hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
そらノート 亡くなった人やペットに思いを伝えよう hasunoha姉妹サイト登場

神祇不拝とは

回答数回答 4
有り難し有り難し 266

本願寺派の門徒です。真宗では弥陀一仏に帰依する立場から、神棚を祀ったり祈祷占い等を受けたりしない決まりごとのようです。
ですが、わたしは地元の神社のお祭りには氏子として協力しますし、正月には当然のように神社に初詣に行き1年の健康を祈願します。子供の成長を願って七五三詣にも行きました。
門徒としてはこういう態度はやはりよくないのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

否定せず、頼りとせず

ご質問のタイトルを見て、すごい質問が来てしまったと驚きました。
そして回答者陣を見て、よく回答している者の中では私だけが浄土真宗なので、お答えせねばと思いました。

さて、おっしゃる通り浄土真宗では、神棚を祀ったり神社にお参りすることを積極的に肯定していません。親鸞聖人も和讃(わさん:七五調の詩)で…
「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」と詠まれています。
(意:悲しいことだ、僧侶も一般の方も、日の善し悪しを気にし、天地の神をあがめ、占いや祈祷にたよっている)

ですが一方、関東滞在中に鹿島神宮に参詣したり(所蔵されていた書籍を見たかったようですが)、帰京の際には箱根権現に参詣されたとしています。

当時は今のように寺と神社がはっきりと分かれておらず融合している部分もあり、親鸞聖人ももっとゆるやかな感覚を持っていたのではないでしょうか。ただ、上記の和讃のように、迷信や占いに振り回されないで欲しい、という願いを持っていたのだと思います。

僧侶によって温度差はありますが、私は神社のお参りや初詣、良いのではないかと思います。私も先日、お檀家さんを連れて鎌倉に行きましたが、臨済宗のお寺と鶴岡八幡宮をお参りしました。

もちろん手を合わせることもします。しかし私が頼りとするのは阿弥陀仏だけなので、そこで願い事を念じたりはしません。「御利益がありそうだから何でも信じる」ことはしません。

私の感覚としては、他宗派や他宗教へのお参りは「隣の国の王様に、敬意を表して挨拶する」という感じで、そして「自分の国の王様(阿弥陀さま)に、絶対の忠誠と信頼を敬愛とを捧ぐ」と考えています。
この例え、伝わりやすいでしょうか?

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

仏教はフトコロが大きい

私は禅宗の僧侶ですが、友達にはクリスチャンの方や他宗派の方も、同級生では創価学会を信仰している方もいます。
ですが私にとって彼らは皆友人です。
よく同じ宗教同士で争っておられる国などをみますと、仏教は争いがなくて本当に良い宗教だと思います。

さらに素晴らしいのは日本人の高い宗教性だと思います。
クリスマスにはキリストを祝い、
大晦日には除夜の鐘をついてお寺にお参りし、
お正月には神社へお詣りをする。
それでいてそれぞれに親しめる柔軟性がある。

食べ物でたとえるならば、そばもうどんもラーメンも同じ麺、ヌードルです。
別に麺同士で喧嘩はしていません。
舌も喉も、分け隔てなく受け入れます。

人間が心の中で競い合う心を起こした時にだけ対立が起こるまでです。
食材ですら、それぞれ個性があって、それぞれの風味や味が違います。
いまだかつて世界がラーメン一色、うどん一色に染められた歴史もありません(笑)
だからこそ、互いに尊重し合う心こそがこの現代における高い宗教性であると思います。

競ったり、争って、自分の優位性ばかりを主張し、古来より大事にされていたものや文化を破壊してしまうようなあり方では、いくら宗教の名をかたっていても、それは宗教ではなく、世俗の争いの世界です。

これは笑い話ですが、
お坊さんが着ているお袈裟はインドの服。
その下の法衣は中国の僧服。
その下の白衣は日本古来からの服。
そしてその下にはUSA産やベトナム産のユニクロシャツを着ています(笑)

拙僧の生まれ育ったお寺の境内には神社の鳥居があります。
小さい頃は何でお寺に神社の鳥居や社があるのだろう、と不思議に感じました。
境内を散策される方は、お社の前でパンパンと柏手をされてお参りをされたあと、本堂の前で静かに手を合わせてお参りもされているのです。

神社だからお参りしない、キリスト教だから関わらないという姿勢では、御釈迦様はきっとお嘆きになられるのではないでしょうか。
神社の鳥居もおヤシロも壊されずに今日まで残ってきたことが、仏教のフトコロの広さであると思います。
仏教の精神は、決して排他的な精神ではありません。
互いの個性を尊重し合い共存共栄してゆくあり方であると、思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


摂取不捨

信仰と習俗を同じ土俵にのせなくてもいいかと思います。

真宗門徒である前に仏教徒であること。
仏教徒であるまえに宗教を大切にする。

町内の付き合いで氏子サンのお仕事を何回かしたくらいで揺れる信心なら、それは帰依とは言いません。
真宗の教えはそんな器量の狭いものではないです。

氏子サンとしてお神輿が無事終わったり、七五三で素敵な写真が撮れたら、そのときはなんまんだぶつと手を合わせてくださると嬉しいです。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


世の中なんか上手くいかない 他の人は幸せそうに見えるのが余計に辛い。...

