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お坊さんについて

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私の家は仏教で臨済宗です。

ふと思ったのですが
なんで法事や葬式をするのはお坊さんでないといけないの?
確かに仏壇でお経を読むのは私達でもできますが、修行に行ったお坊さんには凄いパワーがあるのかな?
別にお布施がおしいとかそういう意味でなくてなんかパワーがあるのかなーと思いましたので質問です。

2019年4月28日 11:21

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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

りょうさんが知っているお坊さんにはパワーがありましたか?

お坊さんの役割は
仏さまの教えをお取次ぎすることです。
読経も儀式も
仏さまの教えを伝える作法になります。

そういう役割を勤めているお坊さんを通して
仏さまのパワーが伝わっている訳ですから
お坊さんにもパワーがあるように感じるかも知れませんね。
もしお坊さんにもパワーがあるとしても
それは全て仏さまからの賜物です。

2019年4月28日 22:47
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有り難し
おきもち

和田隆恩
 1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱...

パワーがあるのはお坊さんではなく仏様

ご相談拝読しました。とても素直で良い疑問ですね。

そのように疑問に思う感覚を大事にしてこれからもごまかさないようにしてくださいね。

さて、宗派・個人により見解に相違がある事が前提での回答です。

>修行に行ったお坊さんには凄いパワーがあるのかな?

ありません。

葬儀で導師が引導を渡すという決まり文句がありますが、どうなのでしょうね。どこにどうやって送るのでしょう。

なお、浄土真宗では僧侶が不思議な力でどこかに送るという考えはしません。
浄土真宗の葬儀でも導師はいますが、法要・儀式を執行するうえでの指導的立場というような意味であり、同時に、教えを受け取る面での意味では「先頭に立って導かれる者」とも解釈できるかもしれません。

そうなのです。お坊さんも導かれる者なのです。導くのはあくまでも仏様。それも死者を導くのでなく、今生きている人を導くのです。身近な人の死というご縁を通して、そこに参列する人たちが仏法に出遇い導かれるのですね。
自らも死ぬべき身であるこの生を死に向かってどう生きていくのかを仏法に学ぶのです。

お坊さんは仏法を学んでいます。葬儀という場は仏法が伝わりやすい場です。「死」というのはそれくらい大きなものです。
そこで僧侶は普段から仏法を聞き学びながら生活させていただいている者として、自らが聞き確かめたことを語り、参列の皆様と共に仏法に触れさせていただくのです。

それが大切な事なのですが、それでもやっぱり私たちは身近な亡き人の行く先が気になりますね。
死後については誰も確かめることはできませんが、それでは不安や恐怖に耐えられない私たちに仏教や宗教は物語を通して応えてくれます。

たとえば浄土真宗では「阿弥陀仏が亡き人を死後に極楽浄土に往生させる」という教え・物語があります。
その教え・物語を「今」聞く私たちがそれによって救われるならば、その教え・物語はその人の宗教的事実となり、死後を託せる大事な拠り所ともなります。

お坊さんにはパワーはありませんが。仏様にはパワーがあります。私たちを真理に目覚めさせようとするパワーです。

是非さまざまな仏縁をいただき、「今」の救いも「死後」の救いも仏様のパワーから頂戴しましょう。

2019年4月28日 21:29
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おきもち

はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

パワーと言うと誤解を受けやすいけれど…

臨済宗の僧侶です。

修行中の事です。

新入りの頃は、歩くにしても、座るにしても、そしてお経を読むにしても、とにかく「そうじゃない、ちがう!」と怒られました。

そんな毎日を送りつつ、手伝いで実家の寺に帰った時の事です。ある檀家さんから「修行に行くと変わったなあ」と言われた事がありました。私には何が変わったのかはわかりません。しかし、前後を知る人からすると修行前と後ではガラリと違って見えたという事です。

これをパワーと言うべきかは前の回答された和尚さん方の通りです。修行によって何か特別な力を手に入れる訳ではありません。

私はお経をお唱えする時や、葬儀を行う時には、「届くお経」を心掛けています。どんな宗派にも、お念仏やお題目、読経、坐禅…と"行"の部分があります。修行中、「ちがう!」と怒られていたのは、「そんな行いでは仏の教えに届かないぞ」という事を教えて下さっていたと感じています。

行"を行い、それを届けられる僧でなければ法事、葬式は出来ないのではないでしょうか。

追記
引導は決まり文句ではなく、すべてオリジナルです。

2019年4月29日 9:04
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おきもち

 仏教の教えは、仏法僧(お釈迦さま・仏教の教え・仏教の教えを実践し伝えるお坊さん)の「三宝」に帰依(深く敬い心の支えとする)教えだからです。お坊さんは必要ないよ、という考えは、基本である仏法僧の三宝に帰依する仏教の教えから外れます。したがってお坊さんのいない「法事」や「葬式」は仏教の儀式ではありません。
 パワー云々じゃなくて、お坊さんの行いや教えを心の支えにするから、法事やお葬式にお坊さんをおねがいするのです。
 良い質問をありがとうございました。私も襟を正したいです。

2019年4月29日 14:35
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おきもち

・曹洞宗/静岡県/40歳代 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが...

