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八聖道によって死の恐怖を消せますか?

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有り難し有り難し 34

以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。

今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。

私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。
そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。

現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。
しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。

私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。
座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。

hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。

長々とすみません。以上の流れから、
1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか?
2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです)
の2点をお伺いしたいです。
また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。

長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

2022年8月1日 0:09

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

実践は大事ですが要注意

ご相談拝読しました。以前のものも少し読ませていただきました。(すべて読めておらずすみません。)

真摯に仏教を学び、実践もしていきたいとのことですが、知識を増やすことについてはまだまだここhasunohaでご質問いただいてかまわないと思います。
しかし、実践については、特に座禅や瞑想に取り組もうとするならば必ず適切な指導者の下で行ってください。一人で行って深い精神統一状態に入った場合に恍惚感を覚え、それについて誤った依存感覚を持ってしまっては危険です。
あるいは指導を受けるに際しても、素性のよくわからない仏教講師やヨガサークルなど、指導者の宗派名や所属団体が明らかでないところは避けましょう。

以下は私見ですが、「死への恐怖が問題」なのか、「死の恐怖を(誤った形で)問題とすることが問題」なのか・・・。だんだんと見極めていくことが大事だと思います。
死への恐怖というものはあるいみ生き物としての生存本能でしょう。つまり正常な感覚です。
仏教の悟りというのは、けしてその正常な状態を壊し、感じるべき恐怖心をなくしてしまって揺るぎない心を手に入れるようなものではないと思います。それでは酒による酩酊状態や悪い薬物による混乱状態とさして変わりありません。

死への恐怖は確かに大きいもので、それにより生活に支障をきたしているのかもしれませんが、はたしてそれは排除すべき感覚なのかどうか。

「私」という確固たる存在がいて、そこに余計な「死への恐怖」がこびりついているのか、「死への恐怖」も含めて今の「私」なのか。

一緒に学んでいきましょうね。またご質問ください。

2022年8月1日 11:10
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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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恐れることをおそれない。

禅の師によく聞かれるのが「死にともない」ですが、
死の受容というものだと心得ます。

死は必ず来る。これを「正しく」受け止める手段のひとつとして
「言葉」によって「恐れ」の受容を行うのだと私は受け止めています。

八正道を務めたことで死を克服する、というのは、
死を正しく受け止め正しく恐れ、その故に今このときを
大切に、懸命に、他がために、生きることこそ、正しい死への道だということを
教えて下さっているからだと思っています。

二百五十年前の禅僧、白隠禅師という方は
死の恐れがあるからこそ、迷いなく正しく懸命に、苦しみ悲しむ人たちに
寄り添って生きることが出来る、と説いています。
死を恐れない道を白隠禅師は「魔道」、つまり逆に「苦しみの真っ只中」に
堕ちるとさえ言います。

自分自身の、誰かの、死を、恥ずかしくなく恐れることで、
本当の人間としての生き方というものが見えてくるのではないだろうか、と
私は思うのです。自分も苦しいからこそ、だれかの痛みや苦しみを受け止め、
共に分かちあって生きる道に「やすらぎ」を見出すことも出来ましょう。
もちろん、これがあなたにとっての答えではないでしょうから、
どうか坐禅やお念仏、読経などなど「これだ!!」という道を歩んで頂けたら
幸いです。
どうかあなたがやすらかとなりますように。

2022年8月1日 0:32
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有り難し
おきもち

本当に正しいとは何か?正法とは?本当に正法以外は偽物。

八聖道(八正道)によって死の恐怖が消せるか?
消せます。
ただし、八正道といっても世に蔓延する八正道は解釈がトンチンカンなものが9割。本当に正しい会得が大事。正しく会得すれば人は誰でも法を悟る。
私はヌードルメーカーに水を適当に入れてました。どうしても麵はできませんでした。笑
適当だったからです。調理も仏道も同じ。正師、正道、ただしい修行法、正しく自己を見つめ自己の本来の姿を見極めれば、死の恐怖も滅することも可能です。
一般的な八正道の解釈の間違いを指摘しておきます。🍢
(1)正見(正しいものの見方)…見方ではない。見方と捉える時点で思考ですから✕です。しかも正しい・正しくないというのは人間の考えや価値観。仏の正見とは、ものの実相をそのままその通りに人間の我見の介入なしに映るままに処すること。非思量。
(2)正思惟(正しい思考)…正しい思考という曖昧さで✕。テロリストですら自分の考えは正しいと思っている。
(3)正語(いつわりのない言葉)…言葉が発せられる際、その語そのものに元々正邪・正誤はないと知る。
(4)正業(正しい行為)…上に同じ
(5)正命(正しい職業)…職業に貴賎なし
(6)正精進(正しい努力)…元々六感は事実に同期して精進されている
(7)正念(正しい集中力)…人は何をするにも集中は不要 飽きたら飽きたことに集中している
(8)正定(正しい精神統一)…精神統一ではなく考えを離れた生活のこと。非思量。
正見とは非思量。我見や私見・見解ナシのまっさらな事実が正見です。
一休さんや仙厓の「死にとうない」というのは(ノД`)・゜・ギャー、死にたくない!という泣きわめきではないですよ?生死のこだわりも超えた上で(´-`)「あ~死にとうないわい(ほっこり♨)」と笑い飛ばしているだけです。そりゃぁ誰だって「あー、生きていたいのう。ドラえもんやタイムマシンができるまで。(笑)」デキルンカイ
死の恐怖は死が事実に対して恐怖は副産物と見抜くことです。死は事実で恐怖は想念。死を職業にする世界をご覧。葬儀、火葬、石材店、僧侶、みな導き先がある。死んで終わりではないゾ?死んで終わりにするから人は恐怖に苦しむ。だから仏教では菩提心を説く。菩提心のない仏道は信仰のないマインドフルネスと同じで邪法。健康・美容のためのヨガのようなものに堕し方向がズレる。人間性が向上しない。要注意。

2022年8月2日 0:29
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

星 大晃 様
ご回答ありがとうございます。恐れたくない!と思う気持ちこそ、執着だと気が付きました。確かに、執着を手放すには恐怖の受容が不可欠ですよね。死を恐れない道は魔道というのは初めて拝見しました。恐怖の完全な消滅が是ではない、ということですね。
また、優しいお気遣いのお言葉も頂き、ありがとうございます。
この度は暖かなご回答、本当にありがとうございました。

吉武文法 様
ご回答ありがとうございます。また、以前の質問もご覧頂いたとのこと、ありがとうございます。
座禅などの誤った実践は危険とのこと、初めて知りました。適切な指導というのは、お寺(勿論、宗派等は調べた上で)の坐禅体験などでも良いのでしょうか?
また、悟りが酩酊状態とは違うとのお話、大変納得致しました。確かに恐怖を誤魔化すだけなら他の娯楽でも良いですよね。
ただ、死の恐怖の絶望感は強烈なので、正直無くしてしまいたいのが本音です。でも、これこそ執着ですよね。自然な感情を消したいという観念で苦しんでいる気がします。でもやっぱ怖い…と、堂々巡りになってしまっています。
このループを、観念の方を消すことで仏教的に解決できると信じて、とりあえず八正道に取り組んでみます。 
この度は暖かなご回答、本当にありがとうございました。

丹下 覚元(たんげ かくげん) 様
ご回答ありがとうございます。
八正道で死の恐怖を滅せられるとのこと、とても心強く思います。正しい会得が大事なのですね。私もぜひ正しい会得をしたいです。
「正師、正道、ただしい修行法、正しく自己を見つめ…」とありますが、やはり誰かに師事しないと正しい会得は得られないのでしょうか。

自分でできる事として、今回教えて頂いた解釈の八正道をよく咀嚼して理解し自分の中にある想念を変えていきたいと思います。死と恐怖が別物であるというのは知識では理解出来ているのですが、湧き上がる恐怖に負けています。「自分の見解を置いておいて、事実は事実だけを捉える」という訓練が足りないのだと思います。八正道を実践していく事がこの訓練になると認識しております。また、菩提心も重要なのですね。自分だけ良いではダメという事ですよね。もっと外部にも目を向けようと思います。

また、丹下様のインタビュー記事も拝見し、大変感銘を受けました。「体験をもってわかる」ご経験をされたとのことで、私も丹下様のように全身で仏教を理解したい、密かに思っております。
この度は暖かなご回答、本当にありがとうございました。

「死ぬのが怖い・死恐怖症にお坊さん知恵袋」問答一覧

親離れと親の死に対する恐怖心

通勤時間短縮や自立した生活をするために、数年前から一人暮らしをしている30代女性です。 両親とは仲が良いこと、実家も県内にあることから、月一回は帰省しているのですが、ここ最近、一人暮らしの家に帰る度に、寂しさと悲しさが込み上げてきます。 たまに、両親が一人暮らしの家まで送ってくれることがあるのですが、良い歳した大人が別れた後に泣いてしまうのです。 ひどい時は、車中で泣いてしまうことがあります(泣くと親を心配させるので、こっそり泣いています)。 また、両親に持病があることや、ここ数年で他の親族の死を何度か経験したことから、いつか来る両親の死のことを考えてしまうことが増えてしまいました。 命あるもの、必ず死が来ることは分かっているつもりですが、両親が亡くなったら、私はメンタルが保てないのではないかと、すでに恐怖を感じています。 実家から帰省後、悲しくなって泣いてしまうのは、親離れができていないせいだと思っているのですが、親離れをするためにはどうしたら良いでしょうか?やはり、帰省回数を減らす事が得策になるのでしょうか? また、いつかくる両親の死に対する恐怖にはどうしたら打ち勝つことができるのでしょうか? どうか、ご助言をいただけないでしょうか。

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大切な人を失うことへの恐れ

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有り難し有り難し 6
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お世話になっております。 久しぶりに相談します。 突然ですが死にたいです。 でも怖くて踏み出せません。 人間の生理的なものなので「死にたくない」と思うのは仕方のないこととわかっていますが 『今この曲がり角で刃物を持っている人に遭遇したら刺されるな』とか 『地震でマンションの上の階が落ちてきたらつぶされて死ぬな』とか 『通勤ですれ違ってる人に何かをしてしまって恨まれて殺されてしまうな』とか 常にありもしない妄想で不安になって死ぬのが怖いです。 これを死恐怖症と呼ぶらしいのですが、この症状なのかなと最近思っております。 なぜ死にたいかというと人生に疲れたというか。 私の様子を聞くと、きっと多くの人が「え、そんなことで!」と驚かれるのでしょうが もう、しんどいんで若いうちに人生終わらせたいです。 プライドが高いせいか、思うように人生が進まず『なぜ?』と 劣等感にさいなまれることが多くしんどいです。 知り合いに『今の状態がメリットがあるから無意識にそのように生きている。 そのメリットを享受しているのにデメリットを嘆くのはおかしい』と指摘され、 なんだかもう難しいことは考えたくないし、 死んで困ることはないのでもう生きてる意味もないかなと漠然に考えてます。 そんな時に『死にたくない』を乗り越えれればいつでも死ねるなとふと思いまして。 死ぬための方法はネットを漁ればいくらでも出てきますが、 死を克服するための方法はほとんど出てきません。 死を受け入れる、もしくはその恐怖を克服する方法は何かありませんか? 教えていただけますと幸いです。

有り難し有り難し 13
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