無阿弥陀仏」ととなえればよい。
本当に、微塵も信心がないなら、口先だけの念仏も出ないはず。
口先だけの念仏でも「南無阿弥陀仏」ととなえられたなら、きっと心のどこかに信心はある。
そのわずかな信心だけでも、阿弥陀仏は救ってくださる。
「徒然草」という書物によると、浄土宗の開祖法然上人(ほうねんしょうにん)は、「疑いながらも念仏すれば往生できる」と言われたそうです。
と、いうことで、仏様を疑ってしまう気持ちを抱いたままでもよいので、
「南無阿弥陀仏」とか「南無三宝(なむさんぼう)」とか口ずさんでみましょう。
阿弥陀仏は、あなたの来世の幸せ(往生極楽)を約束してくれます。
南無阿弥陀仏ととなえるだけで、あなたの人生のハッピーエンドは確定します。
あとは、日々を適当に生きぬけばよいだけ。
人生ってけっこうチョロいもんです。
神仏を信じても信じなくても、念仏すれば往生できます。
今が幸せでも不幸でも、念仏すれば往生できます。
お金持ちでも貧乏でも、健康でも病気でも、善人でも悪人でも、念仏すれば往生できます。
合掌 南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
ご教授いただきまして、ありがとうございました。
外より、内にあるもの…
上手くコメントが出来ずに申し訳ないのですが、『自分を見つめる一つの考え方』なのかなと感じました。
信じる、信じないということより、宗派により内容(方法論)に違いはあるのでしょうが、
自分が実践することが大事と言うことなのかなと、自分としては消化しました。
お忙しいところ、ありがとうございました。