神祇不拝とは
本願寺派の門徒です。真宗では弥陀一仏に帰依する立場から、神棚を祀ったり祈祷占い等を受けたりしない決まりごとのようです。
ですが、わたしは地元の神社のお祭りには氏子として協力しますし、正月には当然のように神社に初詣に行き1年の健康を祈願します。子供の成長を願って七五三詣にも行きました。
門徒としてはこういう態度はやはりよくないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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否定せず、頼りとせず
ご質問のタイトルを見て、すごい質問が来てしまったと驚きました。
そして回答者陣を見て、よく回答している者の中では私だけが浄土真宗なので、お答えせねばと思いました。
さて、おっしゃる通り浄土真宗では、神棚を祀ったり神社にお参りすることを積極的に肯定していません。親鸞聖人も和讃(わさん:七五調の詩)で…
「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」と詠まれています。
(意:悲しいことだ、僧侶も一般の方も、日の善し悪しを気にし、天地の神をあがめ、占いや祈祷にたよっている)
ですが一方、関東滞在中に鹿島神宮に参詣したり(所蔵されていた書籍を見たかったようですが)、帰京の際には箱根権現に参詣されたとしています。
当時は今のように寺と神社がはっきりと分かれておらず融合している部分もあり、親鸞聖人ももっとゆるやかな感覚を持っていたのではないでしょうか。ただ、上記の和讃のように、迷信や占いに振り回されないで欲しい、という願いを持っていたのだと思います。
僧侶によって温度差はありますが、私は神社のお参りや初詣、良いのではないかと思います。私も先日、お檀家さんを連れて鎌倉に行きましたが、臨済宗のお寺と鶴岡八幡宮をお参りしました。
もちろん手を合わせることもします。しかし私が頼りとするのは阿弥陀仏だけなので、そこで願い事を念じたりはしません。「御利益がありそうだから何でも信じる」ことはしません。
私の感覚としては、他宗派や他宗教へのお参りは「隣の国の王様に、敬意を表して挨拶する」という感じで、そして「自分の国の王様(阿弥陀さま)に、絶対の忠誠と信頼を敬愛とを捧ぐ」と考えています。
この例え、伝わりやすいでしょうか?
仏教はフトコロが大きい
私は禅宗の僧侶ですが、友達にはクリスチャンの方や他宗派の方も、同級生では創価学会を信仰している方もいます。
ですが私にとって彼らは皆友人です。
よく同じ宗教同士で争っておられる国などをみますと、仏教は争いがなくて本当に良い宗教だと思います。
さらに素晴らしいのは日本人の高い宗教性だと思います。
クリスマスにはキリストを祝い、
大晦日には除夜の鐘をついてお寺にお参りし、
お正月には神社へお詣りをする。
それでいてそれぞれに親しめる柔軟性がある。
食べ物でたとえるならば、そばもうどんもラーメンも同じ麺、ヌードルです。
別に麺同士で喧嘩はしていません。
舌も喉も、分け隔てなく受け入れます。
人間が心の中で競い合う心を起こした時にだけ対立が起こるまでです。
食材ですら、それぞれ個性があって、それぞれの風味や味が違います。
いまだかつて世界がラーメン一色、うどん一色に染められた歴史もありません(笑)
だからこそ、互いに尊重し合う心こそがこの現代における高い宗教性であると思います。
競ったり、争って、自分の優位性ばかりを主張し、古来より大事にされていたものや文化を破壊してしまうようなあり方では、いくら宗教の名をかたっていても、それは宗教ではなく、世俗の争いの世界です。
これは笑い話ですが、
お坊さんが着ているお袈裟はインドの服。
その下の法衣は中国の僧服。
その下の白衣は日本古来からの服。
そしてその下にはUSA産やベトナム産のユニクロシャツを着ています(笑)
拙僧の生まれ育ったお寺の境内には神社の鳥居があります。
小さい頃は何でお寺に神社の鳥居や社があるのだろう、と不思議に感じました。
境内を散策される方は、お社の前でパンパンと柏手をされてお参りをされたあと、本堂の前で静かに手を合わせてお参りもされているのです。
神社だからお参りしない、キリスト教だから関わらないという姿勢では、御釈迦様はきっとお嘆きになられるのではないでしょうか。
神社の鳥居もおヤシロも壊されずに今日まで残ってきたことが、仏教のフトコロの広さであると思います。
仏教の精神は、決して排他的な精神ではありません。
互いの個性を尊重し合い共存共栄してゆくあり方であると、思います。
摂取不捨
信仰と習俗を同じ土俵にのせなくてもいいかと思います。
真宗門徒である前に仏教徒であること。
仏教徒であるまえに宗教を大切にする。
町内の付き合いで氏子サンのお仕事を何回かしたくらいで揺れる信心なら、それは帰依とは言いません。
真宗の教えはそんな器量の狭いものではないです。
氏子サンとしてお神輿が無事終わったり、七五三で素敵な写真が撮れたら、そのときはなんまんだぶつと手を合わせてくださると嬉しいです。
ナツツバキ 様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
宗教に関しましては、浦上哲也師と同様に相互尊重、また寛容性が誠に大切なことであると存じております。
思想・主義・宗教の対立により争いが起こり、これまでも人類は幾度となく悲劇を繰り返して参りました。
仏教においても、インド並びに伝播に伴っての各国・地方におけるもともとの土着の宗教・信仰・思想との対立が様々な弊害を生み出し、時には血が流れることももちろんでありましたし、各宗教は、時の権力との結びつきを強めて勢力拡大を図ろうとすることもあり、そのために巻き込まれていく争いも当然に多く見受けられました。
しかし、仏教にはもともと不殺生や不瞋恚、不害や忍耐の教えがあり、争いや対立は本来好まない傾向があるため、では争わずにいかにして土着の宗教・信仰・思想との融和を図り、また逆に取り込めていけるかということにも腐心していくことになります。例えば、インドではバラモン・ヒンドゥー教、中国・韓国では、儒教や道教など、チベットではボン教、日本では神道などとなります。
おおよそ傾向的には、各それぞれの信仰対象となる神や尊格を仏教の守護神・護法尊として奉ることで対立を回避していくということが言えるのではないかと存じます。その神や尊格の中には、明王、菩薩、如来といった存在にまで高められているものも多くあります。
もちろん、如来や菩薩にまで格上げされている神や尊格は実体としてあるものではなくて、あくまでも仏の教えの顕れとしての役割がそれぞれに与えられて、目的である悟り・解脱・涅槃へ向けての助けとしての存在である点には注意が必要であると考えております。
上記のことを踏まえて、拙生の考えとしましては、僧侶・仏教徒であっても、仏道修行を進めていくためということを前提として、産土・鎮守神社に安穏・安全・健康・長寿などを祈願するために参拝することは特に問題ないことではないかとは存じております。
少しなりともご参考となりましたら幸いでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
浦上様、川口様、ありがたいご回答賜り感謝申し上げます。
浦上様の「表敬訪問」というお考えはとても納得いくものでした。個人的な「ご利益」を期待せず、すべてを阿弥陀様にお任せする立場が定まっていれば、他の神仏とのおつきあいはおのずとそうなるということですよね。
川口様、「守護・護法の神様」であればこそ、敬意をもって接していくことは大切でありますね。それは仏の御心にもかなっているということですね。
泰庵様、丹下様、ご回答ありがとうございます。
摂取不捨、なんとありがたいことでしょう。阿弥陀様はありのままの私を受け入れてくださるのですね。神仏を大切にしつつ、お念仏合掌したいと思います。
日本では無宗教の人が増えていると聞きます。自分の信じるものが違っても、「宗教を大切にする」ということは大事なことだと思います。