ナツツバキ 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

宗教に関しましては、浦上哲也師と同様に相互尊重、また寛容性が誠に大切なことであると存じております。

思想・主義・宗教の対立により争いが起こり、これまでも人類は幾度となく悲劇を繰り返して参りました。

仏教においても、インド並びに伝播に伴っての各国・地方におけるもともとの土着の宗教・信仰・思想との対立が様々な弊害を生み出し、時には血が流れることももちろんでありましたし、各宗教は、時の権力との結びつきを強めて勢力拡大を図ろうとすることもあり、そのために巻き込まれていく争いも当然に多く見受けられました。

しかし、仏教にはもともと不殺生や不瞋恚、不害や忍耐の教えがあり、争いや対立は本来好まない傾向があるため、では争わずにいかにして土着の宗教・信仰・思想との融和を図り、また逆に取り込めていけるかということにも腐心していくことになります。例えば、インドではバラモン・ヒンドゥー教、中国・韓国では、儒教や道教など、チベットではボン教、日本では神道などとなります。

おおよそ傾向的には、各それぞれの信仰対象となる神や尊格を仏教の守護神・護法尊として奉ることで対立を回避していくということが言えるのではないかと存じます。その神や尊格の中には、明王、菩薩、如来といった存在にまで高められているものも多くあります。

もちろん、如来や菩薩にまで格上げされている神や尊格は実体としてあるものではなくて、あくまでも仏の教えの顕れとしての役割がそれぞれに与えられて、目的である悟り・解脱・涅槃へ向けての助けとしての存在である点には注意が必要であると考えております。

上記のことを踏まえて、拙生の考えとしましては、僧侶・仏教徒であっても、仏道修行を進めていくためということを前提として、産土・鎮守神社に安穏・安全・健康・長寿などを祈願するために参拝することは特に問題ないことではないかとは存じております。

少しなりともご参考となりましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


質問者からのお礼

浦上様、川口様、ありがたいご回答賜り感謝申し上げます。
浦上様の「表敬訪問」というお考えはとても納得いくものでした。個人的な「ご利益」を期待せず、すべてを阿弥陀様にお任せする立場が定まっていれば、他の神仏とのおつきあいはおのずとそうなるということですよね。
川口様、「守護・護法の神様」であればこそ、敬意をもって接していくことは大切でありますね。それは仏の御心にもかなっているということですね。

泰庵様、丹下様、ご回答ありがとうございます。
摂取不捨、なんとありがたいことでしょう。阿弥陀様はありのままの私を受け入れてくださるのですね。神仏を大切にしつつ、お念仏合掌したいと思います。
日本では無宗教の人が増えていると聞きます。自分の信じるものが違っても、「宗教を大切にする」ということは大事なことだと思います。

「仏教全般」問答一覧

待つことは仏教でも大事ですか?

前の話と似たような内容なのですが、同じ職業(画家)の好きな人と疎遠になっています。 母親曰く「待て」と言われてます。 向こうの方が立場が上なので、まずは実力をつけろと言われてます。会うのはそれからでもいいだろうと。 私の中に、なんでこんなに頑張らないといけないんだ、という焦る気持ちと、 頑張って違った新しい自分という土俵でまたお会いできたらという気持ちがあります。 焦っている時、イライラして家族にも邪見にされるときがあります。 また逆におろおろしまってもっとゆっくり物事を進めなさいともいわれます。 親の言うことは正しいと思っているのにイラっとすることもあります。 でも待ちながらそれが正解だと感じることもあります。 画家の仲間が増えて、みんな同年代の人は凄く苦労されてその中でも夢に向かってひたむきに頑張っている。中には同業者に貶されている人もいる方もいますしバイトしながら、別の仕事をしながら頑張っている人も。 年上の人達は年上の人たちでライバルがいて、年下の人たちに追い上げられそうになる中、孤高に取り組んでいる方もみられます。 もっと年上の人は本当に素晴らしい絵を描くのに、それでも絵の事で悩んでいる人も見ました。 私も貶されたり叱咤されたこともありますが、励まされたり期待されたりしながらやってていて、しかも家族も一応応援はしてくれてるので救われてる方だなと思います。仲間の話をネットや現実で聴くのもためになっています。 そういう人たちを見てると、その人がきっかけで待っていた縁のパワーって侮れないなと感じました。 仕事を極めるというのは難しいですね。 もっとゆったりとした心で仕事や日常に向かい、精進したいと思ってますが、 中々できない自分に悩んでます。でももっと視野を広げて縁のパワーを広げたら、いつかまたその人に仕事を通じて出会えるんじゃないか、同業者として支えられるぐらいの力が持てるんじゃないかという不思議な気持ちがしています。 こういう待つ縁の話は、仏教のお話にもあったりしますか?