智慧と福徳という力

りょう様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

僧侶に限らず、仏道を歩む者は、歩むにつれて、悟りへと向けた智慧と福徳という二つの力をつけていくことになります。

特に、菩薩行の五十二位の十地の歓喜地からは、徐々に仏様と同様の相好(三十二相八十種好)や力を得れてゆくところとなって参ります。

そんな菩薩としての智慧と福徳という力からの功徳は、やはり凡夫とは違い、それ相応のものとなり得て参ります。

もちろん、歓喜地以上に至れている僧侶がどれだけいるものであるのかと申しましたら、なかなかにも難しいところはありますが・・

また、まだ、さほど菩薩行の進んでいない僧侶であっても、仏様のお加持のお力をお借りして、そのお力により、功徳、供養するということもございます。

例えば、密教における本尊瑜伽(仏様と一体となる修行)がその一つでもあります。しかし、その本尊瑜伽も、それを行うためには、それなりの資格要件が必要なものとなります。

川口英俊 合掌

2019年5月4日 10:26
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おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

「お坊さん・僧侶全般」問答一覧

病んでしまった人が住職になれるだろうか?

私は寺の長男に生まれました。が保育園のころから電気が好きで、小学校1年の時の将来の夢が最初は電気屋さんになりたい。でした。ですが、住職である父に「電気屋さんがお坊さんはできないけど、お坊さんが電気屋さんはできるんだよ。」という今考えるとわけのわからない理屈で言いくるめられ、将来はお坊さんになりたい。と書き換えさせられました。かといって仏教が嫌いだったわけではなく、児童向けのおしゃかさまのでんきを友達からもらって読んだり、生まれて初めて映画を見たのが井上靖の天平の甍(鑑真さんの話)だったりしたのもそのころでした。小学5年生の時に東京の増上寺で得度しました。秋葉原に行けるからでした。生まれて初めて飛行機に乗りました。その後中学1年の時に初めてパソコンを買ってもらい、ゲームやプログラミングに夢中になりました。MSXでしたが、パソコン・モニター・データレコーダ・漢字ROM・プリンタと買いそろえてもらいました。中学2年の時に独学で国家試験を受けて、電話級アマチュア無線の免許を取りました。開局したのは高校になってからでしたが、無線も好きでした。高校では科学部物理班でアマチュア無線とパソコンに夢中でした。将来は工学部に進んで風力発電の研究をしてエンジニアになるのが夢でした。しかし文理選択で寺の後を継がなくてはなというプレッシャーに負けてしまい、文系を選択したのでその道は絶たれました。そのころひろさちやの仏教大百科を読んで、浄土宗は大正大学か佛教大学に行くことを知りました。親は大正大学に行けとは一言も言いませんでした。そして大正大学には入ったものの授業に出たことはないです。サークルにばかり逃げていました。サークルがなかったら、大学を中退していたかもしれません。テストだけは受けていたので単位は取れました。(何個か落とした単位もあるが再取得。)大学在学中に加行をなんとか御え住職資格を取り(風邪で3日休んで下山寸前だった。)そのあと大本山にある修行道場で1年間更に修行しました。大学在学中から心が病んでいて医者にかかっていたので、修行道場も医者に通いながら勤めました。修行のほうが寺にいるより楽しかったからです。町寺の法事葬式で回っている感じが嫌いでした。でも仏教は好きという矛盾を抱えていました。心の病気が酷くなって私は今は寺を離れていますが、私にはもう住職は無理なのでしょうか?

