生きるのは苦しみ?
うつ病(持続性気分障害)の治療を10年近く受けていいる者です。
先だっては、お坊様方からのメッセージをいただきありがとうございました。世の中には良い人もいると分かり嬉しかったです。
前回の質問よりも「命」について突っ込んでお尋ねします。
生きているのが苦しくて苦しくて楽になりたいです。
死にたいと思うことがあります。
【 自分の命であっても、なぜ命を絶ってはいけないのでしょうか? 】
「生きたくても生きれない人がいる」「生まれてこれなかった命がある」「困る人がいる」「悲しむ人がいる」「ひとつしかないから」「死ぬのは怖いから」「ご先祖様からの預かりものだから」「命のリレーだから」「なかなか人間に生まれるチャンスはないから」などの答えに頭では理解出来ます。
しかし、死について考えているときは負のスパイラルの真っただ中にいるので、自殺のストッパーに全くならないのです。
本で読んだのですが、「お釈迦様も生老病死を苦しみとおっしゃった」そうですよね?つまり生きることも苦しみ。
だから修行して解脱し、二度とどこの世界にも生まれないようにするのですか?
もしそうなら個人的にはしっくりきます。(でも結局は生きていてもつまらないですよね。)
こんな質問をしていますが、本当は死にたくないという自分もいると思います。死にたがりの生きたがりなのでしょう。
お答えをいただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
蓮は泥より出でて、泥に染まらず
現代では時代の流れが迅速過ぎ、かつ変化多き時代について行こうとする事が生きる苦しみを生み出しているのです。
時代になんて心をついていこうとしなくて人はいいのです。
速い車を追いかけても、追い越すことも出来なければ、付いていくこともできないです。
このように、人も自然の一つの物質であります。
松山千春さんの「君を忘れない」の一節に「どうして生きているの?.......答えを急ぐことはない、やがて分かるから」とあります。
このように人生はお釈迦様が説かれたように「一切皆苦(一切行苦)」であり、泥の中に私たちは生きています。極楽浄土は清らかな世界と説いていますよね。私たちは一切皆苦なる穢土に生きています。
タイトルの「蓮は泥より出でて、泥に染まらず」と、蓮は泥で濁ったところでは立派な花を咲かせます。また、綺麗な水では蓮の葉は小さな花しか開きません。
生きる意味を探求されている迷走者さんは哲学者要素を持っております。それを自分に向けてしまい過ぎな傾向があることで、自身の煩悩が逆行しているのです。自身ではなく、人は皆もっている煩悩という病。この病なる煩悩をコントロールする術を身に付けることで、生きる希望がその人その人により異なりますが、芽生えるものです。
時代の変化に付いていこうとする気持ちがあれば、それは遮断してみてください。私は日々、自然に目を向け心を向けています。そうする訓練(癖・修行)をすることで、見えなかった時間が1秒単位で見えてくるようにもなります。
返答が、通ずるか不透明な解答に取られるかも知れませんが、何かお役に立てれば幸いです。
寿命ある限り、意味がなくても生きてこそ、人生。答えは時と共に歩んだ自身の人生が追いかけるように教えてくれるでしょう。
合掌
輪廻転生から解脱するためには
あなたがおっしゃるように、生きることは苦です。
快楽さえも、本質は苦です。
私達が美しい映像を視て喜んでいるときも、実は、太陽が放った光エネルギーのビーム攻撃を眼球が受け続けている。
ビーム攻撃が弱すぎて気にしていないだけで、実は弱いパンチを受け続け、ダメージを受けているのです。
皮膚でパンチ(なんらかの刺激)を受けた場合は、痛み又は熱さとして感じます。痛みの強さによっては、かゆみや、くすぐったいと感じます。
そのような物理的パンチを、眼で受けたら映像と認識する、耳で受けたら音声と、舌で受けたら味覚と認識するだけで、実は、全ては強い苦痛か弱い苦痛のパンチなのです。
息を吸ったら、吐きたいという苦痛が生まれます。
息を吐いたら、今度は吸いたいという苦痛が生まれます。
日常生活で、たとえば洗濯したら、洗濯物を干したいという苦痛が生じます。洗濯物が乾いたら、取り込みたいという苦痛が生じます。
