お坊さんについて
私の家は仏教で臨済宗です。
ふと思ったのですが
なんで法事や葬式をするのはお坊さんでないといけないの?
確かに仏壇でお経を読むのは私達でもできますが、修行に行ったお坊さんには凄いパワーがあるのかな?
別にお布施がおしいとかそういう意味でなくてなんかパワーがあるのかなーと思いましたので質問です。
すべて甘い生活
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
りょうさんが知っているお坊さんにはパワーがありましたか?
お坊さんの役割は
仏さまの教えをお取次ぎすることです。
読経も儀式も
仏さまの教えを伝える作法になります。
そういう役割を勤めているお坊さんを通して
仏さまのパワーが伝わっている訳ですから
お坊さんにもパワーがあるように感じるかも知れませんね。
もしお坊さんにもパワーがあるとしても
それは全て仏さまからの賜物です。
パワーがあるのはお坊さんではなく仏様
ご相談拝読しました。とても素直で良い疑問ですね。
そのように疑問に思う感覚を大事にしてこれからもごまかさないようにしてくださいね。
さて、宗派・個人により見解に相違がある事が前提での回答です。
>修行に行ったお坊さんには凄いパワーがあるのかな?
ありません。
葬儀で導師が引導を渡すという決まり文句がありますが、どうなのでしょうね。どこにどうやって送るのでしょう。
なお、浄土真宗では僧侶が不思議な力でどこかに送るという考えはしません。
浄土真宗の葬儀でも導師はいますが、法要・儀式を執行するうえでの指導的立場というような意味であり、同時に、教えを受け取る面での意味では「先頭に立って導かれる者」とも解釈できるかもしれません。
そうなのです。お坊さんも導かれる者なのです。導くのはあくまでも仏様。それも死者を導くのでなく、今生きている人を導くのです。身近な人の死というご縁を通して、そこに参列する人たちが仏法に出遇い導かれるのですね。
自らも死ぬべき身であるこの生を死に向かってどう生きていくのかを仏法に学ぶのです。
お坊さんは仏法を学んでいます。葬儀という場は仏法が伝わりやすい場です。「死」というのはそれくらい大きなものです。
そこで僧侶は普段から仏法を聞き学びながら生活させていただいている者として、自らが聞き確かめたことを語り、参列の皆様と共に仏法に触れさせていただくのです。
それが大切な事なのですが、それでもやっぱり私たちは身近な亡き人の行く先が気になりますね。
死後については誰も確かめることはできませんが、それでは不安や恐怖に耐えられない私たちに仏教や宗教は物語を通して応えてくれます。
たとえば浄土真宗では「阿弥陀仏が亡き人を死後に極楽浄土に往生させる」という教え・物語があります。
その教え・物語を「今」聞く私たちがそれによって救われるならば、その教え・物語はその人の宗教的事実となり、死後を託せる大事な拠り所ともなります。
お坊さんにはパワーはありませんが。仏様にはパワーがあります。私たちを真理に目覚めさせようとするパワーです。
是非さまざまな仏縁をいただき、「今」の救いも「死後」の救いも仏様のパワーから頂戴しましょう。
パワーと言うと誤解を受けやすいけれど…
臨済宗の僧侶です。
修行中の事です。
新入りの頃は、歩くにしても、座るにしても、そしてお経を読むにしても、とにかく「そうじゃない、ちがう!」と怒られました。
そんな毎日を送りつつ、手伝いで実家の寺に帰った時の事です。ある檀家さんから「修行に行くと変わったなあ」と言われた事がありました。私には何が変わったのかはわかりません。しかし、前後を知る人からすると修行前と後ではガラリと違って見えたという事です。
これをパワーと言うべきかは前の回答された和尚さん方の通りです。修行によって何か特別な力を手に入れる訳ではありません。
私はお経をお唱えする時や、葬儀を行う時には、「届くお経」を心掛けています。どんな宗派にも、お念仏やお題目、読経、坐禅…と"行"の部分があります。修行中、「ちがう!」と怒られていたのは、「そんな行いでは仏の教えに届かないぞ」という事を教えて下さっていたと感じています。
行"を行い、それを届けられる僧でなければ法事、葬式は出来ないのではないでしょうか。
追記
引導は決まり文句ではなく、すべてオリジナルです。
仏教の教えは、仏法僧(お釈迦さま・仏教の教え・仏教の教えを実践し伝えるお坊さん)の「三宝」に帰依(深く敬い心の支えとする)教えだからです。お坊さんは必要ないよ、という考えは、基本である仏法僧の三宝に帰依する仏教の教えから外れます。したがってお坊さんのいない「法事」や「葬式」は仏教の儀式ではありません。
パワー云々じゃなくて、お坊さんの行いや教えを心の支えにするから、法事やお葬式にお坊さんをおねがいするのです。
良い質問をありがとうございました。私も襟を正したいです。
智慧と福徳という力
りょう様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
僧侶に限らず、仏道を歩む者は、歩むにつれて、悟りへと向けた智慧と福徳という二つの力をつけていくことになります。
特に、菩薩行の五十二位の十地の歓喜地からは、徐々に仏様と同様の相好(三十二相八十種好)や力を得れてゆくところとなって参ります。
そんな菩薩としての智慧と福徳という力からの功徳は、やはり凡夫とは違い、それ相応のものとなり得て参ります。
もちろん、歓喜地以上に至れている僧侶がどれだけいるものであるのかと申しましたら、なかなかにも難しいところはありますが・・
また、まだ、さほど菩薩行の進んでいない僧侶であっても、仏様のお加持のお力をお借りして、そのお力により、功徳、供養するということもございます。
例えば、密教における本尊瑜伽(仏様と一体となる修行)がその一つでもあります。しかし、その本尊瑜伽も、それを行うためには、それなりの資格要件が必要なものとなります。
川口英俊 合掌