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法事の僧侶を変更したいです

先日亡母の一周忌法要の読経を所謂檀那寺に依頼して執り行いました。葬儀の時と同じ僧です。まず、亡母の法名を把握されていませんでした(法名はこの僧がつけお布施を支払っています)読経の前に長々と浄土真宗のPR、報恩講の内容、他宗の批判、自宅で本尊を祀っているかなどの遺族への質問等を約1時間ほど話してから読経されました。阿弥陀経、観無量寿経そして正信偈。70歳を過ぎた高齢の為だけとは思えない非常に変わった節回しで終始下手な読経でした。そして、自らが日本仏教会の役員であると言ってニヤニヤと自慢話までされていました。時間にして1時間半以上でした。  昨年の葬儀の際は、枕経は忙しいのでしません!と言われ、出棺の際にも次の葬儀の予定があるので失礼しますと言って帰られました。当然、火葬場では僧侶による読経なしの見送りでした。他のお見送りされるご遺族の方には寄り添ってらっしゃる僧侶ないし牧師様のような方がいました。  また、私が「本来は七日ごとの法要(二七日〜四七日)をお願いすべきですが、一般の通例として遺族がそれぞれ自らの気持ちで念仏したいが、三十五日と一周忌の際は宜しく御願い出来ますか?」とこの住職に尋ねると、「お前は法事をサボるのか?」と言われ、サボる訳ではないが、、と伝えても「サボるんだろ!」と恫喝されました。そう言われても一周忌はお布施もきちんと致しました。当たり前のことですから。  この住職とは祖母の頃からの付き合いですので、存命の父の考えも尊重して我慢してきましたが、親族から「三回忌は(違う僧侶を)考えた方が良くないか?」との意見も出ております。  そこで、質問ですが、①法事の際、檀那寺から違う僧侶へ変更は可能でしょうか?②この住職の言動で傷つく方が現れないように世間に知らせてあげる方法はないものでしょうか?法事の会場のスタッフの方からもあのお寺さんはかなり特殊ですね!と言われ、業界でも有名のようでした。  大変長々と拙い文章で申し訳ございませんが、宜しくお願い申し上げます。

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再び迷っています

以前に得度について質問したものです。 あれから、自分でも色々調べてみました。まず、わたしのような者の師僧になって下さる僧侶の方に深く感謝します。 費用についても、ほぼ工面できます。 僧侶になった後、入りたいお寺も、あります。(実家のある田舎のお寺の僧侶が事件を起こし、懲役刑となり 解任となったあと五年も住職不在です。このままつぁは廃寺になりそうなので、これは大変と、墓は都会にうつしましたが、いまは早まったかなと後悔しています。子供の頃から親しんできたお寺なので、もし、お許しがあればそこに入りたいです)自分一人の生活費は、なんとかなります。過疎の限界集落で若い人はほとんどいませんが、それでも残って生活している知り合いのおじちゃん、おばちゃんの力になりたいのです。(平均年齢は90近いです) で、今日の相談なのですが、いろんなお坊さんのお話を聞いているうちに、お坊さんの世界にも権力闘争とか、色と欲にまみれている方とかが、いるようです。高名な僧侶の方の耳を疑うようなスキャンダルも耳にしました。 そんな深い闇があるとは!わたしに、つとまるのか!ここに来て少しびびってしまいました。 もう、師僧(お墓を移した都会のお寺の住職さん)に法名をつけてもらっているのですが、自分のこころを整えるために、修行を進めるのを少し待ってもらっても良いものでしょうか。 つけ加えると、中学生の頃から仏道や出家への憧れがありました。菩提寺の住職さんといろいろと話しているうちに「得度してみるかね」「はい」とお答えしました。いろんな条件も整っているので、周りからの異論はありませんが、以前した質問のように仏教界には、ほとんど無知なのです。実情を見聞きして、少し気持ちが萎えてきました。

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他のお坊さんのご意見が聞きたいです。

先日、母の一周忌でお坊さんを派遣して頂きました。初めてお会いする方です。 その方に、お仏壇について色々お教え頂きました。中に入れてはいけないもの、必要なもの。ありがたいこととは思いますが、親の宗派で私自身は特に信仰しているわけではなくなく、全てを揃えなければいけないのか?と疑問に思いました。また、母の好きなもの、生前大切にしていたものを置いておいたのですが、それもいけないと言われてしまい悲しくなりました。もちろん、決まり事はあるでしょうが。 お仏壇は、きちんと決まりを守らなければいけないものでしょうか。マンション住まいで立派なものは用意できませんし、私たちにとっては精一杯の母への供養のつもりで用意したものなのですが。 また、私と兄、2人だけの参列だったのですが。「そもそも、法要は親しいものが集って行うもの。集って行わなければ意味がない」というような趣旨のお話をされました。私たちは親戚が遠方にしかおらず、年老いた親戚を呼び寄せることも出来ません。 少ない人数では、法要は行っては意味がないのでしょうか。 母のために、一通り供養をしたいという想いでお坊さんをお呼びしましたが、とっても悲しくなってしまいました。 もう、お坊さんを今後お呼びしたいとも思わなくなりました。 もちろん、そのお坊さんは悪気があって仰ったことではないとわかっていますが。 他のお坊さんは、このようなこのお坊さんの言葉をどう思われますでしょうか? 教えて頂きたいです。

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