男性が性的な刺激(パンチ)を受けたら、射精したいという苦痛が生じます。
赤ちゃんの鼻先におっぱいが近づいたら、赤ちゃんは飲みたいという苦で泣きます。大人のように快楽の錯覚ができあがっていないから、嬉しいはずのおっぱいに泣く(苦を表明)のです。
そのように、苦痛から苦痛へとサーフィンしているのが、生きるということです。
生きるのが辛いという苦痛が起きたら、死にたいという苦痛が生じます。
しかし、死ぬときは、渇愛・執着から「やっぱりまだまだ生きたい」という苦痛が生じます。
そして、輪廻転生してしまうのです。
渇愛、執着、煩悩を完全になくした、阿羅漢というレベルの悟りに達した者だけが、死んでも二度と輪廻転生しないで、苦痛から苦痛へのサーフィンから解放されるのです。
是非仏教を学んで、この世では無理でも、来世には悟れるよう、準備していきましょう。
せっかく、仏教がある世界に、人間として生まれたんだから、どうせ苦しい人生なら、仏教を学んで将来の苦からの解脱に役立てましょう。
また、「全てが苦」だと見えているときは、冷静な判断ができます。
包丁で刺されるのも苦、注射針で刺されるのも苦、どちらも苦として比較する冷静さがあるときは、包丁よりは注射の方がマシだと判断する余裕ができますからね。
発菩提心
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
お釈迦様は、確かに「一切行苦」(一切皆苦)とおっしゃられましたが、何が苦しみとなっているのかと申せば、「無明・煩悩・悪業に苛まれている限りには」、というものとなります。
ですから、無明・煩悩・悪業に苛まれなくなれば、楽となるのであり、無明・煩悩・悪業に苛まれなくなる生き方ができていければ、今生でも楽を享受できるものとなるのであります。
平たく申せば、無明・煩悩・悪業に苛まれなくなる生き方を説いているのが仏教となります。
ですから、仏教を実践する者は少しずつでも楽に生きていけることになるものとなります。
「修行して解脱し、二度とどこの世界にも生まれないようにする」・・
できれば大乗仏教では、自分だけが救われれば済む問題としてだけ捉えるのではなく、全ての衆生たちを救うための悟り、成仏を目指すところを大切に致します。
できれば、全ての衆生が救われるまで、何度も何度も衆生たちの苦しんでいる世界に生まれて、少しでも皆が救われるようにとして、仏教の実践を進めて参りたいものとなります。
今世でもできるだけの仏教実践に努めて参りたいものでございます。
三宝帰依・発菩提心
すべての有情を救済しようという願いによって
仏陀・仏法・僧伽に
悟りの心髄に至るまで
私は帰依いたします
智慧と慈悲を持って精進し
すべての有情を利益するために
私は仏陀の御前に
完全なる菩提心を生起いたします
この虚空が存在する限り
有情が存在する限り
私も存在し続けて
有情の苦しみを滅することができますように
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
法源さま、願誉浄史さま、まずはご回答いただきありがとうございます。
法源さま、「寿命ある限り、意味がなくても生きてこそ、人生。答えは時と共に歩んだ自身の人生が追いかけるように教えてくれるでしょう。」そうですね。生きることに意味はない。生きてきたことに意味が生じる。理解出来ます。
願誉浄史さま、「仏教がある世界に、人間として生まれたんだから、どうせ苦しい人生なら、仏教を学んで将来の苦からの解脱に役立てましょう。」そうですね。今世では難しくても、来生以降で悟り、解脱したいです。
お二方ともご回答いただきありがとうございました。
川口さまご回答ありがとうございます。
「無明・煩悩・悪業に苛まれなくなる生き方ができていければ、今生でも楽を享受できる」具体的なお答えをありがとうございます。
「無明・煩悩・悪業に苛まれなくなる生き方を説いているのが仏教」という事ですので、仏教を学び実践していきたいと思いました。
本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。