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しんどいです

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昔から運が無いようで人に騙されたり楽しい思い出は消えてしまいます。
正直、私は真面目です。
ゴミ分別で間違えてしまったときなども役場に電話して謝ったりします。

長年婚活しています。
お付き合いしても会うのが苦痛になったり相手から見捨てられるなど短期間で駄目になります。
見捨てられる理由はあまりにも私が我が儘を言わないようです。
嫌なことをされても怒らず我慢しているところがあります。
結婚相談所で出会ったかたと一年近く付き合いましたが次第に冷たくなりました。離れたくてそうしているのか聞いたら違うといい、こじれるのを避けたいから距離を置きたいといわれそうしていたら違う人とお付き合いしていたことがわかったりと悲しい結果になりました。
過去には婚活詐欺にもあい辛いことが続きます。
大抵おもしろいくらいに悪化し駄目になります。
半年もてばよいくらいです。
相手から優しさが感じられないと恐怖心になり何も言えなくなります。

あるお寺さんに霊視をしてもらったところ先祖の因縁とかで今のままだとどんなに頑張っても結果がでないといわれました。
毎月12000円で最低三年続けることで先祖供養できますがと提案をいただいていますがまた騙されているような気がしてしまい悩んでいます。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ただでいいのでウチの寺にお越しやす

毎週日曜坐禅会をやってます。
気を使い過ぎる、自分の妄想に押しつぶされそうな人には効果絶大です。
自分こそがそういう妄想を作りだしているという事にこういう文字ではなく、実際に気づく為にはリアルに出向くしかないと思います。
それに立ち向かおうと足を一歩踏み出せばもう問題の40パーセントは解決したと言ってもいいでしょう。
月に12000円は高いですな。
うちなら毎週500円であなたの問題はスッキリおさらばでしょう。
初回~5回まではただで結構。治らなかったらお金も要りません。
坐禅とは、あなたのような人のためにもあるのです。
自分に向き合いたくなたらお越しください。
ただし、うちのお寺は仏教や禅を学ぶところではありません。
自分を学ぶ場です。
お釈迦様と同じく、お釈迦様も仏教や禅を学んだのではなく、自分自身が自分自身の本源を悟られたという事ですから、仏教を学ぶ場所だとは思わないでください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

因縁を考える前にしたいこと

確かに先祖からの因縁はあります。これはあなたに限らす人間誰しもが持っているものですから特別な事ではないのです。
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真面目な人にくだけろと言っても無理な話。その真面目さは大切にしましょう。
その上で書道など習い事で趣味を持ちあなたの魅力向上につとめましょう。
魅力が向上すれば騙す人が近付かなくなる上に良いご縁も増えて参ります。
先祖の因縁を考えるのはそれからでも遅くはありません。
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ちなみに、毎月いくらで先祖供養ができるというのは、やめておきましょう。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

脅すようなことを言う僧侶を信じてはダメ

真面目なことは悪いことではないでしょう(^-^)
人を心から信じることができることも素晴らしいことでしょう。

過去に大変な経験をされたとのこと。そのことで人を信用しないというのは、少し違うように思います。過去に騙した人と、これから出会う人は違う人です。比べたり、重ねてみるようなことがあっては、本当に相手を見ることができません。

その人そのものを、あなたの過去をつけずに見てください。そして、見定めてください。

男は甘えられる事で相手を大切にしようと思ったりするものです。自分に完璧を求めず、少し抜けているぐらいで、相手に甘えることができたら、大切にもしてもらえるのではないでしょうか。

人はロボットではないから、間違えもします。ごめんねが言えればいいのです。そしてあなたが相手を本当に大切に思うことが大切でしょう。時には相手が振り向いてくれないこともあるかもしれません。それもそれとして、また次の出会いを期待するのみです。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

「因縁」について

まさこ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この度は、「因縁」ということにつきまして、少し詳しく述べさせて頂いておきたいと存じます。

これまでにも「因縁」に関することは、下記の各問いにても述べさせて頂いておりますので、こちらは、またお時間のございます時に、参考になさられて下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/因縁

まず、「因縁」は、単に、「原因と条件」のことで、先祖の因縁が・・とか、前世の因縁が・・とか、因縁をつける・・とか、というのは、正直、間違った使い方となります。

どうしても、世間で使われてしまう「因縁」という言葉は、悪いイメージとなってしまっていますが、本来は、ニュートラル、中性なものであり、ただこの世におけるモノ・コトのありよう、事象・現象世界のありようを説明する際に使われるものであるとお考え頂けましたらと存じます。

結果、また、これからの結果も全て「原因と条件」次第ということになります。因縁は、変えれないとか、永久不滅とか、いうのも間違いとなります。

仏教では、永久永遠に変わらない何か独立自存なる実体(・自性・自相)というものは、否定されるものとなります。

因縁が、結果として、また、その結果が、何らかの因縁となることもあって、また結果を生じさせることもあり、またその結果が・・といったように変化していくものとなります。

そこで、もしも、悪い流れがあるのであれば、どこかで、良い因縁、良い原因や良い条件を調えてあげていければ、変えることだってできるものであります。

先祖、前世の因縁云々も、まあ多少なりともその流れが引き継がれていることもあるかもしれませんし、否定もしませんが、何よりも直接にこれからの流れ、結果へと向けて大切となって参りますのは、ご自身における因縁次第が重要なこととなります。

先祖供養につきましては、「供養」という字の通り、「供(とも)に養う」、何をかと言いますと、悟りへと向けた「善行・功徳」であり、ご先祖様、あるいは全て一切衆生と、皆供に、悟りへと向けて養う行いが大切となります。そのような「善行・功徳」となる行いについても、少しこの機会にお考えを頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

みなさま

ご回答ありがとうございます。

甘えたり、我が儘というものがよくわからず仕事でも自分の立場では難しい状況になっても対応を続けていたりと生きずらいです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