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お釈迦様とクッサイ屁

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こんにちは!
悩みでも何でもなくどうでもいい質問ですが、どうぞよろしくお願いします。

妄想ですが、お釈迦様が説法をしていた時にそこにいた誰かがすかしっ屁をし、あまりにも臭かったとします。そのときお釈迦様は、その臭いを観察するだけで無反応だと思いますか?

また答えてくださったお坊さんは、どんな反応をなさいますか?

僕は家族がクッサイ屁をすると、キレそうになりながら違う部屋に行きます。なるべく怒りを生み出さないように心掛けていますが、まだまだですね...。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

臭いもんは臭い

むか〜しむかし、お釈迦さまが説法をしていたある時、いつも最前列の席をとって熱心に聞いていたお弟子さんが見当たりませんでした。お釈迦さまがどうしたのかな?と思って探してみると、お弟子さんは一番後ろの端っこにいました。

お釈迦さまが「どうしたのです?そんな所にいてはよく聞こえませんよ。もっと近くにいらっしゃい。」と言うと、お弟子さんはこう言いました。「私は今日、お檀家さんからニンニクをたくさんいただいて食べました。だから私の息はとても臭く、お釈迦さまが説法をしたり、他の兄弟弟子たちが集中して聞くさまたげとなってしまいます。だから今日、私は前に行けないのです。」

それを聞いてお釈迦さまは怒りました。「なんということでしょう!そんなに修行のさまたげになってしまうのなら今後ニンニクを食べることは禁止します!」
こうしてニンニクを食べてはいけないという戒律ができました。

もしもすかしっ屁があまりに臭すぎたなら、お釈迦さまは原因究明と再発防止に努めたかもしれないなと私は思います。

なんでもかんでも精神論な宗教的根性論に走らないのも大切ですよ。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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きっとお釈迦さんはくっさい屁をした誰かを心配するのでは

くっさい屁を嗅いだお釈迦様は
きっと「昨日、酒を飲みすぎたり、食べ過ぎたりした者がいるようだ。
もしくは、胃腸が荒れているかもしれない。
誰とは特定しないが、諸君も日常の食生活には気をつけるように。健康第一。」
と、屁をこいた人を気遣い、哀れんでくれるのではないでしょうか。

ちなみに僕だったら
「くさいなぁ」

でおしまいです。笑

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おきもち

 2500年も昔の世界ですから、野生動物がたくさんいて、様々なにおいで満ちていたと思います。おならのにおいがしても気にならないのでは?現代日本のような無臭の世界の方が異常だと思います。

 もしおならのにおいがしても、「これは誰のおならなんだ」とか「このおならの主は昨日何を食べたのだ」などといった観察や考察はしないと思います。「大切な話をしている時におならをするとは失礼だ」などとも思わないと思います。「臭いなぁ」で終わりだと思います。

 「くさいにおい」と「あなたの怒り」の間には何段階か意識の動きがあると思います。(だって例えばじぶんのおならなら怒りは出ないでしょうから。)意識は「くさい」で終わらせ、部屋を変えれば良いと思います。においに対してわざわざ怒る必要はありません。

 私だったら、臭いとは言わずに「暑いなぁ」などと言いながら窓を開けると思います。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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釈尊のお鼻に触れた後のにおいであれば・・

けやき様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

悟りを開かれました仏陀・如来と、私たち凡夫とでは、モノ・コトへの知覚・認識の仕方が根本的に異なるものとなるため、私たちが捉えているようには、知覚・認識されておられないと考えることになります。

やや難しく申しますと、私たちは、色々と無明(根本的な無知)によって、モノ・コトを実体視してしまっての、良し悪しや、好き嫌いなどの煩悩が生じてしまうところですが、仏陀・如来においては、空性(実体の無いこと)現量(直接知覚)了解にてモノ・コトを把捉されておられるため、全ての顕現は、(世俗諦も勝義諦も)清浄なる空性として捉えられるところであると考えられます。この場合の清浄とは、私たちが普通に考えるような清い、汚いの、汚いの逆としての清浄とも違う概念となりますので、その点は注意が必要ですが、まあ、私たちにとってはかなり臭いにおいであっても、釈尊におかれては煩悩が生じないため、不快さなども無いと考えることができるでしょう。

あるいは、釈尊の故事に、釈尊に仕えて身のまわりのお世話をされていた阿難尊者が、ある時に、釈尊がもう腐りかけている麦を口にされた際に、そのことを心配した阿難尊者に対して、釈尊が、その食べていた麦を阿難尊者に渡して、それを阿難尊者が食べたところ、とんでもなく美味しい味がしたということがありました。

仏陀・如来は、色々な不思議な力をお持ちになられるところとなりますが、この解釈としては、私たち凡夫にとっては不味いものであっても、仏陀・如来であれば、その仏陀・如来の積まれた福徳(功徳)にて成就された(色身・変化身における)お力において、舌に触れた食べ物が美味に変化したということであると考えられるところとなります。

もしかすると、私たち凡夫にとっては、かなり臭いにおいであっても、釈尊のお鼻に触れた後のにおいであれば、とんでもない良いにおいになるのかもしれないですね。。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

皆さま、ご回答ありがとうございますm(_ _)m
勉強になりました!

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