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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

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どうもこんばんは

以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました

それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。

けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。
この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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我々は菩薩ではありません。

ですから
この第41願は
我々凡夫に対しての願ではありません。

我々十方衆生に対する願は
第18・19・20願です。

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和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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救いとは何か

のちさんこんにちは。

阿弥陀仏の本願力を疑う心に悩まれているのですね。でもそれは先立って親鸞聖人も悩まれていた内容ではないでしょうか?

そして親鸞聖人は臨終の一念にいたるまでその疑う心のままで、しかし同時に、その疑う心に本願が働いていることも感得されて救われた(救われ続けた)のではないでしょうか?

そもそも、のちさんにとって「救い」とは何でしょうか?

死後、浄土に往生することでしょうか。浄土はどこにあるのでしょうか。死後に救われるなら今苦しんでいてもしょうがいないのでしょうか。今何に苦しんでいるのでしょうか。

いったん経文を離れて実存的に考えてみてはいかがでしょう?

「障碍」がなくなるとか、「もしも」と考えなくなるとか、それはどちらも「私の身」や「私の心」を確かなものとしようとする自力の在り方でしょう。

親鸞聖人の感得された「救い」とはそういうものではないということです。

ご自身の求める救いとは何なのか?それは果たして本当の救いなのか?成り立つ救いなのか?

私が思うに、疑い悩み迷い続けるのちさんが、その身にそのまま頷いていけることが救いではないでしょうか。
疑わなくなれる私ではなく、疑うしかない私でありましたと身の事実がハッキリ定まるところに、浄土として説かれる世界が有るとか無いとかいうことを超えて響いてくるのではないでしょうか。

浄土が説かれたということは、浄土が願われたということ、浄土が願われたという事は、今は浄土の様にはなっていないということです。

その私が浄土に生まれることが定まる、だからこそ、その私が浄土に生まれて往くものとして今この身がどうなっているのか浄土の願いに照らされていくのではないでしょうか。

それが

『南無阿弥陀仏(如来から:「目を覚ましなさい」との呼び声)、南無阿弥陀仏(私から:「仰せの通りでありました」との聞き頷き)』

という「ただ念仏」の感応動交の日暮らしだと感じます。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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経文の言葉にとらわれずに、救われた人々の体験を学ぶ

のちさん、こんにちは。

四十一願の内容にとらわれてしまい、阿弥陀様を信じることができないのですね。
 お経はその時代の社会背景の思想、倫理観を持つ人々を対象に説かれていますので、必ずしも現代の人々に合う教えでないところが少なからずあります。ですので、必ずしも一字一句に拘る原理主義に陥ることなく、現代であったら仏さまはどのように説かれたであろうかと、解釈をして学ばなければなりません。

そこで教えの解釈の答えとして助かるのが、現実に信仰をして助かった人々の体験を学ぶことです。病弱であってもお念仏の信仰をして救われた人々はたくさんおり、またその方々の信仰体験集は簡単に手に入ると思いますので、ぜひ呼んで教えを帰納法的に学んでください。

お釈迦様の教えに毒矢の譬えがあります。毒矢で刺された哲学者が、その毒矢は誰が撃ってどんな矢でどんな毒だったかわかるうちは抜いてはならないといってしまえば死んでしまう。それよりもまずは毒矢を抜いて手当てをすることが大事なのだと教えてくださるのです。のちさんもまずは、理屈抜きで、救われた人の体験を参考にお念仏の信仰をしてみる。そこから救いを得られると、お経文の本当の真意がわかってくると思います。わたしたち信仰者は仏教学者ではありません。まずはお念仏の教えをもとに、理屈抜きで救われてください。

心身元気になられることを、お祈りします。合掌

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質問者からのお礼

和田隆恩さん、ありがとうございました
そうは思うんですが、41願を念仏者への願だと見る本が何冊かあり、それが気になっているもので…

吉武文法さん、毎回ありがとうございます
浄土真宗の救いは、奥が深くて、まだまだ学ぶことが多いと思いました 疑いと信心、疑いをどうしていくかが今後の課題になっていくような気がします 

染川智勇さん、ありがとうございました
毒矢の例えは初期仏教を学んでいたときに知っていたのですが、今の自分にまさに当てはまるものだとは思いませんでした。 僕はどうしても理屈っぽくなる性格のよんで、「理屈ぬきに」救われるよう、もう少し自分を見直してみようと思いました

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