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浄土真宗の信心について

回答数回答 6
有り難し有り難し 102

浄土真宗に興味を持って、1年半ぐらい聴聞をしたり仏書を読んだりしているのですが、疑いが晴れません
個人差があるのは承知しているのですが、一生信心が得られないのではないかと不安です
どういう心構えでいたらいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そのまま聞き続けましょう

ご相談拝読しました。一年程前には称名念仏についてご質問いただいていましたね。それより以前からずっと浄土真宗の聴聞を続けておられるのですね。

しかしながら疑いが晴れないとのこと。疑いの内容はどのようなものでしょうか?よろしければまたお聞かせください。一緒に聴聞していきましょう。

さて、聴聞をされていて阿弥陀仏が救いの対象とするのはどのような存在かを聞く機会も多いでしょうか。それは他でもないこの「私一人」であるわけですが、その私はどのような存在かというと煩悩の身を生きる凡夫であります。凡夫はどこまでいっても凡夫です。凡夫が凡夫でなくなって救われるのではありません。

凡夫は真実がわからないからどうしても自力を頼みとしてしまいます。その凡夫の心に阿弥陀仏の本願がはたらくのでしょう。

はるかさんのところにも既にはたらきは届いているはずです。煩悩が盛んならば本願も盛んにはたらいているのです。

もしかしたらはるかさんが得ようとしているのは信心ではなくその先の+α(いわゆるご利益的な何か)ではないでしょうか。そうした何かわかりやすいものが実感されないから信心が得られないとお感じなのではないでしょうか。

私も同じく凡夫ですから疑いが晴れないのは同様だと思います。聴聞を続けていて不安になることもわからなくなることも沢山あります。でもだからこそ、その私一人をめがけてはたらいてくださる教えであることも痛感させられるのです。

どうかあきらめず聴聞を続けましょう。疑いは恥ずべきことではありませんからよかったらまた詳しくお話をお聞かせください。

南無阿弥陀仏

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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【唯可信斯高僧説】

"聴聞をしたり仏書を読んだりしている"
結論から申し上げると、
この方法ではあなたの心配しておられる通り、一生かかっても、信心を獲得し、疑いの晴れる日が来ることはありません。

【唯可信斯高僧説】(ただこの高僧の説をしんずべし、と。)とは、おなじみの『正信偈』の最後の句ですが、「高僧」とは、すなわち本文に出てくるインド、中国、日本の七人の高僧方であり、「高僧の説」とは、つまり「南無阿弥陀仏と称えよ」という事です。【称名念仏】のないところに【信心獲得】はあり得ません。 

一にも二にも、
まずは「なむあみだぶつ」ととなえる生活を直ちに始めて下さい。

とっても重大なご質問、どうもありがとう。次が楽しみです。
なむだみだぶつ 拝
hasunoha.tenrakuin@gmail.com

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【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
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仏教はbelieve(信じる)ではくawakening(気付き、目覚め、悟り)です。
「信心」と言うと「信じる心」とつい連想してしまい、自分の力で「信じるぞ!」とつい力が入ってしまいます。浄土真宗の僧侶の方が「信心をいただく」と云う言い方もしますが、何かイメージし難いですよね。。 私も最初はそうだったからです。
だから私は「他力の信心をいただく」とは、ハッと「あっそうだったのか!」と気付きを感じる時ではないかと理解しました。一種の小さい悟りの瞬間です。人生はそういった気付きの連続です。暑いとか寒いとか、笑うとか怒るとかも、、、毎日がイベントです。そして私を気付かしてくれたその「ハタラキ」が「如来さまの力(すなわち他力)」ではないでしょうか?
ですから「ハタラキ」とは、貴方の人生そのものなのです。そして「ハタラキ」は貴方だけではなく無数の「縁起」で成り立っているのです。

説明が難しかったでしょうか? 

南無不可思議光如来
合掌 

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おきもち

東京在住の浄土真宗本願寺派の僧侶・前住職です。仏教は、私たち生きとし生ける...
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一生信心が得られないのを分かっていながら、

聞法せずにはいられない
という気持ちが尊いのです。

疑いが晴れない状態のままで
いいんです。

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おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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浄土真宗に興味をもっていただきありがとうございます。

信心に心構えは必要ありません。
ただ「南無阿弥陀仏」と口に唱えること。
それが他力の信心です。

疑いは空を覆う雲のようなものです。私たちが「晴れよ!」と願っても雲は動きません。当たり前ですね、雲は私たちの努力や願いとは関係なしにそこにあるのですから。

晴れていたら最高!でも、晴れずとも雲の下が明るければいいじゃないですか。疑いは晴れずとも、きっと何か心に響くことがあって教えを学んでいるのでしょう。

私も疑いの心で聞くことはあります。納得いかない気分になることもあります。ずーっと同じようなこと聞いて、なんの役に立つのかな?と思うこともありました。けれども、そういう疑いをきっかけに聞くことで、教えがより深まることもありました。

疑いを除いても良いことはない気がします。逆に鼻もちならない人間になるかもしれません。実は、自分がこうやって相談者様に話していることも、ちょっと上から目線で自分自身やだなぁと思います。そういう自分がいることを教えてくれたのも南無阿弥陀仏の教えがあったからこそだと思ってます。

心構えができてないからこその教えです。これからもともに、どうぞそのままの心構えで聞法精進してまいりましょう!

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有り難し
おきもち

1979年名古屋市生まれ。 真宗大谷派の僧侶です。
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生きてるときは、娑婆での都合もあるからその都度、迷いも悩みもあって当たり前。

棺桶の中にひとつだけもっていくなら、南無阿弥陀仏。
そう思えるときが増えるといいな。

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有り難し
おきもち

泰庵  一法
「変えるべきは自身ではなく歩む方向」「時間とお金の使い方」「向きが変われば...
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質問者からのお礼

みなさんありがとうございました。
疑いが晴れないでいいというのも、念仏を生活に組み込むというのも、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

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