死ぬのが怖い、身近な人にも相談できない 辛い
現在、大学4回生です
中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。
その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。
地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。
納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。
真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。
どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。
化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです
臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です
かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと...
様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。
今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。
利己的な見解ばかりで申し訳ありません
自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです
僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で...
ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。
故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。
どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。
生への執着
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そう思うのが健全です。
あの一休さんも死に際に「死にとうない。」と話されておりました。死に対してはどんな人も無力です。怖いものです。克服なんぞ出来ません。さらに私はそれだけ知識を得たあなたに対して納得いく回答は出来ません。でも、私もたまに考えることもありますので、気持ちが分からないわけでもありません。死の事を考えると手がぶるぶる震えます。でも回答が出ないまま40代を迎えました。死後の世界は行った者が帰って来たという客観的な証拠が無い限り信用は出来ないでしょう。
死は避けられません。苦しみも避けられません。生きることと幸せになることにはそれなりの意志と努力が必要です。あなたにはそれが伴っている気がします。死があるから生を大切に出来るのです。悪く言えば、生に対して執着があるから死を避けるのです。
これからももっとその疑問に向き合ってください。生にしがみついても生きて下さい。そして、なぜ死が怖いか一緒に回答を見つけて行きましょう。すいません。回答になってませんが、また、あなたなりの意見を投稿して下さい。
気持ちを知ってもらう。
死後は明確にあります。
様々な文献を読まれたそうですが
白隠(はくいん)さんのエピソードはご存知でしょうか。
昔、臨済宗中興の祖といわれる有名なお坊さんで白隠禅師という方がいました。
白隠さんも子どものころ、死ぬのが怖くて、地獄に落ちて焼かれたくなくて。お風呂に入っているときに風呂釜の火を想像しただけで泣いてしまったそうです。
そんな白隠さん、ゆくゆくはえらいお坊さんになるわけですが、60歳くらいの頃、一人の武士が尋ねてきます。
「和尚。人は死んだらどうなるのか。地獄極楽はどこにあるのでしょう。」
でも白隠さんは
『地獄極楽のありかを知りたいなんぞ武士は武士でも腰抜け武士じゃろ。』とあえて挑発するんですね。
侮辱されて生きるは武士にあらず。怒って刀を抜き、白隠さんを斬り殺そうとしました。
『それ!そこじゃ。その心が地獄じゃ!』
武士ははっと我に返って「有難うございます。身を滅ぼすところでした。」
そこでまた白隠さん。
『それそれ、そこが極楽じゃよ。。。』
といって諭されたそうです。
何だかんだ有名なエピソードなのでご存知の方も多いかもしれません。
私がこれにならうとすれば
『死後は明確にあります。吾統さんの心にそれははっきりとあるでしょう。』
とお答えすると思います。
でもそれでいいんでしょうか。
吾統さんは感謝の心で生きています。周りの人々への感謝を送る人生を描いていらっしゃる。たいせつな人たちを、文字通りたいせつに想う気持ちでいっぱいだ、というのが伝わってきます。
それなのに一番自分の知りたいことを、なぜたいせつな人たちには話せないのでしょう。自分の気持ちを知ってもらいたいとは思わないですか?
周りの人はたいせつに出来ても、自分の気持ち、問いはたいせつにできませんか?
ご両親も、御両祖も、あなたもいつか死にます。
『死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。』
あなたが邪魔者扱いしているのは自分自身ではないでしょうか。
どうかご自身のたいせつな問いを、想いを
あなたをたいせつに想ってくれる人とこそ
伝えあっていただきたいです。
いきなり「死んだらどうなる」と聞くのは野暮かもしれませんが
いつか必ず直面するのですから。
『死』が居てくれるから、吾統さんと周りの人々の人生が尊く輝くのだと、
私はそう信じています。
そうあってほしいです。
お薦めの本
吾統様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
死後のことにつきまして、拙生も最近になってようやくに得心できたことがございます。
その最も大きな契機となったのが、「チベット生と死の書」ソギャル・リンポチェ師著・大迫正弘氏訳(講談社+α文庫)を何度か読み、そして、「ゲルク派版・チベット死者の書」(ヤンチェン・ガロ大師・平岡宏一氏訳)も何度も読んで、読解に努めたことであります。
特に、後者におけるヤンチェン・ガロ大師「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」は、死から次の生へのプロセスについて詳しく説明されており、更に、そのプロセスを悟りへと至るための修行のためにどういかすべきであるか、について解説されているところとなります。
もし宜しければにて、両者の読解に努められると共に、並行して仏教について学び修されていかれることをお勧め申し上げたいと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お坊様方
こういった思いは珍しくなく 各々持っている みんなそうなんだと思うと少し楽になれました
多分この思いは生涯の悩みになるとは思いますが 上手く向き合っていくことはできそうです
ずっと思い悩み 布団にくるまりむせび泣いた時もあったくらいですが。
特に吉井浩文様の
{『死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。』
あなたが邪魔者扱いしているのは自分自身ではないでしょうか。}
というご回答にハッとさせられました。
この恐怖も自分自身のエゴな心の動きに帰結していることが分かったからです。
お坊様方が見ず知らずの私のために親身になっていただけたように
私自身も誰かのために生き抜いてみようと思います。
ご回答いただきありがとうございました。