お坊さんの妻帯批判について
こんにちは。お坊さんの妻帯について質問です。
よく日本のお坊さんの妻帯が「堕落」として批判されることが
ありますが、妻帯は堕落と言えるほどの問題なのでしょうか?
日本仏教に限らず韓国やチベット、ネパールにもお坊さんの
妻帯を認める宗派はありますし、
タイでは「男性は一生に一度は出家する」という慣習に従って、
既婚者でも出家することが少なくないそうなので、
「妻帯」=「堕落」としてしまうのは早計ではないかと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
視点が変われば意味も変わる
拝見いたしました。
妻帯は早計だという考え、私もある程度賛成です。
ゴータマ・ブッダの仏教では妻帯は禁じられています。
ある経典に、悟るためには7つの「淫欲の繋縛(ケイバク)」を手放さないといけないとあります。
女性の身体に触れていけない。まあ理解できますね。
女性と目を合わせていけない。おっと急に厳しい。
出家前に行った女性との会話を思い返してはいけない。記憶から抹消。
など、これでもかと厳しく制限されています(出家者が女性であれば、もちろん「女性」→「男性」になります)
とにかく、それほど女性にまつわる煩悩は厄介で滅尽すべきものだ、とされています。
東南アジアなどのテーラワーダ仏教では、ブッダ時代の仏教を強く受け継いでいます。
その視点から見ると結婚して子供までいる(性交渉している)日本のお坊さんは堕落極まりありません。堕落の指摘は至極真っ当です。
ですが、日本は大乗仏教です。
できる限り多くの人を救うことが何よりも大切です。
子供がいると、親の気持ちがわかります。
親の気持ちが分かれば、子育てに苦しむ親に寄り添うことができます。
子供がいると、無条件に愛情を注ぐ苦労と価値がわかります。
その経験を糧にすれば、苦しんでいる人を我が子のように大切にできます。
妻帯すること、子を持つことは、ひいては大勢を助けることにつながる、と私は信じています。
妻帯することで、煩悩を滅却できる可能性は確かに低いかもしれません。
けれど、悟らないから堕落だ、とは思いません。
たとえ悟らなくても、他人を救うことができれば、それは尊いこと。
日本で僧侶として活動するなら、私も妻帯は堕落だとするのは早計だと思います。
お釈迦様曰く「この世に非難されない人はいない。」「他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。」
私には妻がいますが批判されても構いません。お釈迦様のように現世で悟りの境地に至ろうと精進されている方から見たらそう見えても当然のことと思っています。
ただ、そのことについて私が私を批判する者を批判することはありません。
私はただ私がしたこととしなかったことを見るだけです。
僧侶の妻子帯について
つくしさま
独身の時よりも明らかに仏教の修行に対する真摯さ、修習する力、スピードは歴然と落ちると言えます。
もちろん、その原因は、妻帯、妻子帯、家庭を持つと俗事、雑事が増えるからであります。また、それに伴って、本来は僧侶にとってはダメとなる執着事も増えてしまっていくと言ってもよいでしょう。
しかし、日本の寺院運営管理システムの都合上、寺院を維持するために妻子帯が必要であることも否めません。
もちろん、寺院の維持=仏教の護持となっているかどうかは少しずつ怪しくなってしまっているのも現実であります。往々にして寺院の維持=寺族の維持になってしまうからであります。
ですから、堕落してしまうというのは、ある意味では当たっているところもあり、真なる仏教のあり方からは離れてしまっていくのは仕方のない面もあります。
そういうことも踏まえた上で、できる限り寺院の維持と仏教の護持の両立を図れるように、最大限、何とか努力していかないといけないのであります。
個人的に、次生では、何とか僧院(できればギュメ僧院)にて静かに仏教修習に集中できる立場に転生したいものであります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
たくさんのコメントをありがとうございます。
お坊さんの妻帯は仏教的にはあまり良くないと
される一方で、お寺の護持の為にはやむを得な
いという側面もあり、なかなか複雑な問題です
よね。合掌