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何の為に生きているのか

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何の為に生きているのか、わからなくなる時があります。
後継の為に生まれたのか、自分の人生とは何か、眠れなくなるほどです。

何故、後継の話が出てくるのかというと、私の実家はお寺だからです。
特に、ここ数年は私が後継として見られるようになりました。
私には男兄弟がおらず妹が二人だけなので、後継として見られるのは自然なことだと思っており、またそれを受け入れているつもりでした。

そんな中で、私は後継の為だけに生きているのかという思いが出てきました。
理由として、周囲の友人が次々と結婚し出したのもあり、自身の結婚を焦っていること、また、難病を発症してしまい、妊娠・出産できるかわからない身体となったことです。
もし結婚できなかったら、もし子どもが作れなかったらと思うと、後継としての意味が無いのでは?と思い悩んでいます。
それでも、まだ若い妹たち(学生)に実家を任せる訳にはいかず、ましてや実家を手放す気にはなりません。

私は何でお寺に生まれたのかと思う始末です。
これも運命ならば仕方ないのですが、今後をどうしても悲観的に考えてしまいます。
家族には迷惑をかけると思うと相談できず、自分でもこんなことで悩むなんて…と泣けてきてきまいます。

長々と申し訳ありません。
少しでも心を軽くできたらと思い、投稿ささていただきました。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「死ぬる命を今生きているので無い、仏に成る命を今生きて居る」

私もお寺の人間としてお気持ちは良く分かります。
こんな言葉があります。「跡取りはいても、後継ぎはいない」現代社会を現している言葉です。
親が死んで財産は取りたがるが、仏までは引き受けたくない。と言うひとが多く正に仏教離れも此処にあります。
貴方は後継ぎの事で継ぐか継がないかでは無く心は継ぐ気持ちが現れでいるようですが。
その気持ちがあるからこそこんなに悩まれておられるのでは!

考えには、今考える!先に考える!があります。
今考えなければ明日からどうなるか、先に結果が分かっている時(例、このままだと必ず自己破産になるなど)
今の貴方は、取り越し苦労の様に思います。
結婚して突然身体が悪く成る事の可能性は誰でもあり何が起こるか分からないのです。
貴方だけで何とかしょうと思う事はありません。
姉妹である妹さんも居るんです。居ないのとは大きく違います。
それに親御さんも何をいわないけれど考えておられるはずなのです。

人は諸行無常に生きて居ます。明日は何が有るのか誰も分からず皆予測で明日を見ており本当の事は誰も見えません!
例え何が有ろうと今!今を精一杯生きる事が真実、迷い無き生き方です。

 今を一生懸命生きた26歳で癌のため亡くなられたお寺の娘さんの最後の言葉があります。
「死ぬる命を今生きているので無い、仏に成る命を今生きて居る」

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学んでください

お気持ちは分かります。
私もお寺の子供でしたから。
私は大学に進学して、その後も一般の会社に就職し、お寺を出て行きました。
お寺は弟が継いでくれることになりました。
しかし、副住職だった弟は30歳で癌で亡くなりました。
私は仏教を恨みました。
あれほど熱心だったのに癌で死ぬなんて、やっぱり神も仏も無いじゃないか、と。
その後やはり跡継ぎの事を考えました。
私は仏教を恨んでいましたから、快諾はできませんでした。
ただ、祖父も父も弟も仏教に熱心だったのは何故なのか。癌も治せない仏教に何の意味があるのか。
それを先ず学んでみよう。
仏教全般を、お寺の宗派を先ず学んでから、今後を考えようと思いました。
学んでいくうちに、徐々にある思いが自分の悲しみを和らげている事に気が付きました。
学んでいくうちに、何故弟は死を前にして心穏やかだったのか、その理由が分かってきました。
それは、死は永遠の別れでは無い、という事です。
阿弥陀仏の作った極楽浄土に行けば、また会える、という事です。
それが死を前にした弟を救っていました。
そして、私も救われていたのです。
その経験から、極楽浄土でまた会える、という教えは、きっと他の人も救われると思い、その教えだけは人に伝えていかなければならないと思いました。
そして私は会社を辞めて、お坊さんになりました。
お釈迦様の教えはとても沢山あります。
それらも学んで人に伝えていかなければならない、後世に伝えていかなければならない、と思っています。

お坊さんになる理由は人それぞれですが、先ずは仏教とあなたのお寺の宗派の教義を学んでください。
それがあなたの心になるほどこの教えは私が人々に、後世に伝えていかなければ、と思えばお坊さんになればいいのです。
あなたの跡継ぎは気にしなくていいです。
もしかしたら妹さんのお子さんが仏教に興味を持ってくれるかもしれませんし、弟子を見つけてもいいでしょう。
同居してくれる跡継ぎを他のお寺から探してもいいですし、いろいろ手はありますよ。
今は先ず学ぶことです。

私達と一緒に仏教を学びましょう。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

私も同じような悩みを抱えながらお坊さんになった

 こんにちは。
 お寺に生まれてきて、跡を継がなくてはならない可能性が出てきた。だけどなんだか自分自身が後継のためだけに生まれてきたのではないのか?という思いになり、またさらなる後継を産み育てる自信がない、とこういう事ですね。

 私は、お寺の子供として生まれてきましたが、最後の最後まで継がないように粘りました。会社勤めまでしていました。
 しかし、最後はお寺を継ぐことにしました。最後の決め手は「必要に迫られて」でした。

 私がお寺を継ぎたくなかったのは、お寺が嫌いだったから。
 「坊主まるもうけ」といわれているけど、実際は所得税も住民税も健康保険も年金も払わなくてはならない。まるもうけと言われているけど、貧乏だ。言われ損だ。頭もツルツルにしなくちゃいけない。イヤだ。本山に行って修行をしなくてはならない。大変そうだ。
 あなたの気持ちの中にも、もしかしたらお寺が嫌いな気持ちがあるのかもしれませんね。好きな事だったら、余計なことなど考えずに「やってみたい」ってなりますもんね。
 私は結局お坊さんになったけど、やっぱり今書いたような苦労はあります。でも、私の事をかわいがってくれる檀家さんもある。いろいろな出会いがある。良かったな、って事もある。

 輪廻って思想がある。生き物は死んだら何かに生まれ変わるっていう考え。もともとは仏教が発生する以前のインドにあった思想で、仏教とは関係がないはずなんだけど、途中で仏教と混ざってしまった。私は小さいころ、小学生向けのお坊さんの研修みたいのに参加したことがあったんだけど(これに行くのもすごく嫌でした)、その中の法話で、前世の行いが良かった人が、最終的にお坊さんに生まれ変わり、輪廻の輪から解脱する、お坊さんになった人は、もう生まれ変わりという苦を受けない、という話を聞いたことがあります。私が必要に迫られながらもお坊さんにさせていただいたのは、もしかしたら過去世からのご縁で、これで解脱なのかもしれないな、とも思っています。

 まああなたも思いつめず、ぎりぎりまで粘っても良いと思います。それでも、お坊さんになる事になったら、やっぱりそれはご縁です。嫌がらず、丁寧に大切に勤めてください。

焦らずにね。ゆっくりゆっくり。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

ちょっと先を行く者として

 こんばんは。文面から、ご家族やお寺・関係の方々を大事にしつつ、自分の存在が何なのか、揺らいできている、その不安と戦っている姿が感じられて、放っておけないと思いました。
 私はお寺の生まれです。しかし、結婚して直後、おたふく風邪に罹りました。折角お嫁さんが来てくれたのに…男性不妊になるかも知れない、と心配もしたのですが、現在は無事男子を含めて子育てをしています。
 しかしね、最近思うのですが、正直言いまして「息子が盆暗であったら、任せたくない」と確信しています。もちろん檀家さんや、現住職は期待していますよ…ですけれど、お坊さんって、お寺を繋いで行く・守っていくのが使命ですよ、いまや。ですから、息子に才覚がなければ、別に探すべきだと思うのです。息子は放逐。放逐したら、いろいろ言われるでしょうね。でも私が出来る所までは責任持ってやり、あとは宗に返上でも構いませんよ。お寺を継がないならば、庫裡には住めないことは、息子も理解しているようです。

 ということで、あなたは「中継ぎ」ではなく、一代を築く人です。次の代がどうなるか、責任はあるけれど見つけてくれば良い。我が子でなくてもよいのです。大丈夫、気概のある人はいますよ!多くのお寺さん方が、あなたのことを心配していると思います。どうぞまた、ご質問下さい。

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

お寺に跡継ぎという概念はない

お寺は坊主の財産ではない。檀家の財産である。だから跡継ぎという考えは全く間違っている。実態は借家である。大家である檀家から住まいを借りているのだ。
ところで、何のために生きるのか。
過去世からの罪を償うために生きるのだ。
幸せになるためと言えばウケがいいから坊主はみなそういうが、本当はそういうことだ。嫌われようが信じまいが、檀家がいなくなろうが、私は本当のことを言う。
罪障消滅するためだけに生まれてくるのだ。
過去世の罪に応じて現世に生まれる。寺に生まれるというのは一般人より大罪を犯した証だ。罪を償うその苦しみは過去世に犯した罪の重みである。過去世の記憶があろうがなかろうが、人にそのような辛い思いをさせたのだ。人に辛い思いをさせておきながら、その罪も償わずに幸せになろうということが苦しみを生むのだ。
成ったことを見て知れ。
現世の結果をみて過去世の原因を知れ。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

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