お経の意味わかりますか?
お坊さんは読経しただけでお経の意味が分かりますか?
ある部分の意味を悟るとかの意味ではなく、読んだだけで漢文が読解出来るかという意味です。
ちょっと気にして読めば分かりますか?
読経の時以外に意味を取ろうとして読めば全て分かりますか?
それとも日本語訳や解説本、師僧からの指導などがなければ分かりませんか?
般若心経のような短いお経ではなく、観音経全文以上の長さのもの対象です。
そんな事気にするのはどうたらという回答は不要ですのでそのように回答したい方は回答しないで下さい。
臨済宗や曹洞宗系の派ではないので、ご自身の宗派の思想内でこじつける回答はしないでください。
上から目線で回答すれば良い場所でもないと思いますので「喝!」などというアホなことは書かないでください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
頭での理解と心・体の理解
こんにちは。
先ず、回答に先立って一言、お話せねばなりません。
このハスノハで活動する回答僧の一員としてです。
あなたは、ここで質問をして回答をお願いする側です。
「アホなことは書かないで」、「ご自身の宗派の思想内でこじつける回答」と言われれています。
まず、その2文字の言葉を発すること自体が仏教徒として適切ですか。
相手を侮る発言です。仏教徒が仏教徒に向かって。
「宗派の思想内でこじつける」と言われています。
宗派ごとに考え方が違うのは当然で、それを「こじつける」などと見下げて発言するのは何故ですか。しかも、聞いてもいない回答を事前に値踏みするなどあってはならないことです。
「上から目線で回答」を望まないと言われていますが、あなたの方にこそ「上から目線」を感じます。それは学ぶものの姿勢ですか。
あなたがこのように尋ねた背景が何かあるのかもしれませんが、ここでは文面のみにて判断する他ありません。今後のためにご自身の発言を顧みられる方が宜しいと思います。同じ仏教徒として一言、お話しました。
さて、我が宗派においては、お経を読みながらその内容と、自身の思考や心を一致させる必要性を説いていません。
ただ、お経の内容は既に学ぶべきことですので、理解はしています。
浄土真宗ですので、主に浄土経典が中心になりますが。
中でも、複雑な理解が必要なところもあり、何度も理解し直さないといけない箇所もあります。この理解は、先生や解説書によって深めていきます。また、漢文の読解は、ご存知のように、上、下、レ点、一、二、甲、乙、丙など複雑な構造をしているため、長文になるほど瞬時には分かりません。
また、既にお答えの回答僧の先生がお答えのように、頭で理解するとことと、腑に落ちる、体得すると言う意味での理解は必ずしも一致しないということも併せて述べておきます。
ご参考まで
わかるけど、わからん。わからんけど、わかる。
"臨済宗や曹洞宗系の派ではないので"
まさかの浄土真宗、転落院です。
"読んだだけで漢文が読解出来るか"
恥ずかしながら、私にはほとんど不可能です。
さすがにそれは、信仰の深さや熱心さとはまったく別問題として、よほどの漢文と中国語の教養が無いと難しいのではないでしょうか。
ただ、『大方広仏華厳経』の「三帰依文」に「自帰於佛 當願衆生 体解大道 発無上意」とありますように、【体解】つまり「身にしみてわかる」ということが伴わないと、言葉や理論をどんなに精緻にアカデミックな分析をしたとしても、それはおおよそ「意味がわかった」とはいえないのかもしれませんね。
天台宗の伝教大師最澄さんも、【解行一致】や【教行一致】などとずいぶんうるさくおっしゃっておられたようですから、きっと密教系の行者さんは、他宗派よりも格段に【体解】を重んじられているんだと思います。
ちなみに浄土真宗には、【聖教よみの聖教よまずあり、聖教よまずの聖教よみあり】という言葉が伝わっています。
回答になりませんが
回答僧の皆様が尊くて……
私は、三毒(貪り、怒り、愚痴)から未だに離れられない凡夫であります。それを自覚しているので、何事にも一生懸命に僧侶を務めようとしております。