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

仏教の教えを守ってるけどダメみたいです

最初に、、、別に報われたいわけではありません。 どちらかというと達観していると思います、いろいろ経験して結論として出した考えです。 仏教を勉強し、理不尽な目に会う度に疑問に感じるので質問をしたいです。 ・人の不幸には圧倒的な差がある。→どうしようもない、心の持ち方一つで変えられるものではない、不幸は不幸。 仏教修行をして執着を手放してる群発頭痛の人が幾ら心もの持ち方を変えても苦しく痛みに関しては、生まれつき健康で他人に危害を加える人よりも圧倒的に不幸である。 ・人に親切にしたり愛したり優しくしても、恩を仇で返されたり感謝すらされない人もいる。→最新の研究では人はサイコパスに魅力を感じるようです。また生まれつきの容姿や印象で好感度が変動するようです。 ストックホルム症候群や共依存など他人に優しくしない方が人は恩恵を得れる生物のようです。 ・人に与える人より搾取する人の方が富を得れる。不幸量は下がる。 →本人の認知としては搾取している気がしない人も沢山います。 というより世の中先進国は後進国から搾取していますが誰も富を彼らに分け与えません。 そして搾取した人達の方が贅沢できます。 教育を受けたいサウジアラビアの女性よりも専業主婦になりたい日本人女性の方が教育が整備されています。 食べ物を欲しがるアフリカの貧しい人よりも、廃棄する先進国の人の方が不幸ではありません。 ・感謝しても報われないが、他人を侮辱して壊す人は報われる。→感謝感謝の毎日ですが、感謝するより他人を貶す方が相手を支配できます、経営学や政治学ではよく言われてますが他人を従わせるには恐怖や暴力的な支配が有効です。 当たり前と思ってる方が気が楽です、私たちの生活にはありとあらゆる犠牲があります。小さい細菌やらが私たちの身体を守り、昆虫が生態を守り、牛さんの内臓が食べられ、低賃金の人がサービスを支え、私のような人はガス抜きにされ笑、後進国の人を搾取して。それに感謝してたらキリがありません。当たり前と思って見下してる世界に対して感謝ゼロの人の方が楽ですよね笑  ・耐え忍んで努力しても惨めに何も得られず、生まれてただ朽ち果てるのみ。→生まれつきかなりの運命が決まっていて、奮闘しても生まれつき全てを手に入れてる人に搾取される世界です。 報われなくてもいいから、少しは良い方向に向かいたい

有り難し有り難し 42
回答数回答 2

解脱って怖い?

昨今の陰鬱とした情勢の中、多忙を極められておられるであろう僧侶の方にご相談をさせて頂けることに感謝いたします。 私は、宗教や哲学などの学問に興味があるのですが、仏教における「解脱」という考え方に一抹の不安を覚えています。 といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。 例えば、世俗では結婚を是、独身を非とする意見を度々耳にするのですが、私自身は伴侶の有無だけで人の貴賎が決まることはない、もっと言えば、そんな二項対立などで張り合いしないで平和の範疇で気楽に生きればいいのにと思っています。 ところが、ある時似たような意見を呟いた方が、ネット上で「生存競争についていけなかった腰抜けの負け惜しみ」、「生命や家族の尊さが分からない薄情者の言い草」といった罵倒を浴びせられているのを見て、この意見は既婚者の方や婚活を本気で行っている方に対して無自覚の批判や無粋な発言になり得ると悟らされたことがあります。 私自身は、特定の誰かを見下そうという気は全くないのですが、多くの人は何かと甲乙つけたがるものらしく、今に至るまで自身の本心が話せず度々肩身の狭い思いをしています。 そして、私が何より恐れているのは、この考え方を極限まで突き詰めた結果、今回の相談含め、全ての悩みについて「んなもんどうでもいいから腹でも切ってさっさと涅槃においでなさい」と強引に押し切られることです。こうなると最早立つ瀬がありません。 ただ、一つ思う所があるのは、「救世を考えるお釈迦様や僧侶の方々がそんな本末転倒な事言う?」ということです。 思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。 長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。 今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。 そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る