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神祇不拝とは

回答数回答 4
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本願寺派の門徒です。真宗では弥陀一仏に帰依する立場から、神棚を祀ったり祈祷占い等を受けたりしない決まりごとのようです。
ですが、わたしは地元の神社のお祭りには氏子として協力しますし、正月には当然のように神社に初詣に行き1年の健康を祈願します。子供の成長を願って七五三詣にも行きました。
門徒としてはこういう態度はやはりよくないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

否定せず、頼りとせず

ご質問のタイトルを見て、すごい質問が来てしまったと驚きました。
そして回答者陣を見て、よく回答している者の中では私だけが浄土真宗なので、お答えせねばと思いました。

さて、おっしゃる通り浄土真宗では、神棚を祀ったり神社にお参りすることを積極的に肯定していません。親鸞聖人も和讃(わさん:七五調の詩)で…
「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」と詠まれています。
(意:悲しいことだ、僧侶も一般の方も、日の善し悪しを気にし、天地の神をあがめ、占いや祈祷にたよっている)

ですが一方、関東滞在中に鹿島神宮に参詣したり(所蔵されていた書籍を見たかったようですが)、帰京の際には箱根権現に参詣されたとしています。

当時は今のように寺と神社がはっきりと分かれておらず融合している部分もあり、親鸞聖人ももっとゆるやかな感覚を持っていたのではないでしょうか。ただ、上記の和讃のように、迷信や占いに振り回されないで欲しい、という願いを持っていたのだと思います。

僧侶によって温度差はありますが、私は神社のお参りや初詣、良いのではないかと思います。私も先日、お檀家さんを連れて鎌倉に行きましたが、臨済宗のお寺と鶴岡八幡宮をお参りしました。

もちろん手を合わせることもします。しかし私が頼りとするのは阿弥陀仏だけなので、そこで願い事を念じたりはしません。「御利益がありそうだから何でも信じる」ことはしません。

私の感覚としては、他宗派や他宗教へのお参りは「隣の国の王様に、敬意を表して挨拶する」という感じで、そして「自分の国の王様(阿弥陀さま)に、絶対の忠誠と信頼を敬愛とを捧ぐ」と考えています。
この例え、伝わりやすいでしょうか?

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

仏教はフトコロが大きい

私は禅宗の僧侶ですが、友達にはクリスチャンの方や他宗派の方も、同級生では創価学会を信仰している方もいます。
ですが私にとって彼らは皆友人です。
よく同じ宗教同士で争っておられる国などをみますと、仏教は争いがなくて本当に良い宗教だと思います。

さらに素晴らしいのは日本人の高い宗教性だと思います。
クリスマスにはキリストを祝い、
大晦日には除夜の鐘をついてお寺にお参りし、
お正月には神社へお詣りをする。
それでいてそれぞれに親しめる柔軟性がある。

食べ物でたとえるならば、そばもうどんもラーメンも同じ麺、ヌードルです。
別に麺同士で喧嘩はしていません。
舌も喉も、分け隔てなく受け入れます。

人間が心の中で競い合う心を起こした時にだけ対立が起こるまでです。
食材ですら、それぞれ個性があって、それぞれの風味や味が違います。
いまだかつて世界がラーメン一色、うどん一色に染められた歴史もありません(笑)
だからこそ、互いに尊重し合う心こそがこの現代における高い宗教性であると思います。

競ったり、争って、自分の優位性ばかりを主張し、古来より大事にされていたものや文化を破壊してしまうようなあり方では、いくら宗教の名をかたっていても、それは宗教ではなく、世俗の争いの世界です。

これは笑い話ですが、
お坊さんが着ているお袈裟はインドの服。
その下の法衣は中国の僧服。
その下の白衣は日本古来からの服。
そしてその下にはUSA産やベトナム産のユニクロシャツを着ています(笑)

拙僧の生まれ育ったお寺の境内には神社の鳥居があります。
小さい頃は何でお寺に神社の鳥居や社があるのだろう、と不思議に感じました。
境内を散策される方は、お社の前でパンパンと柏手をされてお参りをされたあと、本堂の前で静かに手を合わせてお参りもされているのです。

神社だからお参りしない、キリスト教だから関わらないという姿勢では、御釈迦様はきっとお嘆きになられるのではないでしょうか。
神社の鳥居もおヤシロも壊されずに今日まで残ってきたことが、仏教のフトコロの広さであると思います。
仏教の精神は、決して排他的な精神ではありません。
互いの個性を尊重し合い共存共栄してゆくあり方であると、思います。

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丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 質問 📞08020659278 どなたでも。

摂取不捨

信仰と習俗を同じ土俵にのせなくてもいいかと思います。

真宗門徒である前に仏教徒であること。
仏教徒であるまえに宗教を大切にする。

町内の付き合いで氏子サンのお仕事を何回かしたくらいで揺れる信心なら、それは帰依とは言いません。
真宗の教えはそんな器量の狭いものではないです。

氏子サンとしてお神輿が無事終わったり、七五三で素敵な写真が撮れたら、そのときはなんまんだぶつと手を合わせてくださると嬉しいです。

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あれこれ指図されるのは苦手です。 誰かが責められたり、傷つくことも悲しい...

ナツツバキ 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

宗教に関しましては、浦上哲也師と同様に相互尊重、また寛容性が誠に大切なことであると存じております。

思想・主義・宗教の対立により争いが起こり、これまでも人類は幾度となく悲劇を繰り返して参りました。

仏教においても、インド並びに伝播に伴っての各国・地方におけるもともとの土着の宗教・信仰・思想との対立が様々な弊害を生み出し、時には血が流れることももちろんでありましたし、各宗教は、時の権力との結びつきを強めて勢力拡大を図ろうとすることもあり、そのために巻き込まれていく争いも当然に多く見受けられました。

しかし、仏教にはもともと不殺生や不瞋恚、不害や忍耐の教えがあり、争いや対立は本来好まない傾向があるため、では争わずにいかにして土着の宗教・信仰・思想との融和を図り、また逆に取り込めていけるかということにも腐心していくことになります。例えば、インドではバラモン・ヒンドゥー教、中国・韓国では、儒教や道教など、チベットではボン教、日本では神道などとなります。

おおよそ傾向的には、各それぞれの信仰対象となる神や尊格を仏教の守護神・護法尊として奉ることで対立を回避していくということが言えるのではないかと存じます。その神や尊格の中には、明王、菩薩、如来といった存在にまで高められているものも多くあります。

もちろん、如来や菩薩にまで格上げされている神や尊格は実体としてあるものではなくて、あくまでも仏の教えの顕れとしての役割がそれぞれに与えられて、目的である悟り・解脱・涅槃へ向けての助けとしての存在である点には注意が必要であると考えております。

上記のことを踏まえて、拙生の考えとしましては、僧侶・仏教徒であっても、仏道修行を進めていくためということを前提として、産土・鎮守神社に安穏・安全・健康・長寿などを祈願するために参拝することは特に問題ないことではないかとは存じております。

少しなりともご参考となりましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

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川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

質問者からのお礼

浦上様、川口様、ありがたいご回答賜り感謝申し上げます。
浦上様の「表敬訪問」というお考えはとても納得いくものでした。個人的な「ご利益」を期待せず、すべてを阿弥陀様にお任せする立場が定まっていれば、他の神仏とのおつきあいはおのずとそうなるということですよね。
川口様、「守護・護法の神様」であればこそ、敬意をもって接していくことは大切でありますね。それは仏の御心にもかなっているということですね。

泰庵様、丹下様、ご回答ありがとうございます。
摂取不捨、なんとありがたいことでしょう。阿弥陀様はありのままの私を受け入れてくださるのですね。神仏を大切にしつつ、お念仏合掌したいと思います。
日本では無宗教の人が増えていると聞きます。自分の信じるものが違っても、「宗教を大切にする」ということは大事なことだと思います。

「仏教全般」問答一覧

人徳とは何でしょうか?

 年末多忙の時期、しかもコロナ禍のさなか、恐れ入ります。  かれこれ10年前、勤めていた職場をリストラで追われ、どうにか生き延びて参りました。10年をへて、その当時の慢心や、先般ついに手帳まで頂いた障害など、自分自身の上に反省すべき点も多々見い出しつつあります。  にもかかわらず、その当時、とある方から言われた言葉がやはり折に触れて脳裡に甦ります。しかも抗弁しようにも、その方は数年前に急逝なされ、いまはお浄土に。その言葉とは、   「ピンチに出くわして、すぐに救いの手が伸びて来ないのは、人徳がない証拠」 というものです。なるほどな、とも思わされますが、同時にやはり、「ちょっと待ってくださいよ!」という思いもございます。  そのかたは生前、仏教者として特色ある活動をなさった人であり、みだりに批判することは倫理的にも強く躊躇(ためら)われます。それでも、そのかたがお遺しになった会社が、今般のコロナ禍でかなり四苦八苦している様子を人づてに聞かされますと、心の中に「どうしました?人徳がないから左前になるんですよね?」という、どす黒い思いが湧いてこないと言えばウソになってしまいます。  そのかたとは私がリストラされるまで、ご縁あって、幾度か帰り道に御一緒したこともあるのですが、10年前、突然の(……会社側からすれば兼ねて計画していたとおりの)リストラで苦痛の極にあった私へ、「君の声は某宗教の布教師どもの声そっくりだ。不快きわまる!」というお言葉もいただいております。自分は声がやや甲高いので、それが不快感を与えてしまったのか…と思い余った末、喉仏に男性ホルモンか何かを注射して治してもらおうとすら考え、これは家族みんなに止められました。  さて、ようやく立ち直ろうとしている今、この疑問に対する自分なりの答えも日ましに脳裡で形をなしつつあります。このうえ回答僧諸師をお煩わせするのはいかにも申し訳ないと思いつつも、皆様の多年にわたる御回答経験の中から、大所高所に立ったお言葉を頂けたらと念じております。  もっとお苦しみのかたが沢山いらっしゃいます。でも、どなたかお手すきの折に何か無形の御守りともなりそうなお言葉を頂けたら幸甚です。以上、ここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございます。

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仏教で気持ちが楽にならないです。

全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?

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不審と信心と往生について

1年前にも同じような質問をしたのですが 41願のことを「信心を得たものは諸根が具足する」と書いてある本があって(蜂屋賢喜代という方の四十八願講話という本です)、それなら 身体が具足することが信心を得た証拠になるじゃないか、おかしいじゃないかと思っていろいろな善知識の方に相談しました。 すると先生のように、身体は関係ない、と様々な方からいろいろな理由で言われました。香月院深励師の本には『初住以上の菩薩』と書かれてありました。 そこで素直に「そうだな、合理的に考えて41願以降の願が念仏者に向けられているとは考えられないし、41願のことは考えなくていい」と思えればよかったのですが、なぜか「41願によって信心を得たものは諸根が具足する」という思いが1年ほど強迫観念のように頭にありました。 今も、前ほどではありませんが、1日に何度も「41」という数字が頭に浮かびます。これは疑いなのでしょうか? この不審があっても、往生の障りにはならないのでしょうか。念仏や生起本末には疑いがないのですが、この不審が頭に浮かぶたびに 「こんな心じゃ往生できない」と思ってしまいます。 けれど今はもう不審の「内容」は嘘だと分かっていて、41願の内容は念仏者ではない菩薩のことだと思っています。 この心は蓮如上人の言葉で言うと、自力の心を振り捨てて、の自力の心なのか、妄念妄執がおこるのもとどめるにあらず、の妄念妄執の心なのか、専門的に言えばどちらなのでしょうか 長文失礼しました。変な質問ですみません。ご返事いただければ幸いです。

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