ハスノハの回答僧の諸師は、皆、悩み苦しみを持つ方々に寄り添い、力になろうと御心を砕かれております。少しでも何かが出来ないか、と僧侶が同じ方向を向いている状態を「和合僧」と言います。ハスノハという和合僧は、宗派を超え、いつも頭を悩ませ、いつまでも寄り添っていくのだと思います。
最後に、どうか、仏法僧の三宝を大切にして下さい。邪智謗法になりませぬよう。
拝
看経 読経 論 それぞれ専一がわたしの学びと心得ます
臨済宗ではありますが、わたし自身の体験を通しての
言葉となりますことをご了承下さい。
看経 読経 論
これらを同時に行うことを、わたし自身は成していません。
看経は看経に専一に
読経は読経に専一に
論を学ぶときは論に専一に
またそれらが実際の経験をもってはじめて「解」、つまり
一致する瞬間を感じることはあります。
あなたの学びが素晴らしいものとなりますように。
さちあれ。さちあれ。
私は最初は何もわからずただ暗記しているだけでした
こんにちは
そうですね。お坊さんになると、まずお経を読んで暗唱することを指導されます。私も最初は訳もわからず何度も読んで暗唱できるよう努力しました。
しかし「読経」という字があるとおり、本来お経は「読む」ものであり、そらんじて唱えるものではないようです。
お坊さんは、ご本山にいる時や、修行を終えて寺に戻ってきても、自分で勉強したり、研修を受けたりします。そんな時にお経の一節がでてくるわけです。その時に「ああなるほどこのお経にはこういう意味があるんだ」ってなったりします。また、布教の学習の時に「このお経のこの一節について法話を作ってくるように」という課題をだされ、それで参究することもあります。逆に法話を作っているときに「そういえばお経でこんな事を言っていたな」とそこを詳しく調べるなど、索引的に使うこともあります。
歴史や理科の教科書を見ると、大切な部分が太字で書かれていますよね。それと同じようにお経は仏教の教えにおける太字部分なんだと私は思っています。訳がわからず暗記していた言葉が、講義などにそれが出てくると、「ここがこの講義における重要部分だ」ってすぐにわかる仕組みなのだとわたしは考えてお経を暗記しています。
わからなくても暗記しておくことは、今後の勉強の助けになるし、わかるところを読むときは、ああここはこういう意味だよなと思い出しながら(自分はこのお経のように生きているのか自省して)読む感じになります。
仏教の教えは「毛穴から入る」というたとえがあります。お経を全部理解して読むのではなく、お経を通して少しずつ仏教の教えに近づいていくものだと思います。
プロフィールの煩悩の理解が
仏教から見ると間違っています。
煩悩とか欲は満たされることがありません。腹いっぱい食べておなかが満ちて、それでもう二度と食べずに済むかと言えば、しばらくしたらまた食べたくなります。性欲もそうです。
煩悩とは何かとその正体を探して、修行して見つけて、煩悩はくだらないと捨てられたら、解脱です。
煩悩をなくして悟りに達することを目指す仏教の中で、煩悩を肯定すると、良くて、世間の考え。悪くすると邪教です。仏教の見方ではありません。
読経しただけでは分からないです。
私は現代語訳と付き合わせて
勉強しています。
でも
ある程度の意味が分かってから読経すると
その教えがより深く入ってくるように感じます。
そして
自分なりの解釈が浮かんできたりします。
それって面白いですよ。
浄土宗のお坊さんです。
まずは現代語訳を読みます。
あるいは、仏教辞典などで仏教用語を調べます。
そのような勉強をやった上で、ふだん唱えるお経はだんだんと意味が頭に入ってきます。
結論としては、勉強すればそれなりに意味がわかりますが、初めて読む経典の場合は難しいです。
質問者からのお礼
和田隆恩様
誠にありがとうございます。大変学ばせて頂きました。
自分なりの解釈が浮かんでくること、私もありますね。それが目的になってはいけないのでしょうが、そうした楽しみもあり毎日読経しているという面もちょっとあります。
毎日続けてこそ見えてくることがあり、またそれも移り変わっていったり、時によって惹かれる箇所が変わったりとかしますね。
読経もおもしろいですね。
藤本晃(慈照)様
回答ありがとうございます。
それは慈照様の信じる仏教の考え方ではないでしょうか…
それでいて一般的な仏教のイメージに合致し、かつ間違いだと断言している。一般の方が見たら慈照様の考えだけが正しく、私は間違っているとしか見えません。煩悩は無くすものではないと考える仏教もあるという事実があるにも関わらずです。密教では煩悩は清浄なものと見ます。食欲とか性欲がいつまでも満たされないとの事ですが、心が満たされていないからそうした代わりのものを貪るのです。真に心が満たされれば貪りは止まります。
また小欲を衆生救済という大欲に変えていくべきであるとも説いています。いじめられた過去に囚われ報復を考えているような段階から、いじめをなくす活動をしよう、とかそういうのです。
密教では煩悩を無くすという悟りを超えて行きます。煩悩を無くすという悟りは修行の初期の通過点でしかありません。
思い込みかもしれませんが私は修行中にそのような境地を得ました。しかしそこで満足してはいけないと世間に出ていくのです。
また密教では煩悩即菩提といいます。煩悩こそが菩提心の元であるという考えです。そうでなければ煩悩を無くしてああ楽だ、この世はなんて清らかなんだろう、で終わりです。悟りの境地から出て衆生を救いにいくのが密教です。
願誉浄史様
誠にありがとうございます。正に私が知りたかったことでした。本当に勉強になりました。感謝感謝です。
日延様
誠にありがとうございます。三宝は大切ですが衆を大切にしてこそと思います。また三宝だから僧侶だからという前提を持って良いのだろうかと思ったりします。こちらは僧侶は仏と等しいという思想ですが毎日懺悔します。
星 大晃様
誠にありがとうございます。私の質問を良い方向に捉えて下さったと感じ感激です。そこまで教えて頂け誠に感謝です。
臨済宗さんの思想や教えもとても尊く有難く素晴らしいものだと思います。周りに誤解を与えるような表現すみません。
釋 悠水様
申し訳ない事でございました。
仏教徒だからというより、全ての人モノに通じるものかと思います。私の事は最低最悪な人間(いやむしろ人間でも糞でもない)だと全ての方に思って頂ければと思います。
有り難しをされている方が多数いらっしゃりますし満足して頂けると思います。
ただ私ではない方が同じようなことを書いたら、何故そう思うのか、悩みます。
お坊さんだけでなく人の相談に答える全ての方に、相手の方が1000倍自分より優れた人間だと思って答えて欲しい。私のことはクソ以下でいいです、他の方にはです。人間に優劣もないと思ってもそうして欲しい。他の相談サイト(〇〇〇町、〇〇袋など)も見てみて下さい。大変なことになっています。相談する方が「甘えてはいけませんが」と予防線を貼らなければならない、そんな世間が苦しい。私は最低な人間ですし、無礼を謝罪致します。しかし他の人の場合としてなぜそのような人間が存在するという前提なのだろうかと思います。
私の事はいくらでも間違っていると非難して下さい。ここでやるのは間違いだとか立場を弁えていない、思い上がっている、人間性が最低、修行が足りないからこんなことを言える、など無限にあると思いますし反省もします。
また質問のご回答大変勉強になりました。ありがとうございました 。
転落院様
誠にありがとうございます。
浄土真宗さんなんですね。詳しくは分からないのですが阿弥陀様は好きです。どの派の教えも尊く素晴らしいものだと思います。
私の知りたかったことを正に答えて下さり大変感謝です。
体解というのはとてつもなく難しいもののようにも思いますし、実はものすごく簡単なのではないだろうかと思うこともあります。
密教ではどうなんでしょうね…重んじてはいると思いますが、そこは何となくでも心さえキレイで真剣なら神仏は願いを聞き届けたり救って下さると感じます。
仏の優しさに触れれば人は容易く仏になれるのではと思います。自分さえ良ければという所から、他者に優しさを向ける段階に行けるのだと感じます。
光禪様
お礼が遅くなりすみません。
誠にありがとうございました。
大変勉強になるお話でした。
お経を通して少しずつ仏教の教えに近づいていくということなのですね。ありがとうございます。