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義父との付き合い方

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義父は2年前に血液の癌であることがわかり、見た目元気なようなのですが痛みと将来の不安にお酒の量が増えるばかりです。私のことが頼りなく思っているのか最近耐えられない言葉を浴びせられるならまだ我慢も出来ますが、ある日突然何をされるか恐怖に怯える日々を過ごしています。寝込んでいるところを刺し殺されるのではないか、家に火をつけて焼き払おうと思っているのではなどと思ってしまうほどの恐怖で頭がおかしくなりそうです。どう向き合えばよいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病人には厳しい態度をとる

病人はわがままになりがち。甘い顔はお互いを不幸にします。規律正しい生活が心身を必ず整えるものです。
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わがままは自由ではなく不幸。それを押し付けられる方も不幸。
病人にはより厳しい態度で臨むことが本当の優しさなのです。
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あなたはまずご家族、特に旦那さんとお話をして見方になってもらいなさい。
義父の逃げ道は作らないことも重要です。誰も自分のわがままを聞いてくれないと思わせることです。
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その思いこそが義父の本当の逃げ道、安らぎの場所なのですよ。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

病がさせていること

それは、お父様がしていることではなく、病がそのようにさせている事と考えましょう。きっとお父様はくるしんでおられる。救って欲しいとねがっていて、周りに汚い言葉などでそのように表現するのでしょう。

病を楽にさせてあげる方法をいろいろやってあげてください。想像できないような罵声もあると思います。その時は仏の心で受け入れてあげてください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

猫の問題も義父の問題も根源は同じ

猫の問題がまだ解決していなかったようですね。
猫のことを心を明かせる人3人に話すことです。
あなた一人が抱えているから苦しいのでしょう。
一人で抱え込まないとは、明かす、ということ。うち明かすという事です。
それができるようになれば、今回のお悩みもそこから縛られることがありません。
猫に対して悪かったなぁ、何かタタリや災いでも起こるんじゃないかという不安が消えていないのではないでしょうか。
猫の事をおびえるのも、義父の事をおびえるのも同じ心理です。
自分が対峙していないものに対するおびえです。
実物が本当に大暴れした時にだけ、冷静に対応すればよいのです。
義父という事は奧様のお父様に当たる訳でしょうか?
心身のケア、サポート、痛みの緩和は肉身、身内を通してお任せする他ありませんでしょうから、何かしてあげたいと思う事があれば奥様やご家族を通してお話されてはいかがでしょうか。
あなたは猫と義父に対する不安や怖れを、生命に対する慈しみ、愛情に変えていくべきです。
そうすることであなたの中の猫も成仏し、義父さまに対する不安もなくなりましょう。
あなたの生命に対する慈しみの心、慈悲、生命尊重の心が問われているのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

人とはいえ80近い高齢者でありながら柔道では有段者で師範代も務めていた方なので、いまでも眼光するどく頭に血が上ると計り知れない恐怖すら覚えます。そんな義父に厳しい態度をとるなんて出来るのでしょうか…
少しずつゆっくりと家族の幸せのため不幸な出来事が起きないよう慎重に努力して行こうと思います。
円通寺の邦元さん、ありがたいアドバイスありがとうございます。 仏の心は常に持ち続けていますが前回同様、自身に心の痛みとなっています。焦らずゆっくり頑張ります。

たんげかくげん様のおっしゃる通りです
未だにふとしたときに思い出してしまいます
そんな時に上手くいかなかった事があったりすると更に不安が加速してしまいます(泣)
そうなると霊能者に縋りたくなったりします
さすがに妻は呆れて泣き出してしまいハッと我に返る状態です 何人かの人に尋ねてみると猫や狸を轢いた方が多い事に驚いてますが、ほとんどの方は運転手として頑張っていらっしゃるので、お坊様のありがたいアドバイスを頑張って克服したいと思います。
ありがとうございました。